4. ほどけた糸 

2016/04/26


【 4.ほどけた糸 】



 ……バタン。
 乱馬が扉に掛けていた手を離した途端、その支えを失って玄関が音を立てて閉まる。
 と同時に、ベランダから一番奥まっているであろう玄関は、外の光を失って急に薄暗いものになった。
 夕方にはまだ早いとはいえ、コンクリート特有のシンとした空気の冷たさを背中に感じる。でも、それ以上にあたしの肩に回された乱馬の腕が力強くて、温かくて。男、で。
 ああ、あたし今、乱馬の腕の中にいるんだ。
 それを理解するや否や、あたしは何も考えられなくなって静かに目を閉じた。
「……なんで今日、来たの?」
 あたしの首の右後ろから聞こえる、記憶より少しだけ低い声。
「だ、だから……おば様に頼まれて……それで……」
「……おふくろに頼まれたから、か?」
「……だ、だって、」
「……」
 あたしは乱馬がどんな顔をしているか分からない。
 それは乱馬も同じだろう。
 ……。
 お互い、言葉を選び過ぎて何も言えない。
 再び、乱馬が口を開いた。
「なんで今日、ここに来たんだよ……」
 先程より、少しだけはっきりと聞こえた。
 
 ああ、本当に乱馬だ……。
 
 そう思うと同時に、あたしはだらりと下にぶら下がったままの自分の両手をそっと乱馬の腕に添える。
 筋肉質なのに硬過ぎない、いつもあたしを守ってくれた大好きな手。その筋をすっと撫でれば、僅かに乱馬の身体が揺れるのを感じた。
「……おば様に、頼まれたから……」
「……」
「でも……」
「……」
 でも。
「……ホントはあたしが…………あ、会いたくて……」
 そう言った瞬間。
 今度こそ、背中が軋むほどに強く抱きしめられた。
 
 カクンと足の力が抜けていく。
 あたしは自分の身体を支えるのでさえ億劫になってきて、乱馬の腕に全体重を掛けた。
 最初はしっかり立って支えられていたが、徐々に身体を重ねたまま、どちらからともなく床に座り込んでいく。
 ぺたりと完全に玄関の三和土に膝をつけば、それまで緊張を保っていた身体が急にぐにゃりと柔らかいものに変わった。そうなることで互いの肌が密着し合い、二人の隙間を埋めていく。
 懐かしい匂いに、身に覚えのある温かさ。
 嬉しくて。
 ただ気持ちがよくて。
 冷えきったコンクリートは容赦なく体温を奪っていくのに、それ以上の熱があたし達を包む。
 
 どれくらい、そうしていただろう。
 不意にすぅっと、乱馬が大きく息を吸った。
 そして身を起こし、玄関脇の照明を点けると
 「……こっち。そこ、冷えるだろ?」
 あたしを部屋の中へ手招き、誘導する。
 離れてしまった体温に一瞬寂しさを感じながら、うんと短い返事をしてあたしも靴を脱いだ。
 
 今までも乱馬と二人っきりになることはあった。けれど、それはあたしの部屋だったり、みんなが寝静まった居間だったりで。
 天道家で乱馬が過ごしていた部屋はおじ様やおば様と共同だったし、そこへあたしがわざわざ行くことなんてない。あってもせいぜい、朝に乱馬を起こす時くらいだ。
「お邪魔、します……」
 そう言っておずおずと足を入れたその部屋は、フローリング張りになった六畳ほどのスペースだった。
 ベッドと小さなガラスのセンターテーブル。それに積み重ねられた数冊の本とごみ箱。ベランダに続く窓にはかろうじてカーテンが掛けられているが、まだテレビもない。小さな冷蔵庫の上にシンプルな電子レンジ。備え付けてある、気持ちばかりのキッチンシンクの上の吊戸棚には少数のマグカップやお皿など、本当に必要最低限の物だけが並んでいた。
 あたしが思わずきょろきょろしていると
「あんまジロジロ見んじゃねーよ」
 照れたように乱馬が言う。
 毎日、この部屋で乱馬は生活してるんだ……。
 あたしの知らない、乱馬の日常。
 あたしが呆けたように乱馬の顔を見ていると
 「……ちょっと待ってろ」
 こちらに背を向け、キッチンの前でカチャカチャと音を立て始めた。
 どうやらお茶でも淹れているのか?ゴオオォォと電子ケトルの沸騰する音が大きくなる。
 その間にも乱馬はあたしのコートをハンガーに掛けたりカーテンを開けたりと気忙しそうに動いていて、まるで何かをしていないと訪れる沈黙に耐えられないと言っているような気がした。
 
「ほれ」
 ゴトリとあたしの前に置かれたマグカップ。
「あ、ありがとう」
 それを手にしたあたしの右隣には、大きな湯呑みが並んでいる。
 あたしはベッドを、乱馬は直角に向かい合うようにベランダを背にして、ガラステーブルを挟むとそれぞれ座り直した。
「……」
 先程まで熱い抱擁を交わしていたにもかかわらず、いざとなるとなかなか言葉が出てこない。
 なんとなく乱馬の顔を真っ直ぐ見ていられなくて、マグカップに視線を落とす。今淹れてもらったばかりの紅茶が、白い湯気を立ててあたしの顔をほわりと包んだ。
 静かで、時間が流れているのも忘れてしまうような、深い静寂。
「……あの」
「……あの」
 口を開いたのは、ほぼ同じタイミングだった。
「え? な、なに?」
「う、ううん、なんでもない」
「いーから言えよ」
「ら、乱馬こそ、お先にどうぞ」
 再び訪れた短い沈黙。
 その均衡を、低い声が破る。
「……久し振り、だな」
「う、うん」
「元気にしてたか?」
「うん、おかげさまで。乱馬は? 乱馬も元気にしてた?」
「おう。見てのとおりだ」
「そう」
「……」
「……」
 沈黙を打破するにはお互いの体調と天気の話、なんてよく聞くが、とてもそれだけでは間が持ちそうになかった。それ程までに、あたしと乱馬が話さなくなっていた時間は短くない。
(あ……と、そうだ)
 あたしはこの部屋にやってきた目的を思い出し、ガサガサと自分のカバンの中から二つに折り畳んだ書類の袋を取り出した。
 「あの、これ。おば様から預かってきたんだけど」
 そう言って乱馬に渡すと
「ああ、わりーな」
 大した反応も見せず、無造作にポイと雑誌の上にそれを置いた。
 ……。
 どうしよう。
 これで用事は済んでしまった。
 あたしはちらりと乱馬の表情を伺う。
 乱馬はというと左肘で頬杖をつきながら、あたしとは反対側の壁の方をぼんやりと見つめていた。
(あたし……)
 乱馬に会ったら、素直に自分の気持ちを話そうと思っていたじゃない。
 それなのに、その決意はまるで風船の空気が抜けるようにシュルシュルと萎んでいく。
「あ、あの……」
「……」
「そ、それじゃ、あたし、もう帰るわね」
 居たたまれなくなってそろそろと立ち上がろうとすると、乱馬が頬杖をついたまま視線だけこちらに向けた。
「……紅茶。まだ飲み終わってねーじゃねえか」
「あ、そ、そうね」
 確かに、せっかく用意してくれたのに、両手で挟んでいただけで口を付けないのは忍びない。
 あたしはそっとマグカップに唇を寄せると、コクリと一口飲み込んだ。
「あ……美味しい」
 それは乱馬に似つかわしくない、薄っすらフルーツのフレーバーが香る淡い紅茶で、あたしが大好きなタイプの味だった。
 また一口。
 そんなあたしの様子を見て、乱馬も自分の湯呑みのものを手に取る。

 この紅茶を飲み終わったら。
 そしたら本当にバイバイの時間かもしれない。
 ゆっくりゆっくり、時間を掛けて一口ずつ……。
 あたしは手の中の琥珀色の液体を見ながら、そんなことを考えていた。気付けば、窓の外の景色が徐々に紅茶と同じ色に染まっていく。
 
「……学校、さ」
「え?」
「入学式っていつ?」
「あ、えーと……確か四月の四日、かな」
「ふーん、俺と一緒だな」
「そっか」
「……」
「……」
「あのさ」
「あの、」
 妙なタイミングの悪さを感じながら、もう一度あたしが聞く。
「な、なに?」
「……あ」
「……」
すると今度は、乱馬が思い掛けないことを尋ねてきた。
「……あのさ、俺が行く大学ってどこか知ってるか?」
「え?K大でしょ?」
「学部は?」
「え……ス、スポーツ、学部?」
「外れ。正確には体育学部。あかねは?」
「あたしは一応、T大学の……」
「さすがに学校ぐれーはわかってるよ」
 乱馬が軽く笑う。
 こんな些細なことなのに、胸がドキリと跳ねるなんてよっぽどだ。
「学部。なんだっけ?」
「あ、えーとね、医療技術学部って言って、その中の柔道整復学科って言うんだけど…」
「なんか難しそうだな」
「うん。あんまり聞いたことないわよね」
 あたしもへへっと笑って返す。
「……不思議だよな」
「なにが?」
「俺達、ついこの間まで同じ家に住んでたんだぜ? なのにお互い、こんなことも知らねえ」
「あ……」
「こーやって喋んのも、なんか久し振り過ぎて……」
 なに話したらいいのかわかんねぇと、聞こえるか聞こえないかの小さな響きで呟いた。
 あたしはギュッとカップの持ち手に力を入れる。
 だんだん話せなくなっていくことに戸惑いを感じていたのは、あたし一人だけじゃなかったんだ……。

(……ちゃんと話さなくちゃ。乱馬と)

 あたしは乾いてはり付きそうになる唇をそっと舐め、カップの中を見つめながら口を開いた。
「……あたしね、ずっと乱馬に言いたいことがあって」
「なんだよ」
「あの……乱馬はもう、覚えてないかもしれないけど。前に……夏くらいの頃、あたしの部屋に乱馬が来たことあったでしょ?」
「……ああ」
「あ、あたし、その……あの時のこと、ずっと謝りたくって……」
 消え入りそうになる声をこらえながら、続ける。
「乱馬が心配して来てくれたのに……あたし、なんか全然余裕がなくて……」
「……」
「それで、えっと。本当はずっと気になってて……で、あの……」
 こんな時、ドラマのようにはすらすらと言葉が出てこない。
 それでも、この気持ちは作られたものじゃないから。
「……かわいくない態度を取って……ごめん、なさい……」
 ずっと。
 ずっと言いたかったその言葉を、あたしはやっと伝えることが出来た。

「……謝んなきゃなんねーのは俺のほうだろ?」
 不意に乱馬が口を開く。
 思いがけないその言葉に、咄嗟に顔を上げた。
「あん時さ。誰よりもあかねが頑張ってるの、俺が一番知ってたんだ」
「……」
「その……俺の自惚れじゃなきゃ、あかねがなんでそんな進路を選んだのかも何となく……わかったっつーか。だから、最初……ホントは、すげー嬉しかったんだ」
「……っ!」
「けどなんかそれと同時に、急に俺が一人、取り残されちまったような気になっちまって」
 乱馬がこんなに自分の気持ちを口にすることなんて滅多にない。
 あたしはただ、じっと静かに耳を傾ける。
「……正直、おもしろくなかった」
 そう言って忌々しそうに眉をゆがませ
「……あかねの帰りが遅いのとかもさ、勉強以外に理由はねえってわかってんのに、それでもなんかムカついてきたっつーか」
 いつものように、照れてどもって感情的になるわけでもなく、ただ過去の自分を客観的に分析するような口調で淡々と続けるその声は、やはり出会った頃よりも少しだけ大人びているように感じた。
「ガキだよなぁ……」
 あーあ、と言うように大きく一度、首を上に伸ばし、また壁の方を向く。
 乱馬の喉仏が骨の形のまま浮き上がる。
 あたしの座る位置からは乱馬の左の頬から耳にかけてしか、その表情を窺い知ることが出来ない。それでも、あたしの心をときめかすには充分過ぎた。
 
「……こうなったら言っちまうけどさ、実は俺、何度かあかねを迎えに駅まで行ってたんだぜ」
「ええっ!?」
「でもおめー、全然気が付かねーし」
「ご、ごめん! でも どこに居たの?」
「んー、まあ、コンビニで立ち読みするフリしたり、街灯の上をずっとついてったり……」
「そんなの わかるわけないじゃない!」
 思わず大きな声を出すあたし。
「いや、だから俺なりに心配してやってたんだってば! その、夜遅いと変なヤツもいるしなっ」
 乱馬の口が尖がっているのがわかる。というか、コンビニで立ち読みはともかくとして、街灯の上をずっとついて来るなんて一番の不審者は間違いなく乱馬だろう。だけどそれを言ってしまうとまた拗れてしまう気がして、あたしは笑いを噛み殺し口を噤む。
「まぁ、さ……そ、そんなわけだ!」
 急に乱馬が「この話はこれで終わり」とでもいうように、早口になった。
 だけどそういうわけにはいかない。

「……そんなわけって、どんなわけ?」
「え?」
「だから、」
「お、おめー、流石に今の話の流れで分かんだろ!?」
 ガシガシと頭を掻きながら、ったく相変わらず鈍感だなと憎まれ口をきく。
 なによ。そっちだって自分勝手なところは相変わらずじゃないの。
「そうよ、鈍感よ! だっ、だから!」
「っ!」
「またあたしが勝手に勘違いをしないように、ちゃ、ちゃんと話をしたいんだもん」
 お願い、と気持ちを込めて伝える。
 気持ちが迷子になるのは、もうまっぴらだった。
 
「……えーと。だから、それ」
「え?」
「そーゆーこと、今ここで言うか!?」
 反則だろう? と乱馬が怒る。
 謝るには遅すぎたってこと?
 ……でも、あたしはこれ以上乱馬とギクシャクするのは、嫌。
 ここで意地を張ることより、その後に一人で考え込む時間のほうが何倍もツライことを知ったあたしは、溢れそうになる涙を必死でこらえながら乱馬の方を真っ直ぐ見る。
 
「乱馬の気持ち……ちゃんと、聞きたい」
「え……っと、」
「……お願い」
 いや、そんな風に構えられるとかえって話しにくいんだけど…と早口でブツブツ言いながら、観念したように乱馬が再び口を開いた。
「だ、だからな? あ、あかねがすげー頑張ってるのを俺は知ってたし。た、たとえそれが俺のためでもそうじゃなくても、そんなのどっちでも構わなくて、」
「……」
「だ、だからっ、その、」
乱馬が大きく息を吸う音が聞こえた。
「……ホ、ホントは! 俺が一番、応援してやりたかったんだよっ!」
「え……、」
「なのに、なんか俺、男がどうとかすげーつまんねえこと言っちまって。あの後、すげえ自己嫌悪に陥った」
「嘘……」
「嘘じゃねーよ。っつーか、こんなことで嘘ついてどうすんだ」
「だって……あんた、いつでも自分に自信満々じゃない」
「っておまえ、俺をただのアホみたいに言うなよ。俺だって色々考えるわぃ!」
 乱馬の言葉がまだ信じられないあたしの顔をちらりと見る、その顔は耳の先まで赤く染まっている。
「だから。もう余計なこと言ってあかねの邪魔したくなかったから、しばらく離れてたほうがいいと思ったんだ」
「……」
「顔見るとまたつまんねーこと言っちまいそうだし。そんなことで、あかねの貴重な時間を削っちゃいけねえって思ってた」
「………………た?」
「え?」
「あたしのこと、怒って嫌いになったんじゃ、なかった……?」
「ば……っ! お、おめー、今までの話聞いてたか? わりーのは全部俺で、謝んなきゃいけなかったのは俺だろ!?」
 ううん、と首を振るあたしに向かい、乱馬がぼそりと呟く。
「その……ごめんな」
 
 ああ、乱馬は。
 こんなに身体が大きくなって
 どんなに時間が経っても
 ずっと変わらずに乱馬なんだ。
 あたしに負けないくらい、鈍感で図々しくてデリカシーがなくて。
 口を開けば意地悪なことばかりしか言わないけれど。
 それでも根底にあるのは、揺るがない想い。
 
 ……ぽとり。
 瞼を閉じたのと同時に、涙が一粒零れる。
 
「……なに、泣いてんだよ」
「……乱馬こそ」
「俺は泣いてねーよ」
「でも泣きそうな顔、してる」
「っ、」
 
 春の夕暮れは早い。
 いつの間にか少しずつ日は傾き、ベランダから差し込んでくる夕日があまりに眩しくて。
 飴色の光が、二人の間に立ちはだかった見えない壁を溶かしていくようだった。
 言葉で傷付け。
 本音で救われる。
 乱馬の顔は逆光ではっきりとは見えなかったけれど、それでも。
 あたしには、乱馬が泣きそうになっているような気がしてならなかった。




 
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