こちらは通常の大学生編と全く繋がりの無い読切りのお話です。
拍手には乱馬視点と元ネタの裏話があります。
高校を卒業して、
大学に進学して、
乱馬は一人暮らしをはじめて。
なにがきっかけだっただろう。
最初こそ一人で乱馬の家に行くのに抵抗があったあたしも、気付けば週末ごとにこの部屋を訪れるようになっていた。
といっても、二人の関係に色っぽい変化があったわけではない。やれ差し入れだの、やれ実家に置きっ放しだった荷物を届けるだの、そこには必ず何かの理由が必要で。
「いいかげん人をこき使うのはやめてもらえる?」と憎まれ口を叩けば「勝手に押し掛けといてよく言うぜ」とかわいくない態度で返ってくる。
なのに不思議ね。どちらも「じゃあやめよう」とはならなくて。
かくいう今日は“一本無料のビデオレンタル最終日”という理由にかこつけ、六畳一間の部屋で土曜日の夜を過ごしている。
「……あー終わった。意外と大したことなかったな」
「そ、そう……?」
ぎゅるぎゅるとテープの巻き戻す音が響く部屋の中、腕を伸ばして体をほぐす乱馬。それとは対照的にあたしは毛布でも被りたい衝動を必死でこらえていた。
「あれ? もしかしてあかね、びびってんのかよ」
「び、びびってなんかないわよっ! ちょっと肌寒かっただけっ」
「ふーん」
ああ、もう人が悪いのは相変わらず。にやにやと人を見下ろすその目は全てをお見通しに違いない。
……そう。
何を血迷ったのか、今日借りてきたのはちょっと前に話題になったホラー映画だった。
こういっちゃなんだが、あたしはお化けとか幽霊とかの類が大の苦手だったりする。そこにおぞましいスプラッタも加わればその恐怖はさらに増し、なのに観たいという欲求を抑えられないのだから我ながら難儀な性格だ。
もちろん、映画を観ている間も二人の間は拳ひとつ分しっかりと空いている。
手を繋ぐことなんてないし、間違っても肩を抱き寄せられるようなことだってない。
それもそうか。
だってあたし達は“親が決めた許婚”同士なだけで、恋人でもなんでもないただの男女だ。
普段は別々に暮らし、たまにこうして会って、週末だけ一緒に過ごすただの知り合い。
この部屋に訪れることは慣れてきても、この部屋で朝を迎えたことは一度もない。
それを聞いた知人は口を揃えて「何もないなんて信じられない」だの「ただの知り合いの域を越えている」だの騒ぐけれど、しょうがないじゃない。
だって正真正銘、あたしと乱馬の間には何もないのだから。
やれやれと乱馬が机の上のカップを流しに持っていく。
これはいわゆるタイムアップの合図。
いつの間にかできていた、あたしと乱馬にしかわからない暗黙のルールみたいなもので。
「帰んのか?」
「うん。そろそろ電車の本数も少なくなっちゃうし」
「そっか」
ほらね、引き止める素振りもなくあっさり頷く。
あたしは意識的にのろのろと身支度を整え、玄関の三和土で靴に手を伸ばして前屈する。いつもならば「ちょっとコンビニまで」なんて言いながら駅までついてくるくせに、今日の乱馬はポケットに鍵ひとつ突っ込む様子もない。
「じゃあ帰るわね」
「おう」
お気に入りのサンダルは、既に両足ともしっかりストラップが留まっている。
ざりっと地面を擦る靴底が、往生際の悪さを物語っているようでバツが悪い。
「あの……」
「なんだよ」
「……今日は買い物とかないの?」
「べつに。ビデオも明日返せばいいしな」
「…………そう」
ぎゅっと握ったバッグの取っ手が手に食い込む。
えーっと、何か忘れ物ってなかったかしら。そんな風に思う時に限って携帯も財布も家の鍵も、必要なものは全て鞄の中にしっかり納まっていたりするもので。
「、送ってくれないの?」
この一言はなかなかに勇気がいった。それもそのはず、口にした本人が一番驚いているわけで、なのにそこで返ってきたのは「やだね」とにべもない言葉なのだからどこまで薄情なのだろう。
「いいわよ、ケチ」
上擦りそうになる声は傷付いたからじゃない。ただ、さっきの映画が怖ったから。
そう自分に言い聞かせ、玄関のドアノブに手を掛ける。
乱馬はこちらを見ようともしない。まるで探し物でもするようにシンクの中に視線を落とすその様子は、演技でもなんでもなく家を出るつもりはないのだとわかった。
(……そろそろこの関係も潮時なのかな)
急に目の前がどんよりと暗くなった気がした。
纏わりつく不快な湿気がすっと冷えて足元に落ちていく。
次にこの部屋を訪れる時はもう許婚じゃないのかもしれない。ううん。その前に、あたしが再びこの部屋を訪れることなどはたしてあるのだろうか。
突き刺すような鋭い痛みが胸を貫き、今度こそ扉を開けようとした時だった。
「あかね」
不意に名前を呼ばれる。
「なに?」
お願い。この期に及んでまだ期待させないで。
しかし、乱馬の口から出たのは意外な台詞だった。
「アパートの階段、気を付けろよ。あーゆーとこにお化けはいたりするからな」
「ちょっとやめてよ、変なこと言うの」
「そうそう、うちの裏にあるあの公園さ、昔は墓地だったらしいぜ」
「う、嘘よっ」
「まー、嘘かどうかは歩いてればわかんじゃねえの」
「やだ……、」
本当にひどい男だ。わざと怖がらせるような言葉を並べ、そのくせ「じゃあな」も「バイバイ」も言わない。
あたしも言わない。
いわば我慢比べのように沈黙して。
きっとあと一言でも口を利いたら弱気なあたしが顔をのぞかせる。
────帰りたくない
喉元まで出かかった言葉を飲み込み、無言のままサムターンを反転させた時だった。
「……ひとつだけお化け出ねえ方法あるけど」
ぎしりと軋む響きは床を踏みしめた音だろうか。
いつになく躊躇うような言い方に、あたしは振り向くこともできず短く聞き返す。
「なに?」
「その…………」
「……」
「……………………と、泊まってくか? ……今日」
またみしりとタイルのしなる音がした。
綺麗そうに見えても流石は一人暮らし用のアパートだ。やっぱり造りは簡単なのかもしれないわね、なんて。こんな時に限ってどうでもいいことばかりが頭を過ぎってしまうのは、期待をしないよう自分にブレーキをかけてしまう無意識の防御なのかもしれない。
「ご、誤解すんなよっ!? ただ、もうこんな時間だし」
何も答えないあたしに対し、急に早口で言い訳を始める乱馬。
その顔が真っ赤に染まって見えるのは気のせいなんかじゃないはずで。
金曜日から冷蔵庫の中を空っぽにしておくのはわざと。
差し入れを渋々持ってくる表情もわざと。
一本しか選ぶ権利のない中でホラー映画を借りたのはわざと。
くっつけなかったのは映画のせいになるのが癪だから。
帰ろうとしたのはわざと。
家を出ようとしなかったのもわざと。
バイバイを言わなかったのはわざと。
またなと言わなかったのもわざと。
部屋にソファーがないのはドラマと違って貧乏学生だから?
ううん、違う。
部屋にソファーがないのは、同じ室内でバラバラに夜を過ごす選択肢などいらないから。
「……お化け、出ない?」
「出ねえ出ねえ」
「ほんと?」
すがるような声が出てしまったのは隠しきれない期待値で。
「もっと怖いもんは出るかもしんねーけど」
自虐的に笑うその顔も、きっと期待をしてるから。
「もっと怖いものってなに?」
「さあ……? おれも未知の世界」
「なにそれ」
吹き出すあたしに乱馬が手を伸ばす。
でもおあいにく様、まだあたしの足にはしっかりと靴のストラップが掛かっているから動けない。
「ちょっと待って」
「もう充分待った」
よろりとバランスを崩せば「どんくせえ」と支える腕があたしの手を捕える。
その背後で響いた施錠の音は、二人きりの夜を迎えるファンファーレ。
冷蔵庫の中を空にするのと同時に部屋を片付ける金曜日はわざと。
土曜日はいつもより丁寧になるブラッシングもわざと。
週末の夜に友人との約束を入れないのはわざと。
家の廊下でゆかやさゆりと大声で電話するのもわざと。
異性の影がないことを知らせるために部屋で会うのはわざと。
異性の影がないことを確かめるために部屋で会うのもわざと。
ビデオは明日返せばいい。
当日返却にしなかったのは、やっぱりわざと。
「乱馬」
いつになく甘い響きを含んで見上げてしまったのは予想外で。
「あかね」
硬い胸にぽすんと顔を押し付けられる。暴れる鼓動が耳に聞こえてくるのは、きっと二人のせいに違いない。
< END >
→ それから。
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※ 軽微なR-18の描写があります ※
R-18の類が生理的に苦手な方、原作のイメージを損ないたくない方は絶対に読まないでください。
読後の苦情等もご遠慮願います。
拍手は…………。
「あかねー。今晩だけど親父達が……って、え!?」
「きゃあっ!? ちょっと勝手に入ってこないでよっ!」
お馴染みのあひるプレートが掛かったドアを開けた途端、顔面にヒットするピンク色のクッション。他にも本やらぬいぐるみやら雨のように……っておいっ、鉄アレイだけはシャレになんねーだろうがっ!
いや、それよりも突っ込むべきことは他にあった。
飛び交う障害物を寸でのところで避け、あかねに近寄る。
「おめー、何やってんの?」
「な、何って……、べ、別になんだっていいじゃないっ!」
目の前で眉を吊り上げながら、顔を真っ赤に染めるあかね。あろうことか、その下は懐かしい風林館高校高校の制服に包まれていて。
「なんだってまたそんな若作りを……」
「違……っ! た、たまたま、クローゼットの整理をしてたら制服が出てきて、それでちょっと写真を見てたら懐かしくなってついでに着てみただけで」
「写真?」
「卒業アルバム。その、クラスの子達の名前ってまだ覚えてるかしらと思って」
ぶんぶんと首を振って誤解だと主張する。胸の下まで伸びた髪の毛が左右に揺れ、まるで草原を走る馬の尻尾のようだ。
その黒い隙間からチラチラ揺れる黄色の存在。それは紛れもなくかつてあかねの髪を結っていた黄色いリボンで、あの頃同様に長く伸ばした黒髪を飾るよう頭の後ろでちょんと留められている。
「へえ…………」
「な、なによ……」
目が磁石になったみたいにあかねの姿から視線を外せない。そのままじっくり、上から下まで舐めるように凝視する。
きっとバツが悪くて堪らないのだろう。恥ずかしそうに手の指を交差するあかねは熟れたトマトのように赤くなり、悪戯が見つかった子どものようだ。
「すげえな」
まじまじと穴が開くほど見つめ、ようやく出た言葉がこれだった。ホント、色んな意味ですげえ。しかし、あかねは別の解釈をしたらしい。
途端に眉を吊り上げ、先ほどぶん投げた鉄アレイを再び手に取ろうとする──が、そうはいくもんか。
すかさず両手を拘束し、あかねの動きを先に封じる。
「んな怒んなよ」
「な、なによっ! 元はといえばあんたが勝手に入ってきたから……っ!」
「だから悪かったって。っつーか、べつにバカにしてなんかねーだろ?」
「え?」
「思ったより違和感ねーじゃねえか」
色気がねーのは相変わらず……というお決まりの台詞は飲み込んだ。なんつーか、今はそれを言っちゃいけない。これは今まで培った経験値だ。
「意外とまだイケるな」
「え、そう? そう、かな……」
さっきまで怒ってたと思ったらこれだ。急にもじもじとスカートを握り、やれ「捨てる前に着てみただけ」だの、「たまたまあんたが来る直前に着替えただけ」だの、聞いてもいない言い訳をずらずら並べ始める。
こうしてるとあれだ。まるで高校時代にタイムスリップしたみてえで。
賑やかでバカばっかやってはあかねを怒らせ、不器用に遠回りし続けたあの頃。もしもおれがあとほんの少しだけ素直に想いを認めていたら、二人はもっと早くこうなっていたんだろうか。
何も今の自分達に不満があるわけではない。ただ、三年間の高校生活に唯一置き忘れてきてしまったようなぽっかり空いた穴。それがあかねの髪の毛を短く切り落としてしまう前の……おれじゃない他の男を想っていた頃の苦い記憶を呼び起こす。
───ああ、まただ。
わけのわからない、切なさに駆り立てられるようなこの感情はなんなのだろう。
(……あほらし。おれらしくもねえ)
気持ちを切り替えるよう、努めて明るい声を出す。
「写真見てたのか?」
「うん。卒業アルバム」
へへっと笑いながら、開いているページを手で覆う。でもおれは気付いてしまった。その下にもう一冊アルバムがあることを。
フィルムの張られたやや色褪せしている台紙はあかね個人のものなのだろう。おれの視線を察したのか、さり気なく手元に引き寄せパタンと閉じる。これは見せられない。そう言うように。
「おれにも見せろよ」
「嫌」
「なんで」
「嫌なものは嫌なの。それにあんただって同じアルバム持ってるでしょ」
なるほど。自分のアルバムはなかったことにするつもりか。けどさっき、ちらりと見えたブロック塀の外壁。縦に長い簡素な文字だけの看板。それってつまり───
「いーだろ。減るもんじゃねーんだからケチケチすんなよ」
「い・や。見たら絶対笑うもの」
「笑わねーから」
「嘘。信用ならない」
わざとらしく口を尖らせ、「はいお終い」と卒業アルバムを伏せる。けどな、ダメと言われりゃ見たくなるのが男ってもんで。
「ちぇっ」と舌打ち一回、卒業アルバムを奪うフリしてその奥にあるアルバムに手を伸ばした時だった。今度こそバッと自分の背に隠す態度は、圧倒的な拒否反応。
「と、とにかくもう着替えるから出ていって」
「…………やだ」
「は?」
「やだ。出ていかねえ」
「あんたねえ。そうやって嫌がらせするのもいい加減に」
「べつに嫌がらせしてるつもりじゃねーよ。いいじゃねえか、そのまんまで」
「よくないわよ。こんな姿、お父さん達に見られたらバカにされちゃう」
「あー、それなんだけどよ」
昼飯を食った後、親父達とおじさんは揃って町内会の集まりに出掛けちまった。要は体のいい飲み会だ。帰りは遅くなるそうだから今夜の夕飯はどっか外にでも食べに行こうか。
そう声を掛けようとして上がってきたらあかねが懐かしい格好をしていただけで。
「そうなんだ……わざわざありがと。じゃあ本当に着替えるから」
「待てよ」
どうあってもおれを追い出そうとする腕を掴む。おれの指が一周して優に余ってしまう、細い手首。丸く膨らんだパフスリーブから覗く腕は息を飲むくらいに白く、窓を閉め切った室内ではほんのり青みがかって見えた。
「この制服も懐かしいよな」
「う、うん」
「まあ、おめーのずん胴は相変わらずだけど」
「あんたねえ」
「でも部屋入った時…………」
「乱馬?」
「一瞬、高校生のあかねがいると思って。ちょっとびびった」
あの頃は到底出来なかったこんなこと。
掴んだ腕を引き寄せ、胸の中に納める。背の中ほどまで波打つ髪を上から指で梳き、当時とは違う長さに歳月を感じた。
「だいぶ伸びたな」
「うん。一生懸命伸ばしてるからね」
「式が終わったら切るのか?」
「わからない……けど、短く切っちゃうかも」
秋になったら結婚式を挙げるおれ達。
短いままでもいいと思っていた髪の毛は「一生に一度のことだから」というあかねの主張で伸ばされ、けどそれが他でもない自分のためだと思うと途端にあかねによく似合っている気がして悪くはなかった。
ただ、その上に飾られた黄色のリボン。
あの頃いつもあかねの後ろから見つめていた小さい存在は、今もおれの胸を痛めつける。
「あかね」
「……ん、」
ベッドに腰掛け、あかねの手を引く。たっぷりしたあかねの髪の毛がおれの顔に掛かった。それを耳に掛けるついでに頭を寄せ、唇を重ねる。ずっとこうしたくて、叶わなかった幼い夢。まさか卒業してから制服姿のあかねにキスするなんて思いもしなかったから、正直ちょっと照れくさい。
おれが目を開けると同時にあかねも薄く瞼を開け、慌てて閉じる。こんな初心な反応も、制服姿によく似合う。
「乱馬」
「なに」
「……ううん。やっぱりなんでもない」
そう言うと、次を催促するよう再び長い睫毛を伏せる。
(煽ってんのかよ……)
無論、あかねにそんなつもりがないのはわかってる。けどおれ、あかねが思ってる以上に高校の時からずっとあかねのこと好きだったんだぞ。こんなこと、言ってもぜってー信じねーだろうけど。
隙あらば触れたかった。
独占したかった。
きっとおれ達、関係が良すぎたんだ。
笑って怒って泣いてまた笑って。
これ以上ないと思える居心地の良いバランスを崩すのがこわかった高校時代。
あの頃のあかねが今、目の前にいる。
これで我慢出来るはずもなかった。
触れるだけで終わりそうな口付けを深くするため、桃のような頬を手で包む。
こんなすべすべなのに、中はぬるりと温かい。
「……ふ…、」
はあ……と漏らす吐息はどこか熱っぽく恥じらいを帯びている。そしてちらりとおれに視線をやると、紅潮した顔ではにかんだ。
「なんか変な感じね」
「そ-か?」
「うん。だってこんな格好だし……」
指先で摘まんでみせる水色のスカート。
もしかしてこの下に誘っているんだろうか。ともすればそんな色っぽい展開を期待してしまうおれを余所に、あかねはひとり昔を懐かしむように零す。
「もう一度あの頃に戻ってみたいな」
「え?」
「乱馬もそう思ったことない?」
「ねえ」
まったくの愚問だ。
テストに勉強、三人娘に追われる日々。
それだけじゃねえ。
水を被れば容易に女に変身し、家の中では四六時中家族に聴き耳立てられているような状況で、あかねとの関係も親が決めた許婚の域を超えることがなかった三年前。
人並みの懐かしさはあれど、戻りたいかと問われればその必要性がどこにもない。
しかし、あかねは違うらしい。
おれの回答に不満げな声を漏らし、「あたしはもう一度戻ってやり直したい」と繰り返す。
おい…………待てよ。戻りたいはともかく、やり直したいってなんだよそれ。なんで今、そんなこと言うんだよ。
「なんで?」
「え?」
「おめーはその、やり残したこととかなにか後悔したりしてんのかよ」
くそっ。なんで声が上擦りそうになるんだ。
こんなのただの戯言じゃねーか。なのに。
「そりゃ、後悔の一つや二つはあるわよ」
「……たとえば?」
ただの世間話。流れのノリ。一般論。
昔を思い出せば誰でも口にするような会話。
わかってる。わかってるけど。
「そうねえ。やっぱり高校時代、もっと真面目に勉強したらよかったなって」
「してたじゃねーか」
「あんたよりはね。それに部活も入っておけばよかったって思うし」
「他には?」
嘘つけ。そんな理由じゃねーだろう?
きっとあかねも誤魔化せないと観念したのだろう。さして悪びれることなく舌を出す。
「他? 他は……もっと高校生らしく恋愛しておけば良かったなって」
「……っ、」
「ほら、あたし達ってあと数か月後には式を挙げるでしょ? でも本当は」
「本当は、なんだよ」
「乱馬?」
「本当はって…………」
それってあれか? もっと他の男と恋愛しとけばよかったってことか?
……いや、違う。あかねの性格上、そんなころころ器用に好きな奴が変わるタイプじゃない。
あかねの言う恋愛で、おれと会う前から唯一ずっと想い続けていた相手。
────東風先生。
もしかして、あの時に気持ちを伝えられなかったこと。
もしかしたら先生とどうにかなっていた可能だってゼロではなかったことを後悔してんのか?
「乱馬? ねえ、どうかした?」
「……あ?」
「なんか怖い顔してるから」
「、別に怖い顔なんかしてねーよ」
「嘘よ。今の言い方だって──」
「だから怖い顔なんかしてねーだろっ!?」
黙らせるように唇を重ねる。いや、押し付けると言ったほうが正解だろうか。
予想しなかった勢いに酸素を吸い込むことも儘ならないままあかねが目を見開くけど構うもんか。呻き声のような声が口の中に伝わってくる。けど止めてやれない。
息苦しくなって唇が離れる。肩で息するあかねの顔は明らかな戸惑いを浮かべていた。
潤んだ双眼がどうしたのと問い掛けてくるけれど、そんなのおれだってわからない。
ただ、ここでやめられないことだけははっきりしていて。
どこか逃げ腰になるあかねの腰を掴み、膝の上で横抱きにする。その上から馬鹿みたいに口内を貪り、自分の唾液が流れ落ちるのも構わず求めた。
ドンと胸を叩かれる。
苦しいの合図。仕方なく少しだけ表面を離し、はあ、はあ、と熱い吐息を漏らす濡れた唇を見てまた重ねる。
「乱……っ、ストップ! ストップ、ね?」
「なんで」
「だって、こんな明るいし」
「べつにいーだろ」
「ほ、他の家族に聞かれちゃうかもしれないし」
「だからさっき言ったじゃねーか。親父達は留守だって」
「でも……」
「まだなんかあんのかよ」
つい剣のある言い方になってしまうおれに、たじろいだ様子であかねが言い淀む。
頼むからそんな顔すんな。別に怒ってるわけじゃねーんだから。
「と、とにかく着替えるからそれまで部屋の外で待ってて」
「やだ」
「あんたねえ……」
わざとらしく溜め息をつくと、「はい」と手渡されたのは卒業アルバムで。
「着替えてる間、廊下で見てていいから」
「いらねえ」
「なんでよ。さっきまで見たいって言ってたじゃない」
あのなぁ。それはもう一冊のほうだろうが。
床へ置きっ放しになっているアルバムに目をやる。赤い表紙に金の模様が施されたいかにも昔ながらのアルバムといったそれ。途端にあかねが狼狽し、グイグイとおれを外に追いやろうとするその態度が気に入らない。
「なんでここに居ちゃダメなんだよ」
「だから着替えたいんだってば」
「っつーか着替える必要ねーだろ?」
「え?」
「今、親父達もいねーんだぜ」
つまり、そういうことをするチャンスで。
しかし、あかねも頑として譲らない。それどころか明らかに戸惑った様子で制服の胸元を押さえる仕草は、操を守る少女さながらの断りを示している。
拒絶。
すとんと落ちてきたのがこの感情だった。
「その……こんな格好だし」
「ダメなの?」
「え?」
なんであかねが躊躇うのかがわからない。
別に制服姿だっていいじゃねーか。それで抱かれて何か困ることでもあんのか?
あの頃、到底出来なかったこと。
おれはあの頃の記憶に少し甘い思い出を加えたいだけなのに、それの何がいけないのか。
「なんでそんな嫌がんだよ」
違う。
違う。
怒ってるわけじゃなくて。
「おれとこーゆーことすんの、嫌なわけ?」
なに言ってんだおれは。
散々キスしといて言う台詞じゃねーだろうが。
「乱馬?」
…………ああ、でもやっぱりあかねが悪い。
おれの傷を掘り起こすような真似するから。
強引にあかねをベッドに沈める。
どさりと体重の掛かる音。黒い川のように髪の毛が広がり、目を丸くしておれを見上げる、その表情はまるで狼に狩られるウサギのようで。
「……っ」
腹の上に跨り、顔を近付ける。反射的に背ける頬を手で押さえ、わざとぐちゅぐちゅ音を立てて舌を絡ませた。
なんだ、この征服欲は。
何も疑ってるわけじゃない。あかねの気持ちは嫌ってほどわかってる。
だけど過去は変えられない。
おれ以外に見せていた はにかむ笑顔。
おれ以外の男を想って伸ばした髪の毛。
少しでも女らしく見てもらおうと、お行儀よく結われたそのリボンが気に入らねえ。
「……………………ムカつくんだよ」
「え……?」
「今さら他の男を懐かしむような真似しやがって」
あかね、普段はこんなのつけねーじゃねえか。
「もうリボンはしねーの?」って聞いたら「あたしにはもう幼過ぎるから」なんて笑ってよ。
さり気なくラインストーンの光るシックな髪留めを見て、おれはどこかホッとしてたんだ。
なのになんで。
「他の男って……ちょ、ちょっと待って、だって東風先生は、」
「っ、他の野郎の名前なんか聞きたくねえっ」
「乱……っ!」
聞きたくねえ。
あかねの口から。
こんな格好のあかねの口から先生の名前なんて聞きたくなかった。
顎を捕え、強引に唇を抉じ開けて中を弄る。キスだけでは飽き足らず、制服の上から乱暴に両胸を揉みしだく。
ぐにゃぐにゃと手の中で形を変える乳房。それでも硬いワイヤーの入ったカップに覆われていることが、ささやかな抵抗のようで気に入らない。
ならば────
乱れたスカートの裾から手を差し込む。滑りのよい生足はぎゅっと間を閉じて侵入を拒むが、そんなのお構いなしに内腿へ、更には足の付け根へ手を這わす。
「乱馬っ! い、一体どうしちゃったのよ!?」
「うるせえっ。元はといえばおめーがわりーんだろ!?」
「なんで……っ」
「いーから黙れよっ」
膝の後ろに腕を通し、あかねの顔のすぐ横に足が来るよう折り曲げた。
無理な姿勢をとらされた恥骨が浮かび上がり、襞に沿った下着は丸見えになっている。
「やだっ! こ、こんな格好、」
「よく言うぜ。いつもしてることじゃねーか」
「そんな、それは、」
「いーから。ちゃんと気持ち良くしてやるよ」
正確にはこの言葉は正しくなかった。
気持ち良くしてやるのではない。
辱めてやる、が正解だろう。
ショーツの前面をぐっと掴み、引っ張り上げて食い込ませる。嫌だとか恥ずかしいとか、そんな訴えには聞く耳を持たなかった。
ぴったりと張り付くレースの布地。その下にある小さな粒の形までわかるように食い込ませると、楕円に色濃くなった上を爪でゆっくり擦り上げる。
「これ、なんだよ」
「や…っ!」
「嫌がってんのに感じるのか、あかねは」
一体おれはどうしちまったんだ。
ダメだ。
謝るなら今のうちだ。
わかっているのにサディスティックな感情が止まらない。
おれのこと好きなんだろ?
嫌がってるフリして本当は嬉しいんだろ?
ならおれが何しても許してくれよ。
ぬちりと指を沈み込ませたそこはいつもより滑りが悪いものの、徐々にショーツの船底を濡らしていく。
でもまだだ。まだ全然足りねえ。
もっとあかねから求めて欲しい。
その一心で横から指を挿し込み、ぐちゃぐちゃに中を掻き回す。
「やあ……っ! やっ、こんなの、や…っぁ、」
…………なんでだよ。
こんなに濡れてきてんのにまだそーゆうこと言うのか。
クロッチからはみ出た下生えを指で引っ張る。
今、おれの目の前で恥ずかしいとこ見られてんだぞ。
やだって言いつつ、はしたなく蜜音をぴちゃぴちゃ立てて。
「っ!、ひ…っ、あっぁあっ!」
ぱくりとショーツの上から口に含む。わざとちゅうちゅう音を立て、執拗に吸い上げる中心の粒。
広がる染みがあかねの愛液かおれの唾液かはわからない。ただ、皺の寄った小さな布切れは羞恥を煽るだけの存在になり下がっていた。
必死で声を噛み殺すあかねを見下ろし、手の甲で口を拭う。
「……そんなに先生との思い出が大事なのかよ」
「な、に言って……、」
ひくひくと、達する直前で口を離されたあかねが頼りない目でおれを見上げる。
なに泣きそうになってんだよ。
感じてるくせにやだやだ言いやがって、やめた途端にこの表情だ。
これってあれか。
気持ち良くて泣いてんのか?
それとも当時の気持ちを思い出して泣いてんのかよ。
「おれのこと拒む理由も先生ってわけか」
「え……?」
制服の下に広がる波打つ黒い髪。
あの頃、東風先生のために伸ばされた髪の毛は、健気なあかねの恋心そのものだった。当時を彷彿させる今日の髪形からは、せせら笑うように黄色いリボンがちらちら揺れる。
「本当はまだどっかで先生のこと気にしてるからなんだろ? だからそんな当てつけみてーにリボンなんかしやがって」
「そんな……っ、そんなわけない! これはたまたま取ってあったから、」
「嘘つくんじゃねーよっ。さっき見えたんだからな、あかねが先生の写真見てんの」
「違……っ! あ、あれは偶然、そんなんじゃなくって、」
否定はなかった。それはつまり、認めたわけで。
おれのいないところで他の男の写真を見ていた。
ただの男じゃねえ。初恋の。あかねが一途に焦がれていた相手の。
どろりと黒い感情が食道を滑り落ち、胃の底で広がった。
まるで重たい鉛を飲み込んだように、どんよりと沈む息苦しさは怒りとなってみるみる全身を侵していく。
失望? そんな言葉じゃ生ぬるい。
あとわずかで結婚するというのに他の男に想いを馳せていたあかね。
こんな格好で。他の家族もいない休日に。
それだけじゃねえ。
こともあろうに、高校時代をやり直してえだと?
それってあれかよ。
おれと出会わなきゃよかったってことか。
いや、その前に。
先生と青春を謳歌していればよかったとでも言いたげな、揺れる瞳が気に入らねえ。
「先生の写真見てなにしてたんだよ」
「え?」
「そーやっておれがいない時に昔の男を想ってんのか」
「昔って、だから違うんだってば!」
「よく言うぜ。んな制服着てご丁寧に髪まで再現してたくせによ」
「乱馬? ねえ、どうしちゃったの、」
気に入らねえ。
気に入らねえ。気に入らねえ。
おれがいないところで他の男になんか気ぃ取られやがって。
もしかしてあれか。おれが知らねーだけで今までもこういうことがあったってのかよ。
「シてた?」
「え……」
「してたんだろ? 正直に言えよ」
膝であかねの股を突く。濡れたショーツに覆われたそこをぐりぐり刺激すれば、お預けされたままの熱できっと敏感になっているに違いない。
僅かにあかねが身を捩った。
結局こうだ。口ではなんだかんだ言いながら、ちゃっかり感じやがって。
「なあ。一人ですんの、気持ちいい?」
「なっ、なに言って……!」
「正直に言えって。もしおれが来なかったら、今頃誰かさんを想いながら一人でシて──」
「乱馬っ!」
ドンと体を突き飛ばされる。
左頬に鋭い痛み。続いて右頬にも一切遠慮のない平手打ちが炸裂した。
そしてまたもう一発。
「バカっ!」
四発目は脳が震えるような頭突きだった。
不意打ちで食らう衝撃は思った以上に激しく、一瞬怯んだおれの肩にあかねの体重が圧し掛かる。
「…っ!?」
くるりと視界が反転した。
ギシギシとスプリングの軋む音が耳のすぐ横で聞こえる。
自分がベッドに横たわっている。気付いた時にはおれの腹にあかねが馬乗りになっていた。
「バカ!」
「あかね?」
「乱馬のバカっ! あんたって最低! もう大っ嫌い!」
「な、なんだよ、突然」
「突然じゃないっ! バカバカバカバカ、乱馬なんて大っ嫌い!!」
「おいっ! バカはいいとして嫌いとか言うんじゃねえっ」
「嫌い! 嫌い、嫌い、大っ嫌い!」
「っ、…のやろう……!」
上半身を勢いよく起こす。その反動で後ろにひっくり返りそうになったあかねの背中を支え、噛み付くようなキスをする。
「そんなにおれが嫌いなのかよ!?」
「嫌いっ! 今のあんたは大っ嫌い!」
「あーそうかよっ!」
おもしろくねえ。たとえ本心じゃなくともおもしろくねえ。
そんなギリギリと人の顔睨みつけやがって、これじゃあまるで出会った頃とおんなじだ。
「言っとくけどなぁっ、あかねはもうおれのもんなんだぞ!」
「なによ偉そうにっ!」
「偉そうじゃねえよ! 事実を言ってんでいっ!」
ムカつく。
ムカつく。
この期に及んでなに言い返してんだよ。
少しは素直におれの話を聞きやがれ!
「ったく かわいくねえなっ!」
「だったら離せばいいでしょっ!」
「やだねっ。もっとこーしてやる!」
がちんと歯がぶつかるような勢いだけのキス。それなりに痛みもあったはずなのに、おれもあかねも一歩も引かない。
「こんなことしてなんのつもり!?」
「おれだってわかんねーよっ!」
「なにそれっ! いつも勝手なんだから!」
「っ、勝手なのはおめーのほうだろう!? 昔の男を懐かしむような真似しやがって!」
「なによ、懐かしいって思っちゃ悪いわけ!?」
まさかここにきてまだ歯向かわれるとは思わなかった。
それだけじゃねえ。懐かしんでいたと。
先生のことを想って懐かしんでいたと認める気か。
「…………なさねえ」
「え?」
「言っとくけどおめーがどんなに嫌がったって離してなんかしてやんねーからなっ」
「わかってるわよ」
「おれのこと好きだって言ったくせに!」
「言ったわよっ! それが悪い!?」
「あーわりいよっ! 好きだっつったのに騙しやがって!」
「騙してなんかないじゃないっ」
「今さらなんだからな、」
「なにがよ」
「おめーが他の男に未練があろうが今さら手放してなんかやんねーぞ!?」
「だから未練なんかないってば!」
「おめーは……っ、あかねは一生おれだけのもんで」
「そんなのわかってる!」
再び胸に衝撃が走った。
が、さっきとはまるで違う。
硬いのに柔らかい、丸みを帯びた温かさで。
「………………お願いだから」
「え?」
「お願いだから。ちゃんと話、聞いてよ」
「あ、あかね?」
「言ったじゃない……。あたしが好きなのはあんただけだって」
「……、」
言った。確かにおれが好きだと、あかねは頬を染めていつも言う。
けどじゃあさっきのことはどう説明すんだよ。
すっかり黙ってしまったおれの前髪を掻き分け見つめるあかねの双眼は、おれが目を逸らすことを許さない。
「東風先生は、違うでしょ?」
「っ、その名前は聞きたくねえっ」
「なんでよ。だってもう関係ないじゃない」
「関係ないって」
「東風先生はかすみお姉ちゃんの旦那さんなのよ?」
…………ああ、まただ。
何度も聞いてきた、“かすみお姉ちゃんの旦那さん”。
わかってる。
そんなことはわかってんだよ。
でもな、あかね。
まるで“かすみさんの旦那だから”諦めたというように聞こえてしまうおれは何か間違ってるんだろうか。
「…………乱馬がなんでそんなに先生にこだわるのかはわからないけど」
ゆっくりと、あかねの腕がおれの背中に回される。
なだめるように。
なぐさめるように。
ゆっくりゆっくり、肩の下を上下にさする手は、母性に溢れた女そのもので。
「前から言っておきたかったの。あたしが先生を想ってたのなんてもうとっくに過去の話なのよ?」
「……」
ほらみろ、やっぱり好きだったんじゃねーか……とは流石に言えなかった。
「大体、好きっていったって、あの頃は年上のお兄さんに対する憧れだったのかもしれないし」
「へっ。別に気ぃ遣わなくっていーけどよ」
「だから気を遣ってなんかないってば」
嘘だ。
だってあかね、東風先生の前ではしおらしく頬を染めたりしてたじゃねーか。
健気に髪の毛なんか伸ばしちまってよ。
良牙に髪を切られた時だって、おれじゃなく東風先生の胸で泣いてたくせに。
「あんたのことだから、どうせ“東風先生のために髪の毛伸ばしてた”とか、“失恋して先生の胸で泣いた”とか思ってんでしょ」
ギクリと心臓が跳ねた。
なんだこいつは。もしかして心を読めるエスパーなのか!?
「今、あたしのことエスパーか? って思ったでしょ」
「そ、そんなこと、」
「ああ、こいつには一生敵わない。やっぱりおれはあかねが好きだ。大好きだ。そう思ったでしょ?」
「いや。それは思ってねえ」
「嘘つき」
「ほんとだっつーの!」
思わずムキになって声を張り上げる。
なのにこいつときたらどうだ。
愉快そうにくすりと笑って。あろうことか、おれの髪の毛をよしよしと撫でている。
「あーあ。だいぶ慣れたつもりだったんだけどな」
「あ?」
「あんたって見かけによらずヤキモチ妬きなのよね」
「だっ、誰がヤキモチ妬きだ!」
「だからあんたよ、あんた。自分のこともわからないの?」
「はあっ!? べ、別におれはヤキモチのあかねなんか関係なく妬いて」
「もう。さっきから支離滅裂じゃない」
あ…………。
これだよ。この堂々とした優しさにおれは弱いんだ。
いつだってあかねはそうだ。
あかねの前ではカッコつけていたいのに、そうはさせてくれない。
時にカッコ悪くって、弱くって。
自分でも情けねえと思う顔を見せた時ほど、こいつは嬉しそうに笑うんだ。
「言っときますけど、あたしは誰かの為に気持ちを抑えるなんてことはしないわよ」
「え?」
「だってそうでしょ。本当に好きだったらたとえ相手がお姉ちゃんでも奪ってみせるもの」
「おめー、なんちゅう恐ろしいことを言うんだよ……」
「そうかしら?」
「そうだろ」
「じゃあ聞くけど、もしもあたしが他の人を好きになったらあんたは簡単に諦めちゃうの?」
「は?」
「もしもあたしがすごーくカッコよくて強くて優しくてお金持ちで、あたしだけを大事にしてくれる王子様みたいな人を好きになった時。そしたらあんたは“わかった”って身を引くわけ?」
「バーカ。そんな条件の揃ったやつ、おれしかいねーだろうが」
「お金持ちも?」
「う……っ、そ、それは、その、出世払いってやつで」
「なんだか頼りないわねぇ」
「いちいちうるせ―なっ! と、とにかく、そんなのおれは認めねーぞ!」
「へえ。認めなかったらどうするわけ?」
「決まってんだろーが。奪い返す」
……………………って あれ? ちょっと待て。
もしかしておれ、なんかすげー恥ずかしいこと言わされてねーか?
あかねときたら堪え切れなくなったというようにゲラゲラ笑い、腹まで抱える始末で。
「相変わらずすっごい自信家!」
「う、うるせえっ! おめーこそどさくさに紛れてなに言わすんでいっ!」
「乱馬ってあれよね、一歩間違ったら危ないストーカーよ」
怖い怖いと大袈裟に自分の腕を抱く仕草におれは返す言葉がない。
なんだよ、さっきまであんな追い詰められてたくせに。
「涙が出てきちゃった」と指で目尻を拭う。ああクソっ、やっぱり一筋縄ではいかないやつめ。
「でも良かったじゃない。幸いストーカーにならずにすんで」
「あ?」
はあーと呼吸を整えながら、時折思い出し笑いを挟みつつ真面目な顔をあかねが作る。
「乱馬はあたしのことを簡単に諦めないんでしょ?」
「……」
「返事は?」
「……諦めなかったらなんだってんだよ」
「一緒だなぁと思って」
「は?」
「あたしも一緒だもの。あんたのこと、そう簡単に手放す気はないから」
「……っ、」
「だからお互い様ね」
あははと笑う。
こいつ、卑怯だろ。
おれ、さっきまであかねのこと疑ってひでーこと言ったんだぞ?
言っただけじゃねえ。
押し倒してレイプ紛いなことまでして。
なのになにそんな笑って許そうとしてんだよ。
お人好しにもほどがあんだろーが。
「乱馬」
「……なんだよ」
「あんたと出会って、あたしは高校時代が人生で一番楽しかったわ」
「あーそうかよっ」
「だからね、それに関してはなんにも後悔してないの。本当よ」
「……」
おれだって…………とはやはり言えなかった。
あの時、あかねに想いを伝えられていたら。
素直に祝言を挙げていたら。
後悔なんてキリがない。
それを笑って振り返るには、決定的に足りない何かがある。
そんなおれの心を読んだのだろうか。
あかねの指がおれの頬をそっと包む。
「上書き、してみる?」
「え……」
「高校生の頃、出来なかったこと」
唇が重なった。
さっきとはまるで違う、優しい包み込むようなキス。
ちゅっ、ちゅっと小鳥のような音を立て、額から頬、頬から鼻先、鼻先から唇にキスの雨を降らせるのは、水色の制服を纏ったあかねで。
「好きよ。あたしは乱馬が、好き」
ちゅっと唇が離れた後、耳元でささやく声。
まずい。不覚にもちょっと泣きそうだ。
だってそうだろ? そんな制服で、そんな長い髪の毛で。
瞳にはおれしか映さないまま、そんなかわいいこと言われたらもつわけない。
「……上書き、していいのかよ?」
おれもあかねの腰を引き寄せ、最後の確認をする。
「乱馬」
名前緒を呼ばれた痕に一瞬唇が触れ合って。
「上書き、して」
耳朶に、蕩けるような熱を注がれた。
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