学校のカイダン ②
2017/09/01
「意外と見つからねーもんだな」
「本当ね」
足音を潜め、二人でこそこそと言葉を交わしながら壁沿いに階段を上るおれ達を咎めるものは誰もいない。それまで張り詰めていた緊張の糸が切れるように余裕が生まれ、こうして夜の学校で二人きりで手を繋いでいることがなんだか妙におかしく思えてきた。
不思議だよな。さっきまであんなに面倒だと思っていたくせに、今はこの時間を確実に楽しんでいる自分がいる。多分、それはあかねも同じなのだろう。恐怖とはまた違う感情でおれの手を取っていると思うのは、はたして自惚れだろうか。
おれは前後に気を配りながら、あかねにだけ聞こえる響きでひそひそと話し掛ける。
「なあ」
「なに?」
「おめー、この学校の怪談って知ってるか?」
「怪談って、いわゆる七不思議みたいなやつ?」
「そう。例えば
「あ、知ってる。あとは一番奥のトイレの個室から苦しむような声が聞こえるとかでしょ?」
「おれが教えてもらったのは勝手に蛇口の水を流す音が聞こえるってやつだな。あと……確か、夜 真っ暗な校舎の窓に人影が見えたってのもあったっけ 」
「……」
「誰もいねーはずの夜の校舎なのに、いつの間にか窓が開いててカーテンが揺れんだとさ」
「ちょっと……脅かすつもりならやめてよ」
「別にそんなんじゃねーよ」
なんて嘘。ホントはちょっとからかってやりてえってのもあんだけど。
先程よりもギュッと強く握り返してくる指の先が、ひやりと冷たくなっていくのがわかる。
だけどそこで「じゃあ止めてやろう」とならないのがおれなわけで。
「そーいえばこんなのも聞いたな。切なそうな女の声で、“もうだめ……助けて……“って」
「やだ……やだ、やだ、」
「でもってそこに男の霊が“逃がさねえ……”って追いかけてくるんだとよ」
「ひ……っ!」
「誰もいねーはずの教室からガタガタと机が動くような物音がしたり」
「ら、乱馬……」
「そうそう。今のあかねみてーに声を出そうとすると“静にしろ”って亡霊が――」
「もうやだっ! か、帰るっ! 帰りたいっ!」
柔らかな衝撃を受けたついでに思い切り頭を打ち付け、くすんだベージュ色の壁がゴンと鈍い音を響かせた。そんなおれの右腕には
「お、おい、離れろよっ」
「あ、あんたが悪いんじゃないっ、あんな事言って脅かすから!」
「いや、そ、そーじゃなくって」
まずい。
右腕にぎゅうぎゅうと押し付けられるあかねの身体。一ミリの隙間もなく密着したそこは確かに柔らかさを感じ、自分の腕があかねの胸に挟まれていることを物語っている。
(なんだこれ。天国か? いや、それとも地獄か?)
まるで自分の肘から下が精密なセンサーになった気分だ。ちょっと振り解くフリして動かせば、そうはさせまいとしがみついてくるあかねの胸の間を突いて……やばい。とてつもなく気持ちがいい。
そうかそうか。こうして怪談話をすればこんな美味しい体験が出来るのかと思う一方、あまりにもセコい男の
どうする? どうすればいい?
だけど実際、あかねは怖がってるんだ。ここでやめろよと腕を振り解くのは簡単だが、あいにくおれはそんな冷たい男ではない。それにあれだ、別におれから抱きついたわけじゃねーからな。そう。全てはあかねから仕掛けてきたことだ。こうして夜の校舎に忍び込む手伝いをしているのだから、これくらいのラッキーがあってもいいじゃないか。
ああ、それにしてもなんでよりによってこいつはこんな薄着なんだよ……ってそうか、夏だからか。そうだよな。今日は暑いもんな。だったらいっそ暑さのせいにして、着ているそのワンピースを脱いじまっても……って違う違う。何考えてるんだおれ、しっかりしろ!
「乱馬……?」
「な、なんだよっ」
「なんか呼吸が荒いから……大丈夫?」
「そ、そんなことねーよ。ただ、ちょっと階段上ったから息切れしただけで」
だ――っ! 一体おれはどこの爺さんだ。しかしこんな時に限って素直さを発揮するあかねは納得したのか、再び惜しみなく自分の乳をおれに押し当ててくる。はっきり言って、ここまでくるとわざととしか思えねえ。
いいのか? あかねがその気なら、おれだって遠慮はしねーんだからな!?
だが残念なことに、頭では強気でそう思うもいざ簡単に行動に移せるわけがなく。おれは文字通り、おさげもろとも後ろ髪を引かれる思いを断ち切って待ったを掛ける。
「あ、あかね、その、ちょ、ちょっとくっつき過ぎじゃねーか?」
「しょ、しょうがないじゃないっ。あたしだって好きでくっついてるわけじゃないわよ!」
なんだと!? ってことは、ここにいんのがおれじゃなくて他の野郎でもこいつはこうしてくっつくつもりだろうか。それを想像した途端、おれの中にムクムクと不穏な感情が湧き上がってくる。
大体、あかねは隙があり過ぎんだよ。いつもおれのことを優柔不断だのはっきりしないだの言うが、あかねだって相当のもんだ。っつーか、それを無意識でやっちまってるって時点で更にタチがわりい。
言っとくけど、男なんてどんなに澄ました顔してても頭の中で考えてることなんて一緒なんだからな?善良とされる羊の瞳だって、よく見りゃ実は鋭いんだぜ。
(……思い知らせてやろうか。こいつに)
胸の内にポタリ、またポタリと一滴ずつ広がる黒い感情。
その反面、何考えてるんだと自分を激しく責めるもう一人の自分が立ちはだかる。
今までずっと我慢してきたんじゃねーか。それをみすみす自らの手で壊す気か?
あかねが嫌がったら、本当にそこで自分の衝動を抑えきれるのか?
“あかねが嫌がる”
その言葉だけがなんとかおれの暴走を食い止めるが、抑圧されてきた思いが一気に爆発しかねない危機を誰よりも感じていたのは自分自身だった。
「……いーから行こうぜ。さっさと教室行って家に帰ろう」
そこまで言うのが精一杯。そんなおれの声は、情けない程に上擦っていた。
*
「あ、あった!」
「ったく。他に忘れもんねーだろうなぁ?」
無事自分達の教室に到着し、応援団の衣装を手にしてあかねが顔を綻ばす。
あいにく教室の扉の鍵は閉まっていたが、換気の為に解放された上窓は開いたままになっており、そこから先におれだけが教室の中に潜り込んで中から鍵を開けてやった。
それにしても、もしもあかね一人で学校に来ていたとしたらこいつは一体どうするつもりだったのだろう。いくら普通の女に比べると運動神経がいいとはいえ、そんなみじけえスカートでアクロバットなことをするとは考えにくい。っていうかそんな姿、たとえ幽霊相手であったとしても易々と見せるわけにはいかないしな。
そんなおれの心配を余所に安堵した表情であかねがおれの傍にやって来ると、めずらしく素直に礼を口にした。
「ありがと、乱馬。おかげで助かっちゃった」
「おう」
……いつもこんくらい、素直でかわいけりゃな。
灯り一つ点けていない真っ暗闇の教室とはいえ、壁一面に広がる窓のカーテンは閉められていない。その大きな窓からガラス越しに月明かりを浴びて微笑むあかねの顔はハッとするほどかわいくて。
…………無理矢理捻じ伏せていた感情が、再び目を覚まし出す。
「あか――」
「ね、そういえばお礼はなにがいい?」
「礼って?」
「今日、こうして付き合ってくれたお礼」
「そーだな……」
「あ、高いものはダメよ。あと夏休みの宿題はちゃんと自分で――」
そこまで言った時だった。
――カツン、カツン、カツン、カツン、
耳をそばだててみると、確かに音が聞こえるような気がする。
「乱馬?」
「しっ」
どうしたのと見上げてくるあかねの口を手の平で塞ぐ。間違いない。確かにこれは人の足音だ。
しかも厄介なことに、先程よりもはっきりと聞こえるそれ。
おれはあかねの耳朶に触れそうな距離まで口を寄せると、あかねにしか聞こえない声量で囁く。
「誰か」
「え?」
「誰か、来る」
その足音は時々立ち止まりながら、それでも確実にこちらに向かって来るのがわかった。そして次の瞬間、有り得ないことについさっき侵入した後ろ扉の施錠を忘れていた事を思い出す。
「しくじったな……」
だけどここで再び鍵を掛けに行くのはリスクが高過ぎるだろう。なんせ足音はすぐ近くまで迫っているのだ。そんな時に上下にスライドする旧式の鍵を操作すれば、針を落とす音さえ聞こえそうなこの静寂の中、一発でバレるに決まっている。
いや、それどころか今は自分達の身を隠すだけでもギリギリといったところか。
「あかね、こっち!」
「きゃっ」
ちらちらと黄色い電球の明かりが廊下の窓を照らす。そして勢い任せにあかねの腕を引き、教卓の下に潜り込んだその時だった。
「ん? なんで鍵が開いてるんだ?」
どうやら一個一個手で扉の動きを確認しているらしい足音の主が、訝しそうな声を上げて教室の中に入ってきた。
『乱馬……』
『しっ――』
「誰かいるのか?」
誰かいるのかと聞いて、返事があったらそれはそれで恐ろしいだろう。
おれとあかねは息を潜めたまま、互いの身体を教卓の影に隠すように密着させる。そのまま闇夜に溶けちまうように、しっかりと。
すると今度は声の主が窓に近付き、ご丁寧に一つ一つの施錠を確認し始めた。
全身から一気に汗が吹き出し、身体の中に異様な緊張が満ち溢れる。
早く向こうに行きやがれ。
まるで重罪を犯した犯罪者が脱走を試みるように、口を開けば心臓が飛び出ちまいそうな緊迫感。
カツン、カツンと教室の板の間に響く足音がまるでスローテンポのメトロノームのようで、一つの動作がやけにゆっくりと感じる。世の中の一秒ってこんなに長かったっけ。
もしかして守衛のじじい、おれ達が隠れていることを知っててわざと時間を掛けてるんじゃねえだろうな。そんなバカな深読みまでし、せめてあかねだけでも隠そうとますます腕の中の存在を強く抱きしめる。
そして息をするのも忘れるような長く重たい時間が流れたかと思うと、
「よし。異常無いな」
誰に向かって言うでもない独り言をガランとした教室に響かせ、その声の主が再び扉の外に出て行った。
ジャラジャラと騒がしい金属音を立てるのは、おそらく鍵の束だろう。
ガチャンと乱暴に施錠の音を鳴らし、またゆっくりと足音が遠ざかっていく。
「……………………行ったか?」
「び……っくりしたぁ」
「おれも」
情けないことに身体は金縛りのように痺れていた。張り詰めた空気から解放され、思わず腕の力が緩む。それは格闘の時とはまた違う、別の種類のものだった。
どちらからともなく「はあ……」と安堵の溜め息をつき、その生温かい吐息が頬を掠めたところでハッと気が付く。
今のおれの体勢。咄嗟のことだったとはいえ、あかねを腕の下に組み敷いて白い足の間に自身の身体を割り込ませたこの姿勢は、はっきり言って、いや、はっきり言わなくても非常にいかがわしいことこの上ない。
更にまずいのはここが狭い教卓の中ということだ。伸ばしきれないあかねの足は膝を折って立てた状態であり、ずり上がったスカートの裾は足の付け根でくしゃくしゃと波を描くただの布になっている。
密着し過ぎて見えてはいないが、おそらくちょっとでも体を離して身を起こせば、あかねの下着が丸見えになるのはまず間違いないだろう。
まずい。
まずい。
何度も追いやっていたはずの熱が瞬く間にある一点へと集中するのがわかる。
この姿勢でそれは、非常にまずい。
だけど。
「ね、乱馬」
「……なんだよ」
「ち、近い、ね……」
「しょうがねーだろ。咄嗟に隠れたんだから」
「そ、そうなんだけど、」
その目は明らかに「いつまでこうしてるの?」と言っているようだった。
そうだよな。
だけどほら。まだ守衛はすぐ傍にいるかもしれねーんだ。
ここで物音でも立てて見つかったら元も子もないだろ?
そう目線だけを廊下のほうにやると、おれの言いたいことが伝わったらしい。
辛うじて自由の利く自分の両手を口元に押し当て、それでも少しだけ不安げな瞳を向けてくる。
そんな目、するなよ。
そんな顔、他の男にも見せんのか。
ダメだ、ダメだと思うほどに広がる衝動。
こうして暗闇の中でもあかねの目だけは光って見えるということは、きっとおれの欲情した瞳もあかねから見えているに違いない。
だけどもう、そんなことどうでもいい。
今さら自分の気持ちを隠す気にはなれなかった。
「……」
「っ!?」
無言のまま自分の体重をゆっくりとあかねに掛ける。すると分かり易く動揺を浮かべたあかねの瞳がゆらゆらと揺れた。
「ら、乱馬、」
「……なに」
「も、もうそろそろ大丈夫なんじゃない?」
「だからなにが」
「守衛さん。きっともういないわよ」
「……」
「乱馬?」
「…………さっきの褒美」
「え?」
「さっきの褒美の話…………これがいいっつったら」
「なに……、」
「……そしたらどーする?」
「ちょ、ちょっと……」
おれ達を包むのは、まるでこの世に自分達以外いないんじゃねーかと思うような夜の静寂だけだ。
人工的な光も何もない。ただ、窓から射し込む僅かな月明かりがぼんやりと青白く室内を照らす。
それでもこうして暗闇にずっと潜んでいれば目が慣れてくるもので、おれの目に映るものはあかね。
あかねの目に映るものはおれ以外、何もない。
「こ、これがいいって……」
「……」
あかねだってわかってんだろって。
言葉の代わりにじっと目を見つめる。
いつもだったらすぐに逸らしてしまうその大きな瞳も、こんな暗闇では一つの星を見つけたようにおれを捉えて離さない。
少しずつ。
だけど確実に二人の距離が近付いて行く。
これはあかねから身を寄せているのではなく、ただおれが上から圧し掛かっているせいだ。
「あかね……」
わかってんだろう?
もう一度心の中で放つ。
おれの気持ちも。
おれがどーしたいのかも。
全部わかってて、それでも逃げようとしねえあかねのせいだからな。
ぴりぴりと腰から背中にかけて走る痛みは、無理な姿勢を取っているせいか、それとも……。
そしていよいよ前髪同士が触れるその時。
あかねが小さな声で呟いた。
「……硬い」
「え?」
ドキリと跳ねる心臓。するととうとう我慢出来なくなったのか、今度こそ苦痛に顔を顰める。
「硬い……床」
「あ、ああ」
そうか。
そういえばあかねの背中は板張りの教室の床に組み敷いたままの状態で。
慌てて両腕を引っ張り、自分の膝の上に座らせれば、「痛かった……」と切なげな声を出す。
っつーか、ビビった。てっきり自分自身のことを言われたものだと思ったし、なんだったら無意識のうちにそこを押し付けちまってたかもしれない。
急に我に返り、自分の身体の中心が当たらないようにあかねの尻部分を横にずらすと、不安定な姿勢のバランスを取るように両腕をおれの肩に回してきた。
なんだこれ。
なんのご褒美だ。いや、罰ゲームか。
邪な考えで一杯になったおれを今さら試そうとでも言うのかよ。
「ねえ……」
「……んだよ」
耳元で喋るな、バカ。
また我慢出来なくなっちまう。
「いつまでここでこうしてるの?」
んなもん知るかよ。
「乱馬?」
「……おめーはどうなんだよ」
そうだ。
あかねの気持ちはどうなんだよ。
言っとくけど、おれはさっきちゃんと自分の気持ちを伝えたからな。
とてもじゃねーが同じ台詞は言えないとばかり、おれは質問に質問で返す。
聞きたい。
あかねの想いを。
「あたし……」
あかねは……?
そして暫くの沈黙の後、
「……………………帰ろっか」
「え?」
「お父さん達が心配しちゃうわ」
そう言って。
まるで何もなかったかのようにおれの膝から立ち上がり、新鮮な空気を吸うみてーに両手を伸ばしてグッと背中を反らす。
それを間抜けな顔で見つめているのは、未だ教卓の下で
今のって…………拒絶された。ってこと、だよな?
確かにあまり遅くなったらおじさん達も心配するだろう。
そんな事はわかってる。けど、それとこれとは別問題で。
だってそうだろう? 云わばこれはちょっとした非日常だ。
年頃の男と女が誰もいない夜の教室で密着し合い、あろうことか男のほうが女にアプローチを掛けている、そんな状況で目の前の告白よりも家族の心配が先に来るなんて聞いたことがねえ。
なんで…………。
それは考えるまでもなかった。
要は体よく断られただけか。
整理した頭の中でそれを再確認した途端、ずしりと身体が鉛のように重たく感じる。
(……なんだよ、期待させやがって)
そーだよ。思えばこいつはそういうやつだった。
皆にいい顔して、期待させるだけさせて、結局こうだ。
きっと今日だって一緒について来てくれる奴なら誰でも良かったんだろう。
それに浮かれていたのはただ一人、おれだけだ。
さっきまでの高揚感が一気に冷え込む。と同時に湧き上がるのは、憎悪にも似た黒い感情。
(…………だけどいつまでも男を甘く見て無事で済むと思うなよ?)
多分、最後の思いは教訓を盾にしたおれの言い訳に過ぎない。
おれはのろのろと教卓の下から立ち上がり、早々に教室のドアに手を掛けようとしたあかねの腕を後ろに引き戻す。
「待てよ」
「なに? なんか忘れ物?」
「じゃなくって」
次の瞬間、自分でも信じられない力であかねの身体を机の上に押し倒していた。
辛うじてあかねの頭を直接打ち付けないよう、後頭部に添えた左手はなけなしの理性だったのかもしれない。
「いた……っ! ちょっと何すん――」
「おめー、あんまり男をなめんなよ……」
「乱馬?」
「言っとくけどあかね一人くれえ、おれの力でどうとでも出来んだからな?」
……はたしてこれは本当に自分なのだろうか?
まるで抑揚のない声が自分の口から勝手に零れ落ちる。
その腕の下では大きく見開いたあかねの双眼が、初めて男を見たとでもいうように鋭くおれの顔を射貫いていた。