こちらが夏休み編【揺らめく陽炎(かげろう)】最終話となります。
(今更ですが、旅行編だけ検索しやすいようにカテゴリーを分けました)
帰り道のこの情景を思い浮かべながら、頭の中ではひたすらクラムボンの“波よせて”が流れていました。
とても素敵で癒される曲なので、よろしければ拍手話と併せてチェックしてみてください。
「それじゃあ、お世話になりました」
「ありがとうございました。またのお越しをお待ち致しております」
お世話になった仲居さんや男性のスタッフに見送られ、受付を後にする。
と、いつの間にか上品な薄紫の着物に身を包んだ千佳さんが出入り口の表に立っており、にこにこと笑顔を浮かべて近付いてきた。
「千佳さん、この度は何から何までお世話になりました」
「私こそ、早乙女様がこんな素敵な方と一緒にお見えになられて感激しきりでしたわ」
「あの、また友人達とも一緒に遊びに来ていいですか?」
「ええ、ええ、もちろんですとも。女性同士でも気兼ねなくお寛ぎいただけますよう、楽しみにお待ちしておりますわね」
「って俺とじゃねーのかよっ」
「乱馬」
「あ…っ」
そんなあたし達のやり取りを微笑まし気に見つめながら、
「もし宜しければこちらの看板の前でお写真をお撮りになりませんか?後程ご自宅の方にお届けさせていただきますので」
カメラを片手に上品な笑顔を浮かべる千佳さんの言葉に、あたし達は素直に甘えることにする。
そう言えば、昔も旅先で集合写真を撮ったことがあったわね。
あの時は確か、あたしと乱馬は少し離れた場所で立っていて、乱馬の腕には右京とシャンプーが絡みついていたっけ。
そんなあたし達が数年後にこうして二人で旅行に来ているなんて、人生って本当にわからない。
今度こそ丁重に礼を述べ、旅館を後にする。
気になっていた宿泊代は予想よりも遥かに懐に優しい金額になっており(どうやら先輩のご厚意で六割掛けになっていたらしい)、最初は「今回だけはいい」と言う乱馬に「だめよ。ただでさえ、一人暮らしでお金が掛かるんだからこういうことはちゃんとしないと嫌なの」と突っぱね、最後は無理やり鞄の中に捻じ込んだ。
「ったく素直じゃねーやつ」
「素直じゃなくて悪かったわね」
「かわいくねー」
「はいはい、かわいくもなくてすみませんでした。……でも」
「でも、なんだよ?」
「奢ってもらうって思ったらこれから"あそこ行きたい"とか言いにくくなっちゃうけど、割り勘だったら遠慮なく誘えるでしょ」
「…まあ、そう…か?」
「だからまたお金貯めて一緒に来ようね」
「…おう」
浦葡色の暖簾を潜り、敷地内の濡れた石畳を真っ直ぐ進めば、昨日歩いてきた海沿いの道を今度は反対方向に歩き出す。
「楽しかったねー」
「おー」
ザ、ザザ――……
「また来たいねー」
「おー」
ザザン……ザ――…
「乱馬、さっきからおーしか言ってないじゃない」
「そーか?」
ザァ…ザザ――……
「……明後日から、学校頑張ろうねー」
「おー」
「あんた、怪我とかには気を付けなさいよ。すぐ調子に乗るから」
「おー」
「あ、あと先輩によくお礼言っておいてね」
「おー」
ザ、ザン…ザザ――……
「…ねえ。本当にさっきから"おー"しか聞いてないんですけど」
「うるせーな。そーいう気分なんだよ」
「なにそれ。意味がわからない」
「別にわかんなくていーっての」
「あ、かわいくないわね」
「かわいくねーのはおめーの代名詞だろーが」
「ほんと素直じゃないんだから」
「あかねに言われたくねーよ」
「なによ。あたしはいつでも素直じゃない」
「ああ、まあ、確かに昨晩は素直っちゃ素直――」
「それ以上言ったら怒るからっ!」
「いってぇ!お、おめえ、殴ってから言うんじゃねえよっ!」
「なによ、今のは乱馬が悪いんでしょっ」
「あっ、こら!今みてーに屈むと胸元見えちまうんだからなっ。女ならもっと気を付けろ!」
「ちょっとどこ見てんのよっバカっ!」
「バカはおめーだ。おれはただ、親切心で言ってやってるだけで――」
「スケベ」
「あのなー。男なんてみんなスケベな生き物なんだからな?」
「そんなのあんただけでしょうが」
「あめーな。良牙だってムースだって澄ました顔してるけどみんな似たようなもんだぞ」
「ちょ、ちょっと、具体的に名前を出すのはやめてよっ」
「それにあれだ、真之介の野郎だって頭の中ではぜってーやらしいこと考えてんだからな」
「やめてってば!また学校で会うのにっ」
「また会うから忠告してやってるんでぃ」
「もう…ヤキモチ妬き」
「はあっ!?それはあかねのほうだろうが」
「おあいにく様。あたしは乱馬ほどヤキモチなんか妬かないもん」
「よく言うぜ。高校の時は毎日シャンプーやウっちゃんに――」
「あ、なんかこういう時に他の女の子の名前聞きたくない」
「お、おめーなぁっ!」
「なによ」
ピタリと足を止めた乱馬の姿を振り返る。
「なに?」
「かわ……」
「え?なに?聞こえなかった」
「……なんでもねえ」
「なによ、気になる。もう一回言って」
「あー、もーうるせえなあ」
「いいからもう一回!」
「だーかーらー。あかねはかわいくねーなっつったんだよ」
「なによそれ、期待して聞いて損した!」
「だからなんでもねーっつっただろーが」
「バカッ、嫌いっ!」
「へーへー」
「ほんっと意地が悪いんだからっ!」
「あー、そりゃわるーございましたっと」
「もう知らないっ」
「へぇー」
…あれ。
流石に言い過ぎちゃったかな?
少しだけ声の低くなった乱馬の様子にちらりと視線をやる。
瞬間、とくんと跳ねる胸の鼓動。
その横顔は言いたい放題の軽口とはまるで別人のように真剣な眼差しで。
真っ直ぐ前を向きながら、ぼそりと呟く。
「…おめー、大学でもそーやってかわいくねー態度でいろよ」
「なによ突然。大体あんた相手じゃあるまいし、いきなり悪態なんかつけるわけないじゃない」
「じゃーせめて他の男と喋んな」
「変なの、乱馬らしからぬこと言っちゃって。どうせまた嘘だってからかうんでしょ」
「……」
「乱馬?」
ザアー…と、波の音がやけに大きく聞こえた。
それがなんだか、胸に迫り来る切ない想いと妙に重なっている気がして。
「…乱――」
「冗談。んなこと出来るわけねーよな」
「乱馬」
「あー、なんか海の匂いって思ったよりすげーなぁ」
「…」
…ずるいよ。
そうやってまた誤魔化すから、あたしは込み上げてくる感情のやり場をなくしてしまう。
これは潮風のせいだから。
きっと慣れない潮風のせいだからと自分自身に言い訳して、ツンと痛くなる鼻の奥に気が付かないフリをするだけ。
繋いだ手にぎゅっと力がこもるのと反比例するように、歩く速度がどんどんゆっくりになっていく。
駅に着いたら、もう二人の時間は終わり ―。
後ろからやってくる家族連れや散歩を楽しむ老夫婦に追い抜かれながら、ゆっくりと歩く。
波は穏やかだ。
頭上からは容赦なく陽射しが降り注いできて、あたしの帽子のつばが顎の下で濃く影る。
足元の短い影が重なり、二人の境界線はわからない。
ザザァ――……
ザン…ザザ――……
この時間を惜しむように波の音に耳を傾けていると、暫らく沈黙を貫いていた乱馬が不意に口を開いた。
「…昨日のあの水着さ」
「え?」
「ちゃんと大事に取っとけよ」
「…なんで?もう着ちゃいけないんでしょ?」
「あのなー」
「なによ。言ってくれなきゃわかんないじゃない」
そうよ。
女の子はいつだってちょっと不安で。
そして淡い期待を胸に抱いているものなの。
「ったくおめーはほんっと鈍感だよな」
「なによ、乱馬だって人のこと言えないじゃない」
たとえば今とか。
「はあっ!?俺のどこがだよ」
今とか。
「俺はいつだって正直だぞ」
今とか。
あたしはこの挑発するような言葉の応酬のせいにして、隠していた本音を漏らす。
「あーあ。せっかく、新しい水着だったから何か言ってくれるのかと思ったのにな」
「だから昨日、ちゃんとやらしーっつっただろーが」
「そ、それは水着への感想でしょ!?それに何よ、やらしいって。あれはちゃんとした水着だもん」
「だーっ!お、おめー、まさか、あんなピラピラの水着着て近所のプールでも行くつもりだったんじゃねーだろうなぁ!?」
「そんなこと思ってないわよ、バカっ」
「どーだかな。大体おめーは――」
「…」
「な、なんだよ、その目は…」
「…もういいっ」
「もーいいってなんだよ」
「もういいはもういい、言葉通りよ。もう着ないから」
「な、なんでそーなんだよっ!?」
「……だって」
「だって?」
「乱馬、ちっとも感想とか言ってくれないんだもの」
「そ、それは…っ」
「じゃあ似合ってた?似合ってなかった?」
「え…っ…あ、あの…」
「…」
「だから、その…だな」
「…なによ」
「ま、まあ、ずん胴のあかねでもちょっとはマシに見えたんじゃねーの?」
「…ちょっと。それってまさか、褒めてるつもりじゃないでしょうね?」
「充分褒めてんじゃねーか」
「どこがよっ!」
もしかしてこれって褒め言葉なのかしらと一瞬迷って、いやいやと首を振る。
乱馬との付き合いの中で素直に褒めてくれるような性格じゃないことは重々承知しているが、いくらなんでもずん胴に見えない=褒められていると受け取るのは流石に女の子として悲しいものがあるだろう。
ああもう、やっぱりね。
いつまで経っても乱馬は乱馬で。
またこうして何となく有耶無耶になったまま、もうすぐ駅に着いてしまうのかしら。
そう思った時だった。
「…に、似合ってた」
「え?」
「だ、だからっ!お、おめーによく似合ってたっつってんだよっ!」
「……うそ。本当に?」
「……」
「ねえ、乱馬」
「…んだよ」
「お願い、もう一回言って」
「だーっ!んな恥ずかしーこと二度も言えるかっ!」
「ケチっ!なによ、言っても減るもんじゃあるまいし」
「~…っ」
「なに?よく聞こえなかった」
「だ、だから…っ」
「だから?」
「~っ!」
「だからなによ」
「だ、だからっ」
「…」
「…………いつか、俺が完全な男に戻ったら」
「あ…」
「そ、そん時、もう一回言ってやるっつってんでぃ!」
「…乱馬……」
ザザァ――……
ザン…ザァ――…………
「…じゃあ、また海に連れて来てね」
「…おー」
「絶対約束だからね」
「しつけーな、わかってるっつーの」
「どうかしら。あんたっていまいち信用無いのよね」
「おいっ!」
「冗談よ冗談。すぐムキになるんだから」
「お、おめーなぁ~」
「乱馬」
「なんだよっ」
「…………ありがとう」
「……」
「楽しみにしてるわね」
「……おう」
…あーあ。
どこまでも延々と続くように思われたこの浜辺もそろそろお終い。
駅へと続く大きな交差点の信号が目に入り、あたしはサンダルの中に入り込んだ砂を取り除くために少し屈んで片足を浮かせる。
支えにするように片手で乱馬に掴まり、そのまま素足の裏に付いた粘土色の砂を手で払った。
「おい。だからそーやって屈むと胸元が見えんだっつーの」
「しょうがないじゃない。それに今は乱馬しかいないからいいでしょ?」
「…」
影になっていた視界が不意に青いシャツで覆われ、帽子のつばが持ち上がる。
「乱馬?」
…っ、
「…あちーからそろそろ電車に乗るか」
「………う、うん」
あたしの荷物をひったくるように肩に掛け、空いた左手であたしの腕を取ってずんずんと一歩前を歩く。
おさげが揺れるシャツの背中はぐっしょりと、一際濃い青に色を変えていた。
……あのね、乱馬。
大好きよ。
横断歩道を渡って後ろを振り返ると、さっきまであんなに近くに感じた海が陽炎の向こうにもやもやと揺らめいている。
あたしが帽子を直すフリして拭った頬の雫は。
昨日の海と同じ味がした。
< END >
♪ 波よせて / クラムボン
続きを隠す
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こちらは眼鏡にまつわるお話で、高校生編・大学生編・社会人編と
それぞれ別物のお話としてのシリーズとなります。
尚、大学生編に関しては時系列は特にない読み切りとしてお楽しみください。
+ + + + +
お弁当を食べ終わった昼休み。
今月発売されたばかりの雑誌を広げながら、熱弁を奮っているのはあたしの親友ゆかとさゆりだ。
「今流行りは眼鏡男子なのよ!」
「眼鏡男子~?」
「そう。眼鏡を掛けたちょっと草食系で知的な感じの男の子」
「どう?あかねもキュンとこない?」
「まあ…かわいい、とは思うけど…」
でもあたしの周りにいる眼鏡男子って言ったらムースと東風先生、それに乱馬のおじさまくらいだものね。
東風先生は元祖眼鏡男子なのかもしれないけれど、男子って呼ぶには憚(はばか)れるほど大人で包容力があって知性もあって…うん、眼鏡男子と言うよりは眼鏡を掛けた男性って感じ。あ、でもこれじゃあ何の捻りもないかしら。
あとはムースでしょ。
確かに眼鏡は眼鏡でも、あの瓶底眼鏡じゃあね。
ついでに草食系どころか、超の付く情熱屋さんだもの。といっても相手はシャンプー限定だけど。
あんな風に想ってもらえるなんて羨ましいなと思いつつ、ムースとみんなの想像する眼鏡男子とではかなりかけ離れてるからこれもちょっと違うでしょ。
あとは乱馬のおじさま…も無しってことで。(そもそもあれは眼鏡と言っていいのかしら?)
「あー、でも眼鏡男子とする時って、鼻がぶつかったりしないのかしら?」
「鼻がぶつかる?なにが?」
手に持った雑誌をくるくると丸めて胸の前で抱えながら、大袈裟に悶えるさゆりを前にあたしは一人冷静なツッコミを入れる。そこにすかさず答えるのはゆかだ。
「もう、あかねったら鈍いわねえ。キスよ、キ・ス!」
「キ、キスぅ!?」
「そうよ。眼鏡があると邪魔でぶつかっちゃわないかって話」
「あ、ああ、そっか、そうよね、うん」
昼休み中とはいえ、思わず教室の真ん中でキスだなんて大きな声で叫んでしまったことが恥ずかしくなり、あたしは慌てて取り繕ったような返事をする。
が、ここでゆかとさゆりからの思いがけない質問にあたしは再び叫ぶことになる。
「で?あかねは?」
「あたし?あたしがなによ」
「またまた、とぼけちゃって~。乱馬くんとのキスよ」
「キ…ッ!」
「実はとっくにしちゃってるんでしょ?…あ、もしかして、まさかその先まで……」
「す、す、するわけないじゃないっ、あ、あたしが乱馬とキスなんて…っ!!」
「しーっ!あかね、声が大きい!」
「あ…っ」
今度こそあたしは両手で自分の口を塞ぐ。
その様子を見て呆れたような声を出すのはゆかだ。
「こりゃ演技じゃなくて本当に何もなさそうね」
「だ、だからそう言ってるじゃないっ」
「うーん。でもさぁ、好き合ってる若い男女が一つ屋根の下で暮らしてるわけでしょ?」
「ちょっとさゆりまで!だ、大体、なによ、好き合ってるって――」
「でも実際、あかねは乱馬くんのこと好きでしょ?」
「う…っ」
…そう。
最近は自分の気持ちを誤魔化しきれず、大っぴらに宣言することこそないが、それでもこの親友二人の前では素直に自分の想いを認めている。
小さくコクリと頷くあたしに、満足気にさゆり達も顔を見合わせると
「じゃあやっぱり好き合ってるんじゃない」
「そ、そんなこと…」
「だぁって。傍から見てたらバレバレよ、二人とも」
「そうそう。あんなあかねに対して独占欲剥き出しで、あれで好きじゃなかったら一体なんなんだって話よね」
「…」
…そりゃあ、あたしだって。
時々は。
ほんの時々は二人になった時にドキッとすることはあるし、不意に抱きかかえられた時に胸の鼓動がトクンと跳ねるのも痛いくらいに感じている、けれど……。
乱馬がそこから踏み出そうとしない以上、あたしだってどうしていいのかわからない。
というより、ああ見えて実は他の女の子にも面倒見のいい乱馬の様子を見ていると、みんなが言うほど自分だけが特別な存在とはどうしても信じることが出来ないのも事実で。
ちらりと教室の隅に視線を走らせる。
そこにはひろし君や大介君達と一緒にトランプをして大口開けて笑う乱馬の姿。
…あ、難しい顔した。きっとババを引いたんだわ。
…でもって大介君はババを避けたわけね。そんな分かり易く顔に出しちゃって、ほんとポーカーフェイスが出来ないんだから。
一瞬見るつもりが、ついその姿に目を奪われる。
と、そこにすかさずゆかがあたしの脇を小突いて茶々を入れてきた。
「ちょっとぉ、見惚れるなら家に帰ってからにしてよね」
「み、見惚れるだなんてそんな…っ」
「はいはい。全く素直じゃないんだから」
「もうっ」
拳を振り上げるフリをして、くしゅんとクシャミが出る。
どうやら誰かが窓を開けたらしい。
外から教室の中に入ってくる風に乗って、また鼻がむずむずしてクシャミを一つ。
「やだ、あかねって花粉症だったっけ?」
「え、ううん。そんなことはないと思うけど…あ、でもなんだかちょっと朝から目が痒いかな」
「あら、それまずいわよ。本当に花粉症かも」
そう言って何やらゆかが自分の鞄の中をごそごそ探ると、じゃーんと眼鏡ケースを取り出した。
「これ、何か知ってる?」
「眼鏡でしょ?」
あれ?でもゆかも視力はいいはず…。
「惜しい。眼鏡は眼鏡でも花粉症用の眼鏡よ。ほら、縁が完全に覆われてるでしょ?」
「へえー。一見すると普通の眼鏡と変わらないように見えるわね」
「そうなの。実は私もつい最近買ったばっかりなんだけど、結構楽になるわよ」
「なるほどねぇ。ね、ちょっと掛けてみていい?」
「もちろん」
思えばあたしが眼鏡を掛けるなんて視力検査の時のいかにも機械的なあれくらいだ。
少しドキドキしながら両手でフレームを持ち、そっと顔に掛けてみる。
「どう?」
「あー、あかね、すっごい似合うわよ!」
「そ、そう?」
「眼鏡姿のあかねなんて何だか新鮮ね。でもいい、いい。すごく似合ってる!」
「本当?ありがとう」
へへっと笑い、眼鏡を外して返そうとした時だった。
「おい!もうとっくにチャイムは鳴ってるんだぞ!」
「あ、しまった!じゃあね!」
「あ、ちょっと!」
すっかり盛り上がっていたあたし達は予鈴も聞き逃し、気が付くと古文の先生が教壇に立っている。
お互い「後でね!」のジェスチャーを送り、何はともあれ自分の席に着くあたし達。
慌てて教科書を開くあたしの姿を少し離れた席から面白くなさそうに乱馬が見つめているだなんて、あたしはこの時、気付きもしなかった。
*
「ふう…」
図書委員の会議を終えて放課後の教室に荷物を取りに行く。
帰りのホームルームを終えてから優にニ時間は経つ教室の中は誰の姿もなく、ガランとした空き箱のよう。
それでも一つの机だけ通学用の鞄が置きっぱなしになっており、それは特定の部活に籍を置かない乱馬のものだとすぐにわかった。
どうやら今日はまだ学校にいるらしい。
その理由が部活の助っ人なのか補習なのかは分からないが、少なくとも帰る時に教室に荷物を取りに来ることは間違いないわけで。
ここで少し待っていたら、もしかしたら一緒に帰ることが出来るかしら。
そう思ったあたしは自分の荷物をまとめるだけまとめておこうと、自分の席に向かい机の中の物を鞄に移す。
と……。
「あ、これ。ゆかに返し忘れちゃったんだわ」
机の中から出てきたのは、昼休み中に貸してもらった花粉症用の眼鏡。
ピンクと透明のセルフレームで出来たそれは一見普通の眼鏡にしか見えず、シンプルながらもゆかに似合う女の子らしいデザインだ。
「……」
あたしはなんとなくその眼鏡を掛けてみると、教室の中をぐるりと見渡す。
特別度の入っていないレンズ越しに見える景色はいつもと何の変わりもない。
(あーあ。眼鏡を掛けて見た相手の気持ちがわかればいいのにな)
そうよ。
そしたら今、乱馬が誰を好きで、どうしたいのかがわかるのに。
そこに含まれる淡い期待と、期待通りに事が運ばないことへの不安な気持ち。
東風先生を想っていた頃はどんなに胸が痛んでもご飯だってしっかり食べれていたし、笑うことだってできていたのに、悔しいけれど今のあたしは乱馬の一挙一動に浮かれたり落ち込んだり、何かと心が忙しい。
(そりゃあね。流石に嫌われてるとは思わないけれど)
だけど乱馬があたしを女の子として好きかどうかと聞かれたら、その答えは曖昧で。
もしかしたら許嫁だから仕方なくとか、呪泉郷での死闘を一緒に乗り越えてきたもはや戦友みたいな感覚なんじゃないのかしらと思うことも一度や二度ではなかった。
(本当はね。あたしだって……キスくらい、してみたいなとは思うけど)
だけどいくらあたしがそう思ったって、一人だけがそのつもりでも出来ないのがキスなわけで。
おかげであたしの中でのキスは猫化した乱馬に唇を重ねられた、あのちょっぴり悲しい記憶だけ。
あれだって乱馬はまったく覚えてないわけで。
…あ、やだ。
思い出したらまた少しだけ胸が切なくなっちゃった。
それを誤魔化すように、あたしは自分も猫になったつもりで強がって鳴いてみる。
「…にゃ~ん」
「あ、あかねっ、それは一体なんの嫌がらせだっ!」
「…って。やだ、いたの!?」
ガタタ…ッと派手に机にぶつかりながら、あたしに睨みを利かせてくるのは今しがた考えていたばかりの乱馬の姿。
その恰好は動きやすい服装でも何でもないいつものチャイナ服だから、どうやら部活の助っ人ではなかったらしい。
あたしは取り繕うように早口で聞いてみる。
「な、何してたの?部活…じゃないわよね。補習?」
「補習じゃねーよ」
「じゃあ委員会?…なわけもないわよね、まさか」
「うるせーな。俺が放課後残ってたら何か都合がわりーのかよ」
「別にそういうわけじゃないけど…」
なんだろう。
こうして二人きりで残る放課後の教室って、やけにドラマチックな気がしてならない。
校庭から聞こえてくるランニングの掛け声とか、校舎のどこからか聞こえてくる吹奏楽部の演奏とか、そんなもの全部含めてあたしと乱馬がこの扉の閉まった教室の中で二人きりでいることを演出しているみたいで。
サア…と窓から吹く風に一瞬目を閉じて髪の毛を押さえると、その窓を閉じた乱馬がいつの間にかあたしの目の前に立っていた。
「あ…、ありがと、窓、閉めてくれて」
「……」
「あの…」
「……」
…どうしよう。
ただ、立っているだけなのに。
目の前に乱馬が立っているだけなのに、情けない程に自分の鼓動が速くなってくるのを感じる。
それを誤魔化すためあたしは適当な話題を探すけど、こんな時に限って都合よく口から出てくる話題なんて一つもなくて。
「そ、そろそろ帰ろっか。あたしも委員会が終わったし、帰りに――」
「おれとするわけないってどーゆー意味?」
「え…?」
不意に乱馬の声で遮られる。
いつものふざけた調子とは違う、少しだけ緊張したような低い声。
あたしが突然の質問に意味がわからず固まっていると、「鈍いな」と言わんばかりに溜め息をつき、今度は少し苛々した様子でまた口を開いた。
「だ、だからっ、昼休み言ってただろーが!お、おれとは、その、キ、キスなんかするわけねえって」
「あ、あれは…っ」
聞かれてたんだ。
そう思ったら全身の血が上ってカアッと顔が熱くなる。
が、そんなことはお構いなしというように乱馬があたしから目を逸らしながら
「お、おれとしねーんだったらあかねは誰とそーゆーことするつもりなんだよっ」
なんて見当外れなことを言うものだから、あたしもついムキにならざるを得なかった。
「はあっ!?なんであたしが他の誰かと、キ、キスなんかしなくちゃなんないのよ!」
「だ、だっておめーが言ったんだろーがっ!お、おれとはするわけないって!」
「そ、それは会話の流れで…っ」
「会話の流れだぁ?」
そうよ。
あの時はただ、ゆかとさゆりにからかわれて。
まるでそんな雰囲気になんかならないあたし達を冷やかすような発言に、照れる反面、少し悲しくて感情的になってしまったあたしのつまらない強がりだ。
「も、元はと言えば、眼鏡を掛けてると、その、キ、キスがしにくいとかそんな話で…」
「……」
「そのうち、あたしと乱馬のことをからかわれたから、ちょっとムキになっちゃっただけ」
「もういいでしょ!?」そう言うように今度こそ帰り支度をしようとする。が、咄嗟にあたしの手首を掴んだ乱馬の手が熱くて。
その熱に一瞬気を取られていると、確認するように乱馬が再び口を開いた。
「じゃ、じゃあ、ほんとはどうなんだよ」
「本当って?」
「だ、だから、その…っ」
「…」
「…だーっ!鈍い女だな、おめーはっ!」
「なによそれ。言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ」
だってあたしは恥ずかしかったけれど正直に昼休みの会話を白状したもの。
それなのに鈍いと怒られるだけではたまったものじゃない。
ふんっと鼻息を荒くするあたしを前に少し力が抜けたように乱馬が溜め息をつき、空いた手で自分の頭をガリガリ掻き毟って何やら呻いている。
と、突然何かを思いついたようにあたしの肩を掴み、今度こそ切羽詰まって語り掛けてくるその声は心なしか上擦っていた。
「じゃ、じゃあ、試してみるか…?」
「え?」
「め、眼鏡、で…は、鼻がぶつかるかって…」
「そ、それって、あの…、」
「だ、だから、その、……スすんの」
「え…」
「……」
…どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
まさかこんな展開になるなんて思わなくて、今更ながらあたしはゆかに借りた眼鏡を掛けっぱなしだった間抜けな自分に気が付く。
「あかね……」
「ウソ…、」
「……」
「…あ、ちょ、ちょっと……ダメ…っ」
「…っ!」
気が付くと迫る乱馬の胸を押し返していた。
恐る恐る顔を上げると、そこには今まで見たこともないような傷付いた乱馬の表情…。
それを見てしまった瞬間、ズキンとあたしの心臓が鷲掴みされたみたいに痛くなる。
「あ…あの、あたし……」
「…、」
「ら、乱馬…あの……」
「………………わりぃ、突然……」
「ち、違うのっ!」
くるりと踵を返そうとする乱馬の腕を慌てて掴む。
違うの、そうじゃない。
そうじゃなくって。
「あ、あの、この眼鏡はゆかのだからっ」
「……、」
「なんか乱馬が他の女の子とキスするみたいで嫌で、だから…っ」
「っ、…そ、それって…」
「あ…っ」
勢いとはいえ あたし、すごいことを口走っちゃった。
今度こそ全身の血が逆流するような恥ずかしさで火照る頬の熱を自覚するも、再び乱馬があたしの顔を覗き込んでくるからあたしには逃げ場がない。
カチャリと。
かろうじて掛けていた眼鏡を外して手に持つと、鼻の付け根の痕を撫でるように乱馬の指先がちょんと触れる。
「それって、その…」
「…」
「お、おれが他の奴と、その、そーゆーことしたらやだ…ってことだよな?」
「…だ、だったらどうだって…」
「ったく素直じゃねー」
へへっと嬉しそうに笑うその顔が。
やっぱりあたしは大好きなんだって、こんな至近距離で見つめて思う。
トクトクと急速に早鐘を打つ鼓動が自分の恋心を表しているようで。
徐々に顔の上に影が落ちてくる中、あたしはギュッと自分の胸を制服の上から押さえると、照れ隠しのように呟いた。
「…め、眼鏡。関係なくなっちゃったけど……」
「…いーんじゃねーのか、別に」
「そっか」
「そーだよ」
「あ、あのね、乱馬――」
「…頼む、ちょっと黙ってて…」
…あ、
重なった唇は想像よりも柔らかくて。
最初の猫化キスとも違う、温かく気持ちのこもったキス……。
はぁ…と安堵のような吐息とともに、触れたそこがゆっくりと離れていく。
まるでこの部屋だけ時間が止まってしまったような感覚だ。
「……し、しちゃったんだけど」
「お、おう」
「どうしよう…これからゆか達に、その…き、聞かれたら…」
「聞かれるって何を」
「だ、だから、その、乱馬と、キ、キス…したことあるかって……」
「あー…」
「……なんて言ったらいい?」
「………あかねに任せる」
「なにそれ。じゃあ乱馬は大介君達に聞かれたらなんて答えるの?」
「うー…まあ、そーだなー……」
「……どうしよっか」
「…………とりあえず事実通りでいーんじゃねーの?」
え。
でもそれって。
…そういう意味になっちゃうわよ?
「で、でも、もしもみんなにバレたら、その…」
キスまでしておきながら、まだどうしても確信の持てないあたしは乱馬の腕を取ると遠回しにそれを伝える。
「なに?」
「あ、あらぬ誤解をされちゃうっていうか、その…」
「なんだよ、そのあらぬ誤解っつーのは」
「だ、だからっ!あ、あたしと乱馬が、その、……つ、付き合ってる…とか……」
ああもう。
なんでこんなことをあたしに言わせるのよ。
そんな八つ当たりにも似た感情で顔が真っ赤に染まっているのを自覚しながら、あたしは下を向いてもごもごと口籠る。
と、突然その頭の上から「はあ…」と深い溜め息が落ちてきた。
「…………付き合ってるって思われたら なんか問題あんのかよ」
「問題っていうか、だ、だって実際、付き合ってないし」
「ほおー…。あかねは付き合ってもねーやつとあーいうことすんのか。そーかそーか」
ってちょっと。
いくら恥ずかしくて照れてるとはいえ、そんな言い方はないんじゃないの?
堪らず反論しようと試みるも、思った以上に胸がズキンと痛む乱馬の態度につい声が震える。
あたしはただたった一言、決定的な言葉が欲しかっただけなのに。
「な、なによ、あたしばっかり悪者にしてっ!」
「…って、あ、あかね、おめー泣いてんのかよ!?」
「泣いてないわよ、バカっ!ただ頭に来てるだけっ」
「いてっ!な、何なんだよ、急に!」
「だって…っ」
「だって?」
…だってずるい。
あたしばっかり不安で、肝心なことは何一つ言われずキスだけされたって、悔しいけれど乱馬は他の子ともキスはしたことあるわけで。
これでまたあたしだけが期待して勘違いなんてことになったら、今度こそやり切れない。
そんな言葉にならない思いをぶつけるようにドンッと硬い胸を叩き、二発目を繰り出そうとしたらすかさずその手を掴まれた。
「ったく、あかねは相変わらずじゃじゃ馬だな」
「お、大きなお世話よっ」
「あのなぁ、おめーが何を勘違いしてんのか分かんねーけど」
「…」
「お、おれは、そんないい加減な気持ちで…その……」
「…いい加減な気持ちで?」
「だ、だからっ!い、いい加減な気持ちで、お、おめーにキ、キスしたわけじゃねーしっ」
「乱馬……」
「相手があかねだったから、その、し、したかっただけであって…」
「…………それ、本当?」
「こ、こんなことで嘘ついてどーすんだよ、バカっ!」
ひどい。
こんな時くらい、もう少し優しい言葉を掛けてくれたっていいじゃない。
そう思う反面、どこまでもスマートじゃない乱馬の告白がじわりとあたしの胸の中を温めていく。
「…ねえ」
「なんだよ」
「じゃあもう、他の女の子とキスなんかしたら絶対許さないんだから」
「バーカ。それはおれの台詞だっつーの」
「なによ、あたしが一体いつ他の男の子とそんなことしたって言うのよ!」
「……いーからもう黙れって」
「…っ」
まだまだ全然ぎこちなくて。
カチッっと当たった前歯に一瞬驚いて唇を離した後、思わず笑ってまたくっついて。
だけどとびきり幸せでポカポカするこの気持ちは、まるで空でも飛べそうな勢いだ。
唇の表面上だけじゃなくって心の距離まですっぽりと乱馬の懐に飛び込んだような、そんな気分。
ぎゅうっと抱きしめられた腕の中に身を任せながら、耳から伝わってくるのは、あたしに負けずとも劣らないほど速くなった乱馬の心臓の音だけ……。
「……ねえ」
「…なに」
「すごい…ドキドキいってるね」
「そりゃあかねもだろ」
「しょうがないじゃない……嬉しかったんだから」
「…っ」
なによ、そんなびっくりしたような顔して。
もぞりと腕の中から見上げると慌てたようにあたしの顔を自分の胸に押し付け、「見るんじゃねえ」なんて威張ってるんだからほんとタチが悪いと思う。
どのくらいそうしていたのだろう。
不意に廊下の向こうからバタバタと走る音が聞こえたような気がして、反射的にパッと身体を離す。
「…か、帰ろっか」
「そ、そーだな、もう夕飯の時間だしなっ」
「きょ、今日のおかず、なんだろうね」
「さーな」
お互い、無駄に元気よく声を出して無駄に笑って。
それでも隠しきれない嬉しさが溢れ、鞄を持っていない手をどちらからともなく繋いで教室の扉のところまで歩いて行く。
その瞬間、バタバタと廊下を走り去るような音がしたのははたして気のせいだろうか。
扉に手を掛けた乱馬が一瞬躊躇い、言いにくそうにボソボソと呟いた。
「…あー、あかね。さっきのあれだけど」
「あれ?」
「その…周りに聞かれたらなんて答えるかってヤツ」
「ああ、うん。それがなに?」
「……多分、考えるだけ無駄だと思うぞ」
「ま、どーせバレるなら手間が省けていっか」と溜め息をつきながら。
隣の教室の扉をバンッと一蹴りすると「んじゃ、帰ろ―ぜ!」と振り向いた乱馬の隣を歩くあたしの頬は、きっと桜の花の色に染まっているに違いない。
「そーいやおめー、クシャミはもう出ねーのかよ」
「あ、そう言えば。昼休み以来、出てないかも」
「ってことはやっぱ花粉症じゃねーんじゃねえの?」
「そうかもね。もしかしたら誰かがあたしの噂話でもしてたのかしら」
「……」
そう言えば、窓辺でゆか達と話すあかねの姿を見てひろし達が「やっぱあかねはかわいいよなぁ、なあ乱馬」「なんでおれに聞くんだよっ」なんつー話をしてたっけなんて。
そんなことを乱馬が思い出してると露ほども知らないあたしは、黙ってしまった乱馬の後を少し早足で追い掛ける。
「もうっ、少しは待ってくれたっていいじゃない!」
「やなこった。悔しかったらさっさと歩け、短足」
「なんですってぇ!?」
まったく、これがファーストキスをしたばかりの会話とは思えない。
だけど、そんな素直じゃない乱馬の後を駆けるあたしの影はスキップするように跳ねているんだから、恋って本当に単純だ。
その晩、「本当は早く二人きりになりたかった」とあたしの部屋で素直に白状されるまであと四時間。
一つの眼鏡が繋いだ、こんな二人の始まり方 ――。
< END >
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こちらは大学生編ですが、特に他シリーズとの時系列はありません。
ほんの日常の一コマとしてお楽しみください。
+ + + + +
「なー」
「んー?」
「まだ終わんねーの?」
「ん―…あとちょっとぉ……」
(さっきもそー言ってもう30分経つんだけどなぁ)
せっかく久し振りに実家に帰省中だというのに、俺の目の前にはパソコンに向かって無表情のままレポートを作成するあかねの姿。
無表情…いや、違うな。
僅かに眉間に皺を寄せ、唇をつんと尖らせて時々うーんと唸りながら、人差し指で頬を掻くその仕草はずるいと思う。
そんな険しく小難しい顔しながら、それでもかわいいなんてちょっと反則だろ?
俺の問い掛けに対して適当な相槌を打ちつつ、忙しなく動くその手元が止まることは殆ど無い。
(こーやって見てるとやっぱ高校生の時とは違うよなー)
あの頃に比べて少しだけすっきりした顔回りは、ただかわいいだけじゃなくてあかねの中の女の魅力を更に引き立たせ、キーを打つその細い指先まで妙な色気を感じさせる。
なんせ高校三年生になってからは、あかねの部屋を訪ねるなんて数えるほどしかなかったからなぁ。
その時だってただ仲良くお喋りってわけじゃなくてどこか張り詰めるような空気の中、お互い緊張して向かい合ってたんだから、とてもじゃないがあかねとどうこうなるような雰囲気じゃなくて。
(今思うともったいねーことしたよな)
もしもあの時、もう少しだけ自分の気持ちに素直になってあかねとの距離を縮めていたら、今頃はもっと違う大学生活があったんだろうか。
例えば俺が家から通える距離の大学を選んだり、逆にあかねが俺の大学の近くの学校に通ったり…。
もしかしたら同じ家にいる時から肌を重ねて…なんてこともあったのかもしれねえ。
そこまで考えてぶるぶると頭を振る。
らしくねえ。
俺はなんの為に今の学校に通ってるんだ。
自分の決めた目標への最善のルートだと思ったからじゃねーか。
そしてそれはあかねも同じで。
あかねの選んだ医療技術学部。その進路を決めたあかねの思いと覚悟を知った時は信じらんねーほど嬉しかったし、だからこそ その夢の邪魔は絶対にしちゃいけねーと思ってる。
けれど……。
俺はあかねのベッドの上に胡坐をかいた姿勢から、もう一度その横顔に視線をやる。
高校時代と変わらない学習机に向かって真剣な眼差しでレポートに取り組むあかねの顔には、見慣れない眼鏡。
薄茶色のセルフレームを掛けたあかねはいつもよりも真面目で、少しお固そうにも見える。
どちらかと言えば童顔な表情に優等生みてーな眼鏡が相まって、パッと見まるで男なんて知りませんって感じだよな。
だけど実際はそうじゃなくて。
あの服の下がどうなってんのかも、どこを触ればどんな声を出すかも、俺はちゃんと知っている。
当たり前だけど、俺の前でしか見せない、俺しか知らないあかねの姿…。
あ、まずい。
んなこと考えてたらまた我慢が利かなくなってきた。
俺は先程からじわじわと押し寄せてくる何度目かの邪な波を追いやりながら、またちらりとベッドの枕元の時計に目をやる。
…もうかれこれ20分は経ったよな?
そう思って再び声を掛けようとした時だった。
「……よしっと。あー、終わったぁ!」
突然大きな声を出し、うーんと両手を天に突き上げる。
そのままぐぐっと背中を反らし、肩の付け根を押さえながら首を左右に曲げるあかね。
身体の凹凸に沿ってぴったりと貼り付く白いブラウスが下着のラインまでくっきりと浮かび上がらせ、あかねにそんなつもりがないとわかっていても妙にいやらしく扇情的だ。
「お待たせ―。ちゃんと待っててくれてありがとね」
っておい、俺は犬じゃねーぞと思いつつ、心は正直で単純なくらいウキウキと鼓動が弾む。
こっちこっちとベッドをポンポン叩くとあかねが何やら苦笑いを浮かべ、それでも素直に近くまで来るとベッドには腰掛けず下に置いてあるクッションに膝をついた。
どうやら、ベッドに引きずり込まれるのを警戒してるらしい。
別に俺だって疲れているあかねに対していきなりそんなつもりはねーけど、そんな態度を取られたら面白くはないわけで。
かといって性急に求めるのも気恥ずかしいし、ここは一つ作戦を立てるとしよう。
まずは手始めに、ずっと気になっていた質問をぶつける。
「なあ」
「なに?」
「おめー、視力悪かったっけ?」
「ううん。そんなことないけど」
「じゃーなんで眼鏡掛けてんの?」
「ああ、これ?」というようにクイッとフレームの端を上げ、
「違うの。これはパソコン用の眼鏡よ」
「パソコン用?」
「そう。ブルーライトカット眼鏡。聞いたことない?」
「…」
「ないわけね」
あ、今ちょっとバカにしただろ。
「これはね、長時間モニターに向かう時に目が疲れないように保護するための眼鏡なの。だから度は入ってないのよ」
「ふーん」
「変?」
「別に変じゃねーけど…」
「乱馬も目は大切にしたほうがいいわよ。なんてったって格闘に動体視力は絶対だもん」
「あ、それなら安心しろ。そんな長時間パソコンに向かうことなんてねーから」
「それはそれで大学生として心配よ!」
まったく…と呆れているものの、別に本気でそう思っているわけではないらしい。
レポートからの解放感ですっかりご機嫌モードになっているあかねの頭にポンと手を置くと、髪を梳きながら俺はさも興味があるように聞いてみる。
「なあ、今大学でどんなことやってんの?」
「それって学科?それとも実技で?」
「実技で。学科のこと聞いても俺わかんねーもん」
「そっか。それもそうよね」
ふふっと笑うとおもむろに俺の手を取り、
「例えばね。こうして腕を負傷したとするでしょ?その時はこうやって固定しなくちゃいけないんだけど、実際に包帯の巻き方とかそれによって痛みが出ないかを確認したり…」
途端に真剣な表情を見せ、実演してみせるあかね。
そんなあかねに俺はもっともらしく提案する。
「そこからじゃやりにくいだろ?ベッドの上、あがれば?」
「うん」
…ほんと、こーゆうところは素直だよなぁ。
もう少し警戒心を持たねーとあっという間に男に騙されちまうんだぞ、と内心舌打ちをしたくなったが、それは後ほど身をもって教えることにするとしよう。
何はともあれ一生懸命なあかねの気持ちを無下にするわけにもいかず、一通り身振り手振りを交えた説明を聞いた後に「へー、ちゃんと勉強してんだな」と感心すると「当たり前でしょ」と胸を張りながら、その表情はどこか誇らしげだった。
これも思えば俺のための勉強なんだよな。
あれだけ不器用なあかねが俺のために。
そう考えると、あかねの努力と根性に胸の奥がじわりと熱くなる。。
「なあ、あかね先生」
「な、なによ、その先生って」
「だって眼鏡掛けてるし」
「眼鏡くらいで…」
「それに今も実技を教えてくれただろ?」
「まあ、そうね」
「でさー、あかね先生」
「なんかその"先生"ってくすぐったいんだけど」
「そーか?っつーか、あかねって小っちゃい子の先生とか似合うと思うんだけどな」
「え…そう、かな」
うん。
確かに似合いそうだ。
自分で口から出任せに喋っておきながら、将来 天道家の道場で小さい子ども相手に稽古をつけて先生と慕われるあかねの姿を想像する。
…うん。やっぱり悪くねえ。
「あかね、小さい子ども好きだろ?将来的に道場で格闘を教えたら喜ばれんじゃねーの」
「あ、それは密かに幼い頃から憧れてた!」
途端にパッと表情が明るくなる。
「でもよー、道場に来るぐれーだから中には手の付けらんねえ悪ガキもいそうだよな」
「あんたみたいな?」
「あほか。俺は幼いころから礼儀正しい――」
「はいはい」
あ、こら!さらっと聞き流してんじゃねーよ。
「でも意外と、消極的な性格だから格闘をして強くなりたいっていうお子さんもいるのよ」
「ああ、まあ確かにそのケースもあるか」
元来、お人好しで優しいあかねのことだ。
きっとそーいうガキも放っておけなくて、寧ろ一生懸命世話を焼くんだろうな。
びーびー泣くガキの頭を撫でながら、優しく諭すあかね…。
そんな微笑ましい光景を思い浮かべていると、それに便乗するようにあかねも嬉しそうな声を出す。
「でね、最初は消極的だった子が次第に積極的になってくるの」
ふんふん、確かに。
「泣いてばっかりだったのに、徐々に気持ちも打ち解けてきてね」
そりゃー、あかね相手ならガキだって打ち解けるのも早いだろう。
…が、ここで俺の豊かな想像力が間違った方向に暴走を始める。
消極的だったガキが次第に積極的に?
気持ちも打ち解けて?
それはすなわち、最初はあかねに慰められているだけのガキが調子こいてあかねに手を出してくるってことか……。
『見て見て、あかね先生!蹴りが決まるようになったよ』
『わあ、すごい。よく頑張ったわね!』
『うん。だから先生、ご褒美ちょうだい』
『ご褒美?なにかな、…あ、良かったらお菓子を作って――』
『あかね先生、ギュッとして!』
『ああ、抱っこね。もちろんいいわよ』
ぎゅ…っ
『あかね先生っていい匂いがするね』
『そう?嬉しいわ』
『あかね先生、柔らかい…』
『ふふっ、急に甘えん坊さんになっちゃってどうしたの?』
・
・
・
・
だーっ!!
ぬわぁにが『あかね先生、柔らかい』だよっ。
桃のようなあかねの胸に顔を埋めやがって、あのクソガキAめっ!
ガキだからって「甘えん坊」の一言で許されるとは何事だ。
俺なんか最初の出会いからそこに到達するまで優に三年は掛かったんだぞっ!
石の上にも三年ならぬ、あかねの乳まで三年。
これはこれでなんだか語呂がいいじゃねーか。
そんな俺の頭の中の怒りと妙な納得など、露ほども知らないあかねは呑気に続ける。
「だけどね、意外とそういう生徒さんの方が将来的に頭角を現しちゃったりして」
ん?
頭角を…現す……。
『あかね先生。俺、また大会で優勝したよ!』
『わあ!おめでとう、クソガキA君』
『ねえ、あかね先生』
『なあに、クソガキA君』
『あかね先生、俺と付き合って』
『な、なに言って…』
『あかね先生にあんなクソおさげ、似合わない。時代は年下の彼が流行ってるんだよ、先生』
『だ、だけどあたしと乱馬はもう結婚してて…』
『構わない』
『こ、子どもだって四人もいるし…っ』
『そんなの気にしないよ。なんだったら俺と五人目目指してバスケットチームを作ろう!』
『で、でもクソガキA君…っ』
『あかね先生!も、もう我慢出来ないよっ、俺の角が頭を出して大変なことになってるんだ…!』
『ちょ、ちょっとやだっ、@&☆?#!?』
・
・
・
・
「…だーっ!!ダメだダメだ、やっぱりダメだっ!」
「な、なによ、突然大きな声を出して!」
「あかね。やっぱりおめーにガキの指導は任せらんねえ」
「ひどい!なんでよ、急に」
「いいから、俺がダメだといったらダメだ!どうしてもっつーんなら俺が一緒にいる時限定だ!」
「なにそれ、意味がわかんない」
「あのなー、誰のために忠告してやってると思ってるんでい!」
全てはクソガキAから守ってやるためじゃねーか。
く…っ、それにしても想像力豊かな自分が憎らしいぜ。
いくら妄想の中とはいえ、あかねに他の男が触れるとは言語道断、許すまじ。
たとえ、その相手が子どもだろうがじじいだろうが関係ねえ。
あかねに触れるならまずは俺を倒してからだ。
大体なんだよ、クソおさげって。
言っとくけど子作りだって毎年記録を塗り替える勢いで励んでやるからなっ!
俺は目の前のあかねをじっと見つめると、斜め下から「なに?」と見上げてくる。
眼鏡を掛けたその無垢な表情すらも、はっきり言って……まずい。
「…あかね先生」
「ちょっとなに、まだふざけてるの?」
「あかね先生は俺だけのもんだからな」
「ちょ、ちょっと…」
「ぜってー他の男には渡さねえ」
「やだ、どうし…ま、待って、乱馬――」
「…っ」
かくして。
それからあかねが俺の前で眼鏡を掛けることは二度となかった…とかあったとかなかったとか。
< END…? >
まさかのピンクver.に続きます…。
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こちらはバレンタインデーの【線路沿いの帰り道】の続編・ホワイトデーのお話となります。
(青字をクリックするとその場所に飛びます)
バレンタイン同様、今回も縞さんに素敵なイラストを描いていただきました。ありがとうございました。
バレンタインのお話、そしてこちらの拍手話と併せてお楽しみいただけると嬉しいです。
【 不器用な魔法使い 】
一つだけ荷物もなくポツンと佇む、主(あるじ)のいない机。
それを見て、まるでおれに確認するのが当たり前のようにクラスの奴らが聞いてくる。
「あれ?今日あかねは休み?」
「見たらわかんだろーが」
「そうじゃなくて。風邪?どこか悪いの?」
「そんなのおれに聞かれたって知んねーよ」
「あー、やめとけやめとけ。今日こいつ、あかねがいないから不機嫌なんだよ」
「そうそう。家に帰ればまた会えるというのに我慢の利かない男だ」
「だーっ!何勝手なこと言ってやがるっ!」
なんだよそれ。
これじゃあ、まるでおれがあかねがいなくて一人拗ねてるみてーじゃねえか。
言っとくけどなあ、おれは全然寂しくなんかねーぞ。
うん。けっして寂しいわけじゃねえ。
寧ろ怒ってる。
頭に来ているんだ。
何にって?
もちろん、あかねに対してだ。
あのバレンタインの日からちょうど一カ月。
おれとあかねの仲は少しだけその距離を縮めた。
とはいえ、周囲の人間にはまだ内緒で。
時々。ほんの時々、二人きりになった時に勇気を出してキスするだけなんだけど。
でも、このキスまでに辿り着くには途方もなく遠くって、だからこそあの日、あかねがおれの胸の中にチョコレートと共に飛び込んできてくれた時は信じらんねーくらい嬉しかったんだ。
触れるまで知らなかった柔らかい弾力。
二人の体温で上昇して香るシャンプーの匂い。
知らないでいたからこそ平気でいられたことの一つ一つがドキドキして。
おれが目を閉じる前に瞼を伏せるあかねの表情がこんなにもかわいいものなのかと、心臓を撃ち抜かれたように鼓動が跳ねたのはおれだけの秘密だ。
(こーやって親が勝手に決めただけの許嫁って関係から恋人らしい関係になんのかな)
なんて。
そんな淡い期待を抱いていたおれは、その後に待っていたドラマチックでも何でもない、忙し過ぎる日常に強い不満を感じている。
勿論、おれだって稽古や修行もあるし、生活の全てがあかねだけというわけじゃない。
けれどそれ以上に毎日あかねは忙しそうで。
今だって"三年生を送る会"の実行委員として、連日遅くまで学校に残っては式の装飾用の飾り作りに没頭している。
あのなぁ、バカじゃねーの。そんな面倒くせ―こと誰も好んでやらねーっつーの。
そう言ってやると決まってあかねは
「そんなことないわよ!高い所や大きい飾りは女の子だけだと大変だからって田中君も佐藤君も手伝ってくれてるもの」
とムキになるけど。
そこに含まれている下心なんててんで気が付いてねーんだから、ほんとタチが悪いと思う。
大体、クラスの奴らも奴らだ。
面倒くせ―こと全部あかね一人に押し付けやがって結局は知らんぷりかよ…と思いつつ、おれも他人のことを言えないだけにそれが余計に面白くない。
不器用なくせに何でもかんでも一人で全部請け負いやがって。
それで勝手に体調崩してたら元も子もねーじゃねえか。
そんな文句の一つも言ってやろうと思い、夜に足を運ぶことはあっても朝は滅多に行くことのないあかねの部屋へ「学校への提出物がねーか聞いてくる」ともっともらしい理由をつけて尋ねた今朝のことを思い出す。
おれにしては珍しく部屋の扉を手の甲で軽く叩き、それでもノックとほぼ同時に開けたドアの向こうにはベッドの上がこんもりと膨らんでいて。
閉めきったままのカーテンのせいで薄暗い部屋の中、それでもあかねが顔を赤くして苦しそうな息を吐いていることだけはわかった。
「おい。だいじょーぶかよ」
「…」
もぞりと。
おれに顔を見せないように布団の中に頭を突っ込みながら、手の先だけちょんと出して大丈夫のジェスチャーをする。
「なんか学校に持ってくもんはあるか?」
「…」
「さゆり達に伝言は?」
「…ありがと、でも特にないわ」
掛け布団の中から聞こえてくるくぐもった声。
ったくなんだよ。そんなにおれに顔を見せたくねえっつーのか。
乙女心のあれこれなんてわからねえおれは取りあえず面白くない。
面白くないから、熱を測るフリして容赦なくその布団を首の下まで引っぺがす。
「おい」
「きゃあっ!ちょ、ちょっとなによっ」
「…おめー、すげー赤い顔してんな」
「当たり前でしょ。熱があるんだから」
「バーカ。熱があるくせに頭まで布団かぶってたせいだろーが」
「う…っ」
「んな茹でダコみてーな顔しやがって」
「ちょっと!?」
「あ、でもやっぱ普段とそんな変わんねーか」
わりーわりーと茶化せばすかさず拳が飛んでくる。が、もちろんその威力は普段とは比べ物にならない程弱々しくて。
その手をパシッと掴み、「いーから大人しく寝てろ」と言ったらめずらしく「うん…」と素直な返事が聞こえた。
「んじゃ、おれそろそろ学校行ってくる――」
「あ、ちょっと!」
なんだ?
おれの背中にあかねが呼び止める声がぶつかる。
「あ、あの、今日って…」
「なに?よく聞こえねー」
部屋が薄暗いと言葉まで聞こえにくく感じるのは気のせいだろうか。
口元に布団を当ててもぞもぞ喋っているせいか、いまいち声が聞き取りにくい。
おれがもう一度ベッドの近くに行こうとすると、
「や、やっぱりいい!それより、遅刻しちゃうからそろそろ行った方がいいわよ」
「…って、あ、やべ!んじゃ、ほんとに行ってくっから」
「うん。行ってらっしゃい」
普段は一緒に登校しているからこうやって送り出されることなんて滅多になくて。
行ってらっしゃいの言葉になんとなくむず痒さを感じながら、おれはようやくあかねの部屋を後にすると学校へと向かう。
視界の端に青い制服のスカートが揺れていないだけで、なんだか妙に静かで肌寒い朝のような気がした。
*
おれは天板の上に何も出ていない隣の机を、頬杖をつきながらぼんやりと眺める。
黒板の前ではひなちゃん先生が熱心に教鞭を振るうも、おれにとっては心地よい子守唄にしか聞こえない。
かろうじて机に突っ伏すのを堪えると何度目になるか分からない欠伸を噛み殺しながら、思い浮かべるのはあかねのことばかりだ。
(あかね…今頃何してんのかな。ちゃんと布団かぶって寝てっかな。あいつ、寝相わりーからなあ)
他の奴らが聞いたら何かと誤解を招きそうなことを思いながら、いつにも増して長くかったるく感じる授業を終える。
そしてようやく午前の授業が終わり、かすみさんの作ってくれた昼飯を広げたところに突然隣のクラスの野郎がやって来た。
「天道さん、いるかな?」
「あら、あかねなら今日は風邪で休みなのよ」
「えっ、そうなの?そう言えば昨日からちょっとだるそうにしてたからなぁ」
こいつは……確か、田中っつったっけ。
なーにが「昨日からだるそうに…」だよ、白々しい。
そこで気付いてたんだったらさっさとあかねを帰しててめえだけで作業しろってんでぃ。
おれはゆか達と田中が交わす会話に耳の全神経を集中させながら、音を立てないようにもぐ…っと弁当を一口かき込む。
「残る仕事もあと少しだったんだけどな…。ま、しょうがない。また明日って伝えておいて」
少しがっかりした態度を見せながら、田中が自分のクラスに戻っていく。
ったく、残る作業があと少しならそれこそお前一人で全部やれよっ!
おれは不機嫌さを隠さずに「けっ」と悪態をつくと、また一つから揚げを頬張った。
そんなおれの様子を見て、ひろしと大介がニヤニヤと笑みを浮かべながら絡んでくる。
「乱馬。お前は本当にわかり易い奴だな」
「あん?」
「ただでさえあかねが休みで寂しくてたまらないのに、そのうえ他のクラスの男があかねを訪ねてくる。確かに乱馬が不機嫌になるのもわからんではないが」
「はあっ!?」
「許してやれ、乱馬。田中だって必死なんだ」
「なんだよ、必死って」
行儀悪く箸を咥えながらじとっと返事をするおれを、半ば呆れたように大介が窘める。
「あのなあ、乱馬よ。今日は何の日か知っているな?」
「なんの日って…3月14日だろ」
それがどうしたのか?
真顔で尋ねるおれに、こりゃだめだと言わんばかりにひろしが額に手を当て、それでも大切なことを子どもに説明するようにわざとらしくゆっくり話し始める。
「いいか、よく聞け。今日はホワイトデーって言うんだぞ。ホワイトデー、聞いたことあるな?」
「バ、バカにするなっ!おれだってホワイトデーくらい知っとるわっ」
だけどあれってチョコを貰ったやつがお返しをする日だろ?
昨年までは知らねーが、今年は校外学習のおかげであかねが渡したチョコはおれ一人のはず…。
だったら何も問題ないんじゃねーのかと頭にクエスチョンマークを浮かべるおれに、今度こそ心底呆れた顔を浮かべた大介が割って入る。
「あまい。あのなあ、あかねと言えば乱馬との許嫁の肩書きに隠れながら、今もれっきとした学校のアイドルなんだぞ?」
「アイドルって、あんなガサツな女が――」
「他の男としたら、隙あらばイベントにかこつけてどうこうなりたいというのは当然だろ?」
っておい、おれのツッコミはスルーかよ。
大体、何だよ。イベントにかこつけてどうこうなるって。
言っとくけどおれはイベントなんかそんなもんなくったって……と思ったところで、実は自分自身もバレンタインをきっかけにこうなったものだからあまり大きなことは言えないのが悔しいところで。
「なんだ、急に黙り込んで。さては乱馬、イベントで何か身に覚えがあるのか?」
「う、うるせえっ!んなもんねーよ!」
ひろしの鋭い指摘に勢いで切り返し、頭の中では別のことを考える。
なるほどなあ。
確かに普段は何でもない関係でも、イベントをきっかけに近付きたいと考えるのはどうやら男のほうも一緒らしい。
ってことはすなわち、今日あかねが学校に来てたらまた他の男から放課後に言い寄られてたかもしんねーってことか。
そう思うと、それはそれでまた面白くなかった。
大体、あいつはスキがあり過ぎんだよ。
自分の不器用も顧みず、何でもかんでも親切心だけで首を突っ込みやがって。
三年生を送る会の飾りつけなんざ、どう考えてもおれの方が上手に手早く出来るに決まってる。
なのにあいつときたら、他の奴らが面倒くさがってやらねーことまで手を出しやがって。
……。
「…なあ。ちょっと聞きてーんだけど」
隅っこに残った米を全部掻き集めて口に放り込む。
そしておれは手に持った弁当箱と自分のプライドに蓋をし、目の前の友人に問い掛けていた。

*
「はあ……」
ピピ…と脇で軽やかな電子音が鳴り、その小さな表示窓を目にした途端に洩れる溜め息。
そこに映し出されたのは38.6℃の無機質な文字で、それを見た瞬間、一層と頭が重くなる感じがする。
「やっぱり熱があるわね。あとで東風先生に薬を貰ってくるから」
「ごめんね、かすみお姉ちゃん…」
「いいのよ。それより、食べられそうなら少しでもいいから食べてね」
そう言ってベッドサイドに湯気の立ったお粥を置いていくと、買い物のついでに東風先生のところへ寄ってくると家を出たかすみお姉ちゃん。
膜を張るような意識の中で玄関扉の閉まる音を聞きながら、あたしはお粥の蓋を少し開けて中身を確認すると結局一口も食べずにまた蓋をし、ベッドの上に横になる。
そう言えば。
こうして風邪を引いた時、昔はお母さんがずっと枕元で頭を撫でてくれたっけ。
遥か遠い、ずっとずっと昔の記憶。
それがいつの間にか、お母さんの代わりにかすみお姉ちゃんの役割になって。
そのかすみお姉ちゃんの口から東風先生の名前が出ても胸が痛くならなくなったのは、一体いつからなのかはあたしもよく覚えていない。
ただ、心の変化をもたらしたのは間違いなく乱馬の存在で。
赤いチャイナ服越しに揺れるおさげを思いながら、今何しているのだろうとぼんやり頭を巡らす。
今は四時間目だから、ちょうど英語の授業を受けてる頃ね。
また寝てなきゃいいけど…あ、でもひなちゃん先生だから先生のほうが寝ちゃってるかしら。
これで授業が終わったらお楽しみのお昼の時間かぁ。
もしかして、またシャンプーが特製弁当を届けに来てたりして。
そしたら「やめろよ」なんて言いつつ、また顔を赤くしてタジタジになっちゃうんだわ、きっと。
そこまで考えて、また一つ「はあ…」と溜め息をつく。
その吐いた息が熱くって。
よりによってなにもこんな日に風邪なんか引かなくてもいいじゃないと思いつつ、最近ずっと無理してきた放課後を振り返る。
(本当は今日までに全部終わらせるつもりだったんだけどな)
だけど結局終わらなくて、そのくせ体調まで崩しているのだから情けないったらありゃしない。
思えば一カ月前のバレンタイン。
あれからほんの少しだけ乱馬があたしに優しくなって。
お互い好きなんて言葉は一言も言ってないけれど、それでもあの日、確かに何かが変わったあたし達。
あの日を含めてまだ四回だけだけど、重ねた唇にあたしだけが特別な気がして期待を持たずにはいられなかった今日のホワイトデー。
(乱馬は今日が何の日って気が付いてるかしら?でも朝の様子だと全然って感じよね)
それでもいい。
別にホワイトデーだからって特別なことなんかなくてもいい。
だけどお願い、今日だけは。
今日だけは放課後、他の女の子に目もくれず真っ直ぐ帰ってきて欲しいの。
そんな勝手な願いを胸に秘めつつ、またどこからか眠気の波がやってくる。
きっと次に目を開けたらもっと時間が過ぎている。
その帰宅時間が早くやって来るように願いながら、あたしは朦朧とした意識を再び手放した。
*
「あら。お薬を飲んでゆっくり寝たからだいぶ熱が下がったわね」
あたしの差し出す体温計を見ながら、安心したようにかすみお姉ちゃんが微笑む。
「ありがとう、お姉ちゃん。このぶんだったら明日は学校に行けそう」
「でもあんまり無理はしない方がいいわよ。まだ微熱はあるんだから」
「卒園行事の準備があるからそうもいかないのよ」
そう。
逆に言うと、あの作業さえ終わってしまえばまだ気が楽なのだが、自分のせいで周りに迷惑を掛けてしまうと思うとなかなかゆっくりなどしていられない。
どうせ明日学校に行ったらまた休みなのだ。
あたしはカレンダーに目をやったついでにちらりと時計に目をやる。
その針はもうすぐ20時を指そうとしていた。
「…かすみお姉ちゃん。乱馬は?」
「乱馬くん?乱馬くんなら今日はちょっと遅くなるって夕方電話があったけど…」
「そう……」
遅くなるって何の用事なんだろう。
部活の助っ人…ではないわよね。そんなこと、朝は一言も言ってなかったもの。
っていうことは、考えたくないけれどやっぱりシャンプーや右京のとこかしら。
ホワイトデースペシャルだとか何とかまんまと甘い文句に誘われて。
もしかしたら夕飯もそこで済ませてくるのかもしれない。
ズキ…と胸の奥が痛くなる。
……やだな。
正式な彼女でもなんでもないのに、独占欲だけが強く顔を覗かせるこの感じ。
東風先生のことを純粋に思っていた頃とはまた違う、他の女の子に嫉妬するように疼く感情。
あたしだけが想ってるみたいでちょっと悔しくなる。
あたしが早く会いたいと思っていたこの時間、乱馬は他の場所で楽しく過ごしているのだと思うとなんだかやりきれなくて。
(時計なんて見なきゃよかった…)
そしたらこんな気持ちに気が付くこともなかったのに。
元気になりかけていた身体がまた思い出したようにずしんと重くなる。
「…もう寝ちゃおう」
あたしは誰に言うでもなく呟くと部屋の照明の明かりを落とし、汗を吸って少しだけ重くなった掛け布団を再び肩までかぶった。
*
不意に部屋の中に空気が流れたような気がして目が覚めた。
ギシ…と床のしなる音が聞こえる。
まだ暗闇に慣れないあたしの瞳には、瞼を開けても真っ暗な景色だけしか映らない。
「…誰?」
「あ、わりい。起こしたか?」
ふわり、と。
おでこの前に温かい手の感触がする。
洋服の袖があたしの鼻先を掠め、ほのかに柔軟剤の香りがした。
「…乱馬?」
「おー。起きたなら電気点けるか?」
「あ、い、いい、大丈夫」
「そっか」
起き上がろうとするあたしを諫めるように、また前髪を撫でられる。
記憶の中の優しい手とは違う、もっとゴツゴツして体温の高い感触は、いつもあたしを守ってくれる大きな手…。
部屋の中はレースのカーテン越しの月明かりが微かに光を運び、見慣れたおさげのシルエットが逆光にぼんやりと浮かび上がって見えた。
「…今、何時?」
「今?大体10時半くれーなんじゃないか?」
「そんなに?…まさかあんた、こんな時間に帰ってきたわけ?」
「バーカ、んなわけねーだろ。大体8時過ぎ…8時半くれーかな、家に着いたのは」
それからお姉ちゃんの作ってくれた夕飯を食べたらしく「何だかんだとやることやってたらこんな時間になっちまった」と説明するその言葉に言い澱むところはない。
あたしは自分の声が少しだけ掠れているのを誤魔化すと、独り言のように呟いた。
「…てっきり、シャンプーや右京のところでご馳走になってきたのかと思った」
「あん?なんでおれがそこで飯食わなきゃなんねーんだよ」
「…」
「そんなことより体調どーだ?」
「あ、うん、もう大丈夫。明日は学校行けそう」
「でもかすみさんが「あと一日休んだ方がいい」って心配してたぞ」
「お姉ちゃんったら大袈裟なのよ。それに」
「それに?」
「三年生を送る会の準備もあるし――」
「あー、それなら今日、もう終わったみてーだぞ」
「え?」
やれやれと伸びをする仕草をするシルエットに向けてあたしは聞き返す。
だって。
昨日までの感じだと、終わりそうで、でもまだまだやることが沢山残っていた気がするのに。
そんなあたしの驚きなどお構いなしというように乱馬が続ける。
「大体、おめーは不器用なくせに何でも首を突っ込み過ぎんだよ」
「なによ、失礼ね」
「田中といい佐藤といい、無駄に時間稼ぎばっかしやがって」
「ちょっと…」
「あんな大量の花飾り、もっとクラスの他の奴らにも協力しろって素直に言やあいーじゃねーか」
「…」
「ったく、だからあかねは素直じゃねえって――」
「ねえ」
「あん?」
あたしは引っ掛かったことを聞いてみる。
「なんでそんなこと、乱馬が知ってるの?」
「え…っ、そ、それは…っ」
…って。
なによ、そのわかり易い動揺は。
途端にしどろもどろになりながら、「た、たまたま偶然作業している教室の前を通りかかった」だの、「おれは嫌だって言ったのに成り行き上仕方なくだなぁっ」だの早口で捲し立てる様はあやしい以外の何者でもない。
「と、とにかく、学校のことはいーから早く寝ろっ」
「自分が起こしたくせに」
「うるせーなっ、まさかあかねが起きるなんて思わなかったんだからしょうがねーだろ」
「人を起こしといて偉そうな言い方ね」
「も、もーいいだろっ、じゃあな!」
その瞬間、枕元のヘッドボードでごとりと音がする。
あたしがそれに手を伸ばそうとするやいなや、慌てて部屋を出て行こうとする乱馬。
あたしは咄嗟にその後ろ姿を引き止める。
「あ、ねえちょっと待って!」
「……なんだよ」
「やっぱりちょっとだけ電気点けたい」
「点けりゃいーじゃねーか」
「そうじゃなくって。真っ暗で見えないから、机の上のスタンドだけ点けてよ」
「…おれが出てってから部屋の電気点けりゃいーんじゃねーの?」
「乱馬」
「…」
「お願い」
「…~っ」
「ったくわがままなやつだな」と不承不承に机上の電気を点ける乱馬。
あたしに背を向けたままで、その表情はあたしからは伺うことは出来ない。
あたしは上半身だけベッドから身を起こすとササッと髪を手で梳いて整え、枕元に目をやる。
そこにあったのは、空き瓶に詰められた何やら色とりどりの包み紙…。
「乱馬。これ……」
「……」
「これ、あたしに?」
「…おめー以外、他に誰がいるってんだよ」
「これって…その……」
「…」
「ホワイト――」
「い、言っとくけどなぁっ、おれが部屋出て行くまで開けんじゃねーぞっ!」
「なにそれ。あたしにくれたんだったらいつ見たってあたしの勝手じゃない」
「じゃーやるのやめる。返せ」
「あ、ひどい!往生際が悪いわよ」
「そ、それはおめーだろうがっ!少しは素直に人の話を聞きやがれっ」
「もう……わかったわよ。じゃあ乱馬が出て行ったら見ていいのね?」
「…別に無理して見なくてもいーけど」
「素直じゃないんだから」
「うるせー」
「意地悪」
「はあっ!?おれのどこが――」
「でも、ありがと」
「…っ」
「嬉しい…。後でゆっくり見るね。ありがとう」
「……おう」
「い、いいから今度こそほんとにもう寝ろっ」と無理矢理布団を掛けられる。
その瞬間、「おれがどんだけ我慢してるかわかってんのかよ…」と聞こえた気がしたのは、はたして気のせいだろうか。
肩の上までしっかりと掛け布団をかぶせ、大きな手があたしの前髪をもう一度ゆっくりと梳く。
「あ、あの…」
「なんだよ」
「汗、すごい掻いちゃったから…」
「そんなの、今更だろ?」
いつも道場ではもっと汗掻いてんだろーがと言われても、やっぱり好きな人に汗の匂いのする髪の毛を触れられるのは恥ずかしくて。
不意に顔の上に影が落ちてきて、あたしは慌てて布団で口元を隠す。
「…なんだよ」
「だ、だって…風邪、うつる」
「もう治ってるっつったじゃねーか」
「でも…、」
「…」
小さく溜め息をつくのが聞こえた後、おでこの上に温かい感触が降ってきた。
「…じゃ、じゃーなっ。早く寝ろよっ!」
本人は静かにしているつもりなのだろうけど、階段を滑り落ちるような音に動揺を感じて思わずクスリと笑みが零れる。
まったくもう、素直じゃないんだから。
こんな気持ちにさせておいて、早く寝ろだなんて無理がある。
あたしはヘッドボードに置かれた瓶を手に持つとそのまま勉強机のほうへ行き、椅子に掛けてあったカーディガンをパジャマの上から羽織った。
(これ…なにかしら?)
インスタントコーヒー程の大きさの瓶に詰め込んである、色とりどりの鮮やかな紙の包み。
あたしはその一つを手に取って広げると、その包みの中からころりと転がったのは、どこにでも売っている飴の小袋だった。
それを包んでいた鮮やかな紙の裏面は真っ白になっており、何やら見慣れた文字が書いてある。
"不器用なくせに無理すんじゃねえ"
なによそれ。
あたしは喜んでいいのか怒っていいのか分からず、飴の包みを開封して口へと放り込むと、たちまち口の中一杯にりんごの甘い味が広がった。
そしてもう一つ、今度は青い包みを手に取って広げてみる。
中から現れたのはレモンの飴と、やっぱり見慣れた少し右上がりの文字。
"今度夕飯のおかず一個よこせ"
なんなの、一体。
そしてまた一つ、カサリと包みを開ける。
"頑丈だけが取り柄なんだから早く治せ"
…あ。
そこであたしは、この見覚えのある色紙の存在を思い出した。
(これ……送る会の飾り用に用意してあった折り紙じゃないの)
誕生日に使われるようなフープ飾りを作るために用意した、少し大きめの折り紙。
それをちょうど四分の一に切った大きさで飴を包んだその紙の裏には、一枚ずつ素直じゃないメッセージばかりが書き込まれている。
『何だかんだとやることやってたら こんな時間になっちまった』
…もしかして。
やることって、これのこと?
そう思ったら急に胸の奥に温かいものが広がって。
『三年生を送る会の準備もあるし――』
『あー、それなら今日、もう終わったみてーだぞ』
そのからくりに気付いた時、更にあたしの鼓動はトクンと跳ねる。
ずるいよね。
こんなどこにでもある空き瓶と普通の飴で、ここまであたしのことを嬉しくさせちゃうなんて、本当にずるい。
あたしの手先が不器用なら、乱馬は気持ちを伝える不器用で。
だけどその不器用な魔法に、あたしはまんまと掛かってしまうんだ。
きっと乱馬のことだから、ホワイトデーのコーナーはおろか普通の飴玉を買うのだって躊躇したのかもしれない。
そう思ったら尚更愛おしさが込み上げてきて。
八個入っていた瓶の中で嵩張る包みを一つ一つ開けていく。
そのどれもが素直じゃない言葉ばかりだけど、その中にたった一つだけ。
"今度一緒にどっか出掛けるか?"
の文字。
…うん。
やっぱり風邪なんか引いてる場合じゃないわね。
だってそれを見てしまった瞬間、あたしの頭の中はもうお出掛けに着ていく洋服のことで一杯だ。
もう一度カレンダーを確認する。
明日休めば、明後日は土曜日でお休み…。
何となく予感がして窓を開けると、その下では庭で乱馬が一人拳を振り上げていた。
あたしは久し振りに外の新鮮な空気を胸いっぱい吸い込むと、声を潜めるように、それでも小さな声を張り上げるようにして、下に向かって呼び掛ける。
「乱馬!もう夜だから身体が冷えちゃうわよ!」
「おー…って、あ、あかね!?バカッ、いーから窓閉めて早く寝ろっ!」
「あのね、乱馬!」
「なんだよっ」
あたしは自分の頭の上に両手を上げ、大きな丸を作って見せる。
きっと何のことか分からなかったんだろう。
一瞬キョトンとした後、急にカアッと顔を赤らめ 辺りをきょろきょろと見渡す。
「明後日ね!」
「…おう」
「約束だからねー」
「だーっ!わかったっつーの!いーから冷えねーうちに早く寝ろっ!」
「乱馬もね!」
「へーへー」
「あのね、乱馬」
「まだなんか用かよっ」
「だいすき」
「…っ!」
口の形だけで初めて伝えた想いに、これ以上無いくらいに乱馬の顔が赤く染まったのが暗闇でもわかった。
と同時に、カクンとバランスを崩した乱馬が漫画のように転ぶ。
「あっ」
「あっ」
バチャーン!!
瞬間、派手な水しぶきが上がる。
そして暗闇の中、池から這い上がってきたのは赤いおさげ姿の女の子…。
「ちょっとー!早くお風呂入んないと風邪引くわよー」
「わ、わかって…ううっ、さ、さみ~っ!」
「いいから早く早く!」
「う、うううるせえっ、お、おおおめーこそ、は、早くへ、へへ部屋に…」
「もうっ」
ほんと、最後までロマンチックにはいかないあたし達。
それでも心の中はぽかぽかと温かくて。
自分だって寒くて堪んないくせに、あたしが部屋の中に引っ込むのを見届けようとやせ我慢する乱馬。
それをからかうようにもう一度「好きよ」と口の形だけで伝えると、今度こそ怒った顔で「わかったからさっさと部屋に入れ」と手で払われた。
まったく失礼しちゃう。
こんな時くらい、「おれも」と言ってくれてもいいじゃない。
だけど。
やっぱり嬉しくて。
全身びしょ濡れの美少女に向かってニコニコ微笑む奇妙な二人の姿を、さっきあたしが掲げたみたいに丸い大きな月が明るく照らしている。
本当はもっと見つめていたかったけれど、乱馬の身体を心配して今回は仕方なくあたしが折れてあげることにしようか。
ぶんぶんと手を振り、窓を閉めてカーテンも閉める。
その隙間からそっと庭の様子を伺うと、ようやくホッとしたのかジャーッと着ていた服の水を絞り、それからボタボタと水滴を垂らして玄関口へと走っていく後ろ姿が見えた。
あたしは机の上に散らばった飴の包み紙をまた一つ手に取ると、口の中に放り込む。
途端に広がるイチゴの味はフルーティーで。
そしてとびきり甘かった。


< END >
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いつも【Secret Base】に遊びに来ていただき、ありがとうございます。
当サイト管理人のkohです。
こちらは前回の投稿でお知らせした、Twitterに投稿した乱あの四コマ漫画になります。
人生初の漫画に挑戦ですのでどうかクオリティは期待しないでください
色恋沙汰に全く興味のなさそうな乱馬ですが、ひろしや大介に影響されて過剰で敏感な男の子の思春期を過ごしていたら面白いなあと思った妄想になります。
よろしければお暇つぶしにどうぞ…。
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《 3/25 追記 》
先日はご丁寧なお返事をいただき、ありがとうございました。
最近少し色々思うところがあった創作活動ですが、かえって私のほうが励ましていただいた気持ちです。
今後とものんびりと創作していきたいと思いますのでよろしくお願いいたします✨。
おはようございます。
先日 息子に関しての記事の拍手にいただいたコメントを拝見した時、上手く言えないのですが胸にグッとくるものを感じてどうしてもお返事したく、この私信という形を取らせていただきました。
もしかしたらこの投稿に気が付かないかもしれませんが、コメント主様の元に届いてくれると嬉しいです。
*
コメントをいただいた記事にもある通り、自分一人が不幸だと思っているすぐ隣ではみんなが頑張っている。今もその考えに違いはありません。
みんな年齢を重ねるとともに弱音を吐き出す場所って少なくなってきますよね。
そうやって我慢をしているうちに、自分一人だけが苦しいような惨めな気持ちになって追い詰められてしまったりして…(これはかつての私です)。
二年前のあの頃、外面よしこさんな私は誰にも悩みを打ち明けられず、自分で自分を追いつめては毎日のように泣いて暮らしていました。
外では「kohさんって悩みなさそうだね」と言われ、素の自分と比べてはまた勝手に落ち込んだり。
大袈裟ではなく心がボロボロにむしばまれ、外に出て表面上を取り繕っては家に帰宅するなりぐったりと無気力になって、本当に家族以外には見せられないような顔をしていたと思います。
(私の場合、母が厳しくて親にも弱音を吐き出せませんでした)
当時は自分自身がいっぱいいっぱいで、何がつらいのかもわからないくらいに追い詰められていて。
漠然とした不安や不満が常に胸の内に広がっており、それを人のせいばかりにしては「自分の人生、どうしてこんなことになってしまったんだろう」と嘆いてばかりでした。
余裕がない時って、本当に自分のことしか考えられなくなっちゃうんですよね。
あの頃の私はまさにそんな感じで、心はカラカラに乾いた砂漠のようでした。
でもそんな苦しい数年間を過ごしたある日、突然嘘のようにその苦しみから解放されました。
それは本当に何でもない、もしかしたら言ったご本人も忘れているかもしれないくらいの何気ない一言なのですが、
「そんなに苦しむまで一人で悩んでたんだね。頑張ったね」
と声を掛けられ、「ああ、自分にもこういってくれる人がいるんだ…」って思ったら自然と力が抜けていったのです。
きっとそれまでだって私にそう言ってくれる人は身近にいたのかもしれませんが、自分自身がそれに耳を貸さなかったのだと思います。というか、耳を貸す余裕すらなかったのかもしれません。
あの時、素直にその言葉を受け止めることで私の中で何かが許されたような気になり、それから目の前の景色がようやく見えてきたような気がしたのを今でもはっきりと覚えています。
と同時に、いかに自分は周りに理想や期待ばかりを押し付けていたのかを痛感し、自分に対しても周りに対しても良い意味で妥協する、許容することを覚えてからぐっと気持ちが楽になりました。
専業主婦だろうが、共働きのお母さんだろうが、独身の方だろうが、言いたいことを言う人はどこにでもいますし、逆にその立場の心情を汲み取って理解してくれる方も必ずいると信じています。
もしも「そんな理解者、身近にいない」と思われたら、こちらのHPを思い出してみてください。
あの記事を投稿した時、私の元には非公開という形で普段は吐けない悩みや弱さを打ち明けるコメントが数多く届きました。
その一件一件を拝読しては、「自分一人じゃないんだな。でもみんなその中で踏ん張ってるんだな」と逆に私が励まされたものです。
色々疲れているということは、それだけ頑張ってきた証なんだと今の私は思っています。
だからコメント主様は頑張ってる。
疲れが重なって感情が昂ぶったのは、周りを気遣って弱音も吐き出せないくらい、真面目で優しいからなんだと思います。
本当に毎日お疲れ様。
大人同士だから面と向かっては恥ずかしくて言えないけれど、コメント主様の頑張りを見てくれている人はきっといると思います。
頑張っている方に「頑張ってね」とは言えません。
だから私からコメント主様に「頑張っているね」と言わせてください。
拙い表現ではありますが、どうかこの気持ちがコメント主様に届くよう願っています。
*
それにしても、こうやって二次創作サイトの運営なんてしているとkohという人はいかにもお気楽で楽しそうですよね。
私自身、「そんなことないよ。私だって色々悩みはあるんだから」と不幸自慢をする気はありません。
寧ろ、遊びに来てくださった方に「ここのサイト管理人はお気楽でいいなぁ」と思っていただけたら「そうだよ、だからこのサイトを訪問してくださっている間は一緒に力を抜いて楽しもう~♪」と全力で背中を押していきたい所存です(*‘ω‘ *)。
たまにでも構いませんので、また是非遊びに来てくださいね。
足を運んでくださった方がこちらのHPに来て少しでも息抜き出来るのなら、運営者にとってこんな嬉しいことはありません✨。
ではでは、長々と失礼しました。
春は何かと忙しい季節ですが、くれぐれもご自愛ください。
koh
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