真之介から電話があったのは、家を出ようとする間際のことだった。
(……行きたくねえな)
朝の稽古をさぼった時刻は既に十時を回っており、これといった目的もなく通う大学の鞄がやけに重たく感じる。
と、そこに俺の携帯が軽やかな電子音を鳴らした。
(あかね……っ!?)
しかし、その予想は呆気なく外れる。小窓に映し出された番号は連絡帳に登録されていない見知らぬ番号であり、それでも一応電話口に出てみればそれが冒頭の真之介だったというわけだ。
「もしもし、許婚君? 俺だけど」
「……なんだ、おめーかよ。っつーか どこで俺の番号知ったんだよ」
「随分だね。俺達 親友なのに」
「ふざけんな。そんなくだらねーこと言うためだけならもう切るぞ」
牽制でもなんでもなく“切”のボタンの上に指を置く。すると間髪入れず呑気な声が耳に滑り込んできた。
「俺は別にいいんだけどさ。ただ、許婚君は聞いとかないと後悔するんじゃない?」
「あ?」
「あかねちゃんのことなんだけど」
あかね。
その名前を聞き、ドクンと心臓が跳ねた。
それを悟られないよう、平常心を装いながら「あかねがどーしたってんだよ」と聞き返す。
声が裏返らないようにゴクリと唾を飲めば、空気を読まない真之介がどうでもいいことをペラペラ喋り出すもんだから、こいつは俺を怒らせる天才なんじゃねえかとすら思う。
「あ、言っとくけど許婚君の番号はあかねちゃんからじゃなくて許婚君のお母さんに直接聞いたんだからね。やっぱ天道なんて珍しい名前で道場やってると電話番号もすぐ調べられるもんなんだよなぁ。にしても許婚君のお母さんって上品っていうか、優しそうで全然許婚君に似てないからびっくりだよ」
「いーからさっさと用件を言えよ。あかねがなんだって?」
「……へえ」
「なんだよ」
「たとえ情報提供者が大嫌いな俺でも気になるんだ? あかねちゃんのこと」
「……てめえ、おちょくんのもいい加減にしろよ」
「相変わらずおっかないね、許婚君」
「てめーが怒らせてんだろーがっ」
「まあいいや。よく考えてみたら電話代こっち持ちだし」
なるほど。そう思うとわざと無言で引き延ばしてやろうともセコい考えが脳裏を過ぎる。とはいえ、このむかっ腹立つ会話にいつまでも付き合ってる忍耐力など俺にはない。
食ってかかってやりたいところ黙って相手の出方を待てば、漸く真之介が本題に入った。
「あかねちゃんさ、今日大学休んでるんだよね」
「……は? あかねが? なんで?」
「さあ? それはこっちが聞きたいんだけど。許婚君、あかねちゃんから何も理由聞いてないの?」
「……っ」
…………やられた。
話を持ち掛けるようにして探りを入れる。俺、こいつのこういうところが心底ムカついて嫌いなんだ。
「おかしいよね。昨日はあんな元気に俺と手合わせして喜んでくれたのに」
「……別に喜んでたわけじゃねーだろ」
「なに?」
「なんでもねーよっ」
あかねが大学を休んでる?
健康が取り柄みてえな あのあかねが?
そこで真っ先に思い出すのは昨日の俺の暴走だった。
電話口で黙ってしまった俺に何か思うところがあったのだろう。
携帯の向こうから大きく息を吐く音が聞こえ、そしていつになく諭すような口調で俺の名前を呼ばれる。
「あのさ、昨日も言ったと思うけどあかねちゃんを手合わせに誘ったのは俺だよ?」
「……んなの知ってるっつーの」
「それにさ」
「あ?」
「もし仮にあかねちゃんから俺と手合わせしたいって言ってきても それが何か問題あるわけ?」
「な……っ」
「だって考えてごらんよ。手合わせって格闘の基本だろ。そこに男女がどうとかいちいち考える方がおかしいんじゃないの」
「う、うるせーなっ、おめーはあかねのことが好きだからそーやって勝手なこと言えんだろうが!」
「そうだね。俺はあかねちゃんが好きだから出来るだけあかねちゃんの好きなようにさせてあげたいよ」
「え?」
「付き合ってるからとか離れてるからって我慢ばっかさせるんじゃなくってさ、もっとあかねちゃんのこと信頼してあげんのが本当に好きってことなんじゃないの?」
「……っ」
「それをわざわざ許婚君の了承取ってさ。許婚君って案外器が小さいんだね」
「…………がわかんだよ」
「なに?」
「おめーに何がわかんだよっ。そーやっていつも口先ばっかで適当なこと言いやがって」
「まぁ、許婚君がそう思うんならそれでもいいけど」
「いいと思うならいちいち俺に構うんじゃねえっ! いいか!? 今度こそもう切って」
「でもさ、俺はともかくあかねちゃんはどうなんだろうね」
「ああっ!?」
「……許婚君。ちゃんとあかねちゃんのこと考えてあげなよ」
「な、なに急に真面目ぶってんだよ」
「真剣に言ってるからだよ」
その言葉に嘘はない。
いちいち頭にくる野郎だが、それでもあかねを想う気持ちは本物ってことくらい、俺だってわかっている。
「ん、んなこと、おめーに言われなくっても俺だって考えて」
なぜか追い詰められたような気になってしどろもどろで答えれば、そこに思わぬ質問が返ってきた。
「じゃあ聞くけど、あかねちゃんが今なんで悩んでるかわかってる?」
「悩み? あかねが?」
「……その様子だと全然わかってなさそうだよね」
「うるせーなっ。別におめーに答える義務はねーだろう!?」
「言っとくけど」
「な、なんだよ」
「いつまでも許婚君がそんな態度なら俺も遠慮しないから」
「真之介?」
「いい? 忠告はしたからね」
プツンと途切れる電話。
ツー、ツー、とお決まりの電子音を聞きながら、俺はゆっくりと耳から携帯を離す。
なんだよ、言いたいことだけ言いやがって。
あかねのことを考えろだと?
ふざけんな、そんなのあいつに言われるまでもなく俺だって――
そこまで考え、ハッとする。
――やめ…っ!やめて……っ!
――いっ…た……っ! やめっ、痛、痛い……っ!
――痛いっ! やだ…っ、やだ、いっ…ぁ……ッ!
髪を振り乱しながら、両目から涙を零すあかね。
硬い天板の上に背中を押し付けられ、上から圧し掛かられて貫いた痛みを俺は最後まで逃がしてやることはしなかった。
――ハア、ハア、ハア、ハア……、
耳に響くのは獣みてーな俺の息遣いだけで。
一方的に興奮し、犯し、そして。
望み通り、あかねの心を壊したのは俺自身だった。
「あ……」
まただ。また指の先から冷たくなる。
俺は肩から背負っていた荷物を下ろし、そのままベッドにもたれ掛かるようにしてその場にしゃがみ込んだ。
ガラスのセンターテーブルの上でカツンと金属のリングが音を立てる。
それを手にしてゴミ箱に放り投げようとし、寸でのとこで堪えてそのまま床に投げた。
――さよなら
短い四文字の言葉。
その残酷な響きがいつまでも俺の頭の中を巡っていた。
*
四度目のチャイムが鳴るのと玄関の扉が開くのとはほぼ同時だった。
「乱馬―。いるのか? 勝手に入るぞ?」
そう言いながら、既に靴を脱いでのしのしと足音が近付いて来る。その音で誰が入って来たかは見なくてもわかったが、それでも俺はベッドにもたれ掛かったまま立ち上がる気力がなかった。
「乱……うわっと! ど、どうした、具合でも悪いのか!?」
「別に……なんでもないっす」
「なんでもないって、こんな電気も点けねえ暗い部屋でなんでもないことないだろう?」
「本当に平気なんで……すんません」
だからもう早く帰ってくれ。
わかり易くそう態度で示したはずだった。
しかし天井からぶら下がった電気の紐を引っ張ると、遠慮なく先輩がその場に腰を下ろす。
青白い光が室内を照らすのは優に半日以上振りで、その眩しさに思わず目を顰めた。
そんな俺の様子を何も言わずじっと凝視したまま、静かに先輩が口を開く。
「……乱馬。お前、大学辞める気か?」
「え……」
「え? じゃないだろう。稽古はさぼる、試合は負ける、挙句の果てに学校だって無断欠席してんじゃねえか」
「……」
「お前、特待生として奨学金貰って大学に通ってる身分じゃなかったのかよ」
「……」
「理由なく無断欠席三回で優遇終了だぞ。それはわかってるな?」
「…………はい」
正直、大学なんてもうどうでも良かった。
そう。薄々感じてはいたんだ。
大学でぬくぬく格闘ごっこしてなんになるんだって。
そんなことより早く金溜めて中国に渡って完全な男に戻りてえ。
そして完全な男に戻ったら今度こそあかねと祝言挙げて籍入れて……。
どこか他人事のような態度の俺に先輩が業を煮やしたのだろうか。
深い溜め息をつき、胡坐を組んでいた片足を前に投げ出す。
「お前のことだ。どうせ大学レベルの格闘をやったところで大した意味なんかないと思ってんだろ」
「……」
「だとしたらお前は致命的に甘いぞ」
「……甘い? 俺が?」
短い相槌以外に初めて俺が反発心を込めて返事をする。
すると負けじと俺の顔を睨み返し、「もう忘れたのか」と先輩が呆れたように吐き捨てた。
「その“たかが大学の大会”で無様に負けたのはどこのどいつだ。あ?」
「……っ、あれは!」
「なんだよ。なにか納得出来る理由があるなら言ってみろ」
「……っ!」
「ほらな、言えねえんだろ? しょせん、天才だなんだってもてはやされてもお前の実力なんて まだまだそんなもんなんだよ」
「……ざけんな」
「なんだ?」
「ふざけんなっ! 周りの奴らに俺の何がわかるってんだ!」
そう。あの時はあかねのことで気が散ってて。
何も本気だったわけじゃねえ。それをなんで大袈裟にガタガタ説教食らわなきゃなんねえんだ。
しかし先輩は一歩も引かない。寧ろ憐れむような目で俺を見つめ、居たたまれず俺は視線を逸らす。
「よく聞け、乱馬」
「……」
「俺も大学一年の時はお前と一緒だった」
「……」
「こんなとこでぬくぬく稽古してるだけで何の意味があるんだって。それどころか真面目に稽古してんのに俺に勝てない奴らのことを俺は内心見下してたよ」
「……っ」
「けどな、稽古ってのは積み重ねだ。俺だって最初は天才だ、期待の新人だって散々もてはやされてこの学校に入ったはずなのにな、その言葉にまんまと胡座をかいてまともな稽古なんてしやしなかった。要は努力とか根性ってのがダサいと思って調子乗ってたガキだったっつーわけだ。それが二年になる時だったかな、気付いたら簡単に他の野郎に組み伏せられちまってさ」
「……先輩が?」
「おう」
熊のようなガタイに恵まれた先輩だ。どんなに口では綺麗ごとを言ってもその恵まれた体格は圧倒的に有利に働く。それでもこの先輩が易々と組み伏せられただと?
俺は今日初めて顔を上げ、先輩のほうを向いた。そこで二人の視線がぶつかり、再び先輩が口を開く。
「最初は悔しいってより、現実を受け入れられねえ感じだったな。たまたまだ。今のはちょっと油断してただけだって」
「……」
「けどな、一度負けを知ると臆病になる。二度目はシャレにならねーんじゃねえか。そう思ったら急に闘うのが怖くなっちまってな。その上、他の奴らが簡単にこなしてるメニューで無様に息が上がっちまうわけだろ? そんな状態で稽古に参加すんのが単純にカッコ悪くてな」
「……で?」
「え?」
「どうしたんすか、先輩はその時」
「聞きたいか?」
「はい」
「…………俺な、その時」
そこまで言った時だった。
先輩の節立った指が何かを拾い上げる。
「なんだ? これ」
「あ……、」
「カード? ……ってこれ、お前の記事じゃねえか」
「……」
「一枚、二枚、……三枚とも乱馬かよ。お前、ナルシストだとは思ってたが、わざわざこんなラミネート加工までして」
「……違う」
「なに?」
「それは俺がしたわけじゃなくって……」
……そう。
それは昨日、あかねと別れた後に実習室で拾ったものだった。
一枚目は夏前に地方新聞で取り上げられた新聞の切り抜き。二枚目も同じく校内新聞で、三枚目は夏休み明け直後に掲載された小さいながらも市販の格闘雑誌のものだった。
大小の違いはあれど、ポストカード程度の大きさのそれを一枚一枚丁寧にラミネート加工し、ステンレスのリングで一つに纏めてある。
あかねがこんな物を持ち歩いているだなんて俺は全く知らされていなかった。
黙っている俺を見て誰が作ったのか察したのだろう。
食い入るように記事を眺め、やがてしみじみと呟く。
「お前、例の彼女と上手くいってんのか?」
「え……」
一瞬、ギクリと心臓が跳ねた。
先輩の視線が真っ直ぐ俺を射貫く。そういえば先輩がうちに来てから茶の一つも出してねえじゃねえか。そう思って立ち上がろうとするも、いいから座れと目で促され再び腰を下ろした。
重苦しい沈黙が二人を包む。それは即ち、あかねとの関係が決して良好ではないことを物語っていた。
先輩がリングを太い指で弄る。
「おかしいと思ったんだよ。この前の試合会場で会った時だって乱馬の応援って感じではなかったし」
「……」
「あの時はちょっとお前らが喧嘩でもしてんのかなと思ってたんだけどな」
「……別に、喧嘩してるっつーわけじゃねえけど」
「だろうな」
これを見ちまえばなぁと手に持ったカードを俺に渡してくる。
「乱馬。お前、これ見た時 なんて思った?」
「え?」
「いいから言ってみろって。誰にも言わねえから」
「どうって……」
どう思ったかだなんて、そんなの。
こんな小さな記事でバッカじゃねーのとか。
だったらもっと素直に俺に会いたいって甘えてくれてもいいじゃねーかとか。
なのになんで俺の存在を隠そうとするんだよとか。
こんな情けねえ気持ち、とても言える気にはなれなかった。
かといってこの重く胸に広がる靄を抱えているのもまた限界で、俺は堪らず本音の一部を吐き捨てる。
「……わかんねえ」
「なんだ?」
「あかねの考えてることがわかんねえ」
だってそうだろ。
こうしてこっそり俺の掲載された記事を切り抜いて持ち歩くような可愛い真似をしたかと思うと、今度は俺の存在をひた隠しにする。
正直あかねの気持ちが理解出来なかった。
「もうわかんねえ」
ダメ押しのようにもう一度呟く。
俺が何をしたってんだよ。
夏休みまであんなに求め合ってたのに、突然その他大勢みたいな態度取りやがって。
女の気持ちが。
あかねの気持ちがこれほどまでにわからなくなるのは初めてのことだった。
「……乱馬」
「……」
「お前、本当に彼女の気持ちがわからないのか?」
「……なんすか。だったら先輩はあかねの気持ちがわかるとでも言うつもりかよ」
自暴自棄とはこういうことを言うのだろうか。
反抗心を隠さず、もっと言ってしまえば今さら大学の上下関係などもうどうでもいいというように先輩を睨み付ける。
自分で今の自分の状況を終わらせようとしている。そんな俺がいた。
「いいか、乱馬。もっと大人になれ」
「……大人って、俺だってあと一年もすりゃあ」
「そういう意味の大人じゃない。もっと相手の気持ちを汲み取れるようになれと言ってるんだ」
相手の気持ち?
意味がわからねえ。言っておくが、あかねに邪険にされてんのは俺のほうだぞ。
それを真之介といい先輩といいみんなして俺ばっか責め立てやがって、一体俺の何がわかるってんだ。
いよいよ俺は苛立ってカードを壁に投げつける。それを寸前で止めたのは先輩の太い腕だった。
「なにすんだよっ!」
「それはこっちの台詞だバカっ! これは彼女が作ってくれた大事なもんじゃねーのか!?」
「もう彼女じゃねえっ!」
「なにぃっ!?」
「……っ」
「乱馬」
「……」
「はっきり言え」
「……」
「乱馬っ」
「………………よならって…………こんな根性無しだと思わなかったって」
「……、」
涙が溢れないよう、必死で鼻の付け根を押さえる。
――もう彼女じゃねえ
その言葉の威力に慄いていたのは他でもない自分自身だった。
「本当にそう言われたのか?」
「……」
「根性無しって。さよならって彼女の方からそう言われたのか?」
「……」
「いつ?」
「……」
「いいからここまできたら正直に言えって。いつ言われたんだよ」
「…………昨日」
「昨日って……お前が稽古さぼって居なかった理由はそれか」
「……」
雨が降り続く。
あの日、試合に負けたあの時から俺の心にはずっと止まない雨が降っていた。
涙は流さなかった。
ただ、気がついたら先輩の前で弱い自分を見せてる俺がいた。
一カ月前から急にあかねの態度が変わったこと。
俺の存在をひた隠しにするようになったこと。
二人の間に見えない壁を感じていたこと……。
思いを言葉で表すのが苦手な俺はぽつりぽつりと雨垂れのように単語を零す。
それを先輩はただ、静かに頷いて聞いていた。
一通り話し終えた……といってもほんの僅かな時間。
多分、十分にも満たなかったのかもしれない。
その中で昨日俺が犯した行為だけはどうしても打ち明けることが出来なかったのは、あかねの人権を守るためという都合の良い言い訳に他ならないだろう。
(あかね…………)
俺は卑怯だ。
急に自分が女々しく思え、再び口を閉ざしたところに機関車のような長い溜め息が聞こえる。
「……お前に一つ確認したいんだが、この記事が掲載されたのはいつ頃だ?」
「それは……」
先輩が指差したのは言わずもがな例のラミネート加工されたカードだった。
一つ目は忘れもしない、あかねが初めて合鍵を持って家に来た時だから梅雨の終わりに取材され……実際の紙面で取り上げられたのは夏休みに入る直前だったか。
それから夏休み中に大学構内の小さな記事で取り上げられ、三枚目は夏休みが明けたすぐ後だった。
大きな書店に行ってやっと一冊置いてあるかどうかみてーなマイナーな格闘雑誌。
そこには小さいカラー写真で俺の顔と、それから俺の名前が記されていた。
「乱馬。そこまでわかっててまだ気付かんのか?」
「気付かないって?」
「……なら質問を変えてやる。お前 格闘をなんだと思ってる?」
「……は?」
「確かに今までは自分一人で闘ってきただけかもしれん。しかしな、本格的に格闘一本で飯を食っていく。それがどういう意味か分かるか?」
「どういうって……だから負けたら終わりってことだろ?」
やれやれと大袈裟に先輩がかぶりを振る。
しかしそれは演技だけには思えなかった。
「いいか? あと一度しか言わんぞ」
「なにが」
「精神的に大人になれ。彼女の為にも」
「……っ」
「今、お前は試合に負けたから自分は用済みだと言ったな。なら なんで負けた後も彼女はこんなの持ち歩いてんだよ」
そう言って先輩が机の上に置いたのは例のカードだった。
カツンと尖った音がテーブルの上で鳴る。
それは試合開始の小さなゴングのようだった。
「さっきお前は言ったな。もう彼女じゃねえって」
「……」
「本当に相手がそう言ったのか? 別れるって」
「…………言ったも同然じゃねえか……」
「え?」
「さよならって。それが別れる以外になんだっつーんだよっ」
瞬間、ガツンとガラスの天板を叩きつける音がした。
頭を上げると目の前には鬼のような形相の先輩が握り拳を震わせたまま、俺のことを睨み付けている。
「言っとくがなぁ、今お前を殴んなかったのは優しさじゃねえぞ!? 殴んのは彼女に任せるから遠慮してやったんだ!」
「……っ」
「お前、自分だけが悲劇の主人公気取りか? 自分が何も悪いことなんかしてないと本気で思ってんのか!?」
「それは……っ」
「俺は二人の間に何があったか詳しいことはわからん。だがな、彼女がお前のことを心底心配してる気持ちだけは理解しているつもりだ。それが乱馬にわからねーなら今すぐ彼女と別れてやれ!」
胸ぐらを掴まれるかと思った。
いや、もしかしたら勢いのままボコボコに殴られてしまいたい。そんな浅はかで卑怯な俺を見抜いて先輩は手を上げなかっただけなのかもしれない。
二秒と先輩の目を見られず、視線を逸らす自分が臆病者に思えてならなかった。
今度こそ呆れ果てたというように、ふーっと鯨が潮をふくみてえな溜め息が六畳の部屋に響く。
「あのな。終わらすことは一瞬で出来る。だけど乱馬は本当にそれでいいのか?」
「……」
「誰のせいでもねえ、お前が自分で気付くことだ。じゃないと本当に彼女との未来はないぞ」
「……どーいう意味だよ」
「だからそれを自分で考えろと言ってるんだ」
「なんだよ、それって一体――」
「いいか? 明日一日だけ休みをやる。どうせ土曜の授業は取ってないんだろ?」
「休み?」
「そうだ。その間、自分がどうすべきか よく考えろ」
頭の上に巨大な影が落ち、先輩が立ち上がったのだと気がついた。
「いつまでも甘ったれてねえで自分でケジメつけろ。わかったな?」
そして俺の見送りも待たずに玄関の扉が閉まる。その音を俺はベッドにもたれ掛かりながら、どこか遠くの出来事のように聞いていた。
続きを隠す