3. 重なる指先 

2016/08/24
お祭りを舞台としたお話 【揺れる金魚】 シリーズです。
高校一年生・高校二年生・未来の三部作になります。
こちらは未來編になります。パラレルが苦手な方はご注意ください。



【 重なる指先 】



「わりい、遅くなって」
「お疲れ様」



こんなやり取りももう何年目になるだろう。
振り向いたその姿は白地に紫陽花の絵柄が描かれた浴衣に身を包んでいる。
なんとか一つに結べる程度に伸びた髪の毛は後ろで結わえられ、一筋の後れ毛がふわりと顔の横で揺れている。
ふと思い立ってあかねを誘ったあの日から、お互い口には出さないものの何となくこの日だけは予定を入れないことが暗黙のルールになっていた。


「あれ?今年は乱馬、浴衣着ないの?」
「ああ。急いでシャワー浴びるくれえしか時間なかったしな」
「せっかく今年もおば様が用意してくれたのに。着替えるの待ってようか?」
「いーんだよ今日は。それに祭りったって、今年も他にあるだろ?」
「まあそうなんだけど……」



あれは確か、高校二年生の時だっただろうか。
初めて男の姿で浴衣を着た時、その恰好を見てあかねが「新鮮だ」と顔を赤らめて言った。
おれは何でもないフリをしたけれど、実はその言葉と表情が妙に嬉しくて。
それ以来、"おふくろが用意するから仕方なく"なんて口では言いながら、浴衣を着たおれに向けられるあかねの視線に小さな喜びを感じていたりした。
でも今日のおれはシンプルな白いシャツに濃いベージュのチノパンという出で立ち。
二十四になったおれは試合の時を除いてチャイナウェアに身を包むことはなくなったけれど、かといってわざわざ襟付きのシャツを着ることもあまりない。
袖口こそいつもの癖でくしゃりと折ってたくし上げているが、裸足にサンダルではなくきちんと靴も履いている。
そんなおれの姿を上から下へ視線を一瞬動かして見ると
「ふふっ。でもこんな恰好でお祭りに行くのも新鮮だね」
とまんざらでもない様子だ。



大人になってもおれ達は相変わらずで。
滅多に人前で手を繋ぐこともなければ、必要以上にくっつくこともない。
カラン、コロンと小気味よく下駄の音を立てるあかねの横で、おれはポケットの中の存在を確かめるように手を突っ込んだまま歩いている。


「ねえ、今日の方達どうだった?」
「ああ、取りあえず来週から入門するらしい。二人のうち一人は空手を齧ってたみてーだからすぐに慣れんじゃねえか」
「そっか、良かったわね。にしても、やっぱり名の知れた大会で優勝すると生徒さんも増えるものね」
「まあなー。先月と今月だけで六人か…まずまずってとこだよな。あんま大人数になり過ぎても手が回んねえし」
「ちょっと前まではお父さん達も暇そうにしてたのに、乱馬がいない時間帯はおじ様も道場に入り浸ってるものね」

そう。
あの親父ですら、最近はパンダになる間もないほど日中は道場での指導に汗を流している。

「やっぱあれじゃね?あかねの閃いた、これからは格闘で身体を引き締めてキレイになるってやつ。ストレス発散も出来て素人でもとっかかり易いって好評らしいぜ」
「おまけにカッコいい乱馬様が稽古を見てくれるかも?っていうオプション付きだものね。良かったわねー、相変わらずモテモテで」
「ばーか。あんな平日昼間の時間帯なんて殆どおれが見ることねえじゃねーか」

きっと本気ではないのだろうが、口先を少しだけ尖らせてあかねがかわいくねーことを言う。そんないつまでも変わらない些細な仕草がおれを喜ばせていることにコイツは気付いているのだろうか?





この三年余り。
変わらないおれ達の関係を置いて、周囲を取り巻く環境は大きく変わった。
あれだけ跡継ぎで騒いでいた道場は、平日の日中と夕方の時間帯を親父達が、試合のない週末や平日夜にやってくる本格的なクラスと 逆にちびっこのクラスをおれが指導することで今のところ落ち着いている。

幸いなことにおれが各大会で優勝した経歴が噂を呼び、今のところ生徒の数も順調に増えている。
真剣に強くなりたいと思う奴を指導することは即ち 己と向き合う新たな発見にも繋がり、それもまた予期せぬ収穫だった。
勿論、それ以外の空いた時間だって無駄に暇を持て余しているわけではない。
自分自身の稽古や各大会に向けてエントリーの準備、それに加えて最近はマネジメントらしきものも本格的に取り組んでいるのだからおれも日々忙しいのだ。

一方、あかねはというと高校を卒業後は短大に進学し、一昨年からは社会人として働き始めている。某スポーツメーカーの一般事務として採用されたはずが、知識の深さと身体能力、加えてその目を惹くルックスからか入社して二年目の春に突如 広報部署に配属され、自ずと帰宅は毎日遅い。
ただ、それに表立って不平不満を言う程 おれ達は子供ではなくなっていた。


時折、おれは偶然を装って夜の駅まで迎えに出向くと 家までの道のりをのんびりと二人で歩く。
最初こそ驚いていたあかねも、同じことがこう何度も続くと偶然ではないことに気付いたようで。
それでもおれには何も言わない。
ただ嬉しそうにふわりと笑い、いつもより少しだけ身体をくっつけて歩く。
なんてことない、ただ二人だけの帰り道。
勿論 家に帰って顔を会わそうと思えばいくらでも方法はあるのだが、そんな穏やかな時間がおれ達にとっては大切だった。

そして重要なことがもう一つ。

高校を卒業した後すぐに単身中国へ渡ったおれは、水に濡れてももう女になることはない。
呪泉郷の泉の状態を待つついでに武者修行で自分を極限まで痛めつけ、身体の成長と反比例するように全身ボロボロの傷だらけになったおれの帰りを何も言わず待っていてくれたのは他ならぬあかねだった。
その間にかすみさんは東風先生と結婚して家を出、あのなびきも九能とタッグを組んで在学中から商売に勤しんでいる。
みんな地に足を付けて、自身の新たな人生の一歩を踏み出していた。





おれはもう一度隣にいるあかねの姿に目をやる。

「今年は自分で着たのか、それ」
「うん、そう。もうかすみお姉ちゃんもいないしね。去年はおば様に手伝ってもらっちゃったけど今年は何とか一人で着られるようになったわよ」

そう言って「どう?」と言わんばかりに両手を広げて一回転する。

「うん。すげーじゃん」
「でしょ?」
「こんな不器用な女に教え込むなんて、おふくろも中々やるなぁ」
「言うと思った!」

いくつになっても素直じゃないおれに、いくつになっても少女のように拗ねるあかね。
すっかり日が暮れて二人の影も地面に溶けて分からなくなってしまった頃、互いの肘を軽く小突き合いながらおれ達は祭りの会場へと到着した。









オレンジ色の提灯が並ぶ賑やかな石畳みの通りをぶらぶら歩く。
特に何を買うわけでもなく、特に何を見るでもなく。
ただ、あかねと二人でのんびりとこの雰囲気を楽しむだけだ。
途中、お決まりのようにたこ焼きを買って分け合いながらつつく。

「あー。やっぱこういうジャンクフードってたまに食うと旨いんだよな」
「良かったわね。ちょうど大会の後で」
「まあ、言う程おれは厳しく制限してないけどな」


ここ三年半、本格的に格闘で名が知れ、世界的な大会にエントリーするようになってからは試合の前に食事制限を課してたおれ。といっても別にウェイトを絞るのが目的ではないから、筋力や疲労回復、それから動きの軽さのために炭水化物や糖分、油分を控えて鶏肉や豚肉を積極的に摂取する。ただそれだけのことだが、いざそれが何日も続くと流石に普通の食事が恋しくなるわけで。
あかねの前で大っぴらに言うことはないが、試合の後のこうした何気ない日常がおれの贅沢になっていること一つ取っても いつまでも高校生のままではないことを痛感する。



でも本当に一番変わったのは……。
おれは右肩の下の艶やかな黒髪に視線を落とす。

「あかね、髪の毛伸びたな」
「うん。ようやく一つに結べるようになったの。やっぱり夏は髪を上げると涼しいわね」
「まあな」

浴衣の襟下にうなじから背にかけて三角形に見える白い肌。
そこに控えめな水色のリボンが揺れる。
ふとリボンの先を指ではねると不思議そうな顔であかねが見上げてきた。

「なあに?」
「いや、別に」

初めて二人で祭りに来た時は、こうしてあかねの髪の毛やリボンに触れることは叶わなかったっけ。
思えばあの時からすでにおれの心はあかねに囚われてたんだな。
そんなことを思い出し、柄にもなくセンチメンタルな自分に呆れて笑ってしまう。

「…変、かな?」

あかねが俺の顔を見ず独り言のように呟く。

「なにが」
「髪型。ずっと短いままできたから」

あかねの目線は屋台の方に向けられたまま。
ガラクタみたいな玩具ばかりが並ぶクジ屋の景品を見つめている。

「あたしがこんな女の子っぽい髪型ってやっぱり似合わないかなって」

そう言ってへへっと笑う仕草は高校時代のあかねと何ら変わらない。が、その表情一つ一つはハッとするほど大人びて……そして、きれいになった。
高校時代のあかねがほころびかけた蕾だったとしたら、今のあかねはまさに大輪の花を咲かせたようで。
それは決して華美で派手なものではなく、どこまでも清らかな白い花の存在のようだ。

照れくさそうに玩具の一つに伸ばした細い指先をぎゅっと握る。

「別に変じゃねーよ。ってゆうか」
「…ってゆうか?」






"フツーに可愛すぎて困る"




パッと頭に浮かんでしまった台詞。
でもそれを素直に言えないのがおれだ。


「…まぁ、ちっとは女っぽく見えていーんじゃねえの?」
「あのねぇ。言っときますけどあたしはあんたと違って正真正銘、生まれた時からずっと女なんですからね!?」
「あんたと違ってってなんだよ。おれだって正真正銘男だぞ?」
「あんたはほら、いっとき女の子としての人生を謳歌してたじゃない」
「別に謳歌しとらんわっ」
「それはどうかしら」

ふーんだと口を尖らすあかねの頭をぽんぽんと軽く叩く。

「ちょっと。髪の毛崩れちゃう」
「大丈夫だって。もう崩れてるから気にすんな」
「うそっ!」
「うそ」
「あんたねー」


おれのこの動作が"機嫌直して"というサインだということはあかねも分かっていて。
仕方ないなぁというように掴んだ指先を一度緩めると、そっと握り直して指を絡めてくる。


「暑いわね。ビールでも飲む?」
「いや、今日はやめとく」
「そっか。まだお酒は制限中なの?」
「まぁそんなとこ」

ここ数週間、食事制限に加えて酒も一切口にしていなかったおれ。
だけど今日、飲まないのはそんな理由からではない。
元々そんなに好きな方でもないが、かといって全く飲まないわけでもなくて。
普段は殆ど口にせず、外に行った時に時折付き合いで飲む程度だ。
それでもたまに家の居間で飲むのは、あまり酒に強くないあかねがジュースみたいなカクテルを飲んで真っ赤になるのが見ていて楽しいから。
もちろん、外でそんな状態になったらと思うと気が気ではないのだが、おれの心配など当の本人は全く分かっていない。
今日みたいにあかねはラムネでも飲んどきゃいいんだよ…なんてついつい、過保護な親父みてえなことを思ってしまう自分に苦笑する。



「ねえ、今年も金魚すくいする?」
「あ―…今年はいいんじゃねえの。庭の池も賑やかになっちまってるしな」
「確かにそうね」
「屋台の金魚のくせに丈夫だよな、あいつら」
「環境が変わっても図太く生きていけるところが乱馬みたいよね」
「図太くってなんだよ。たくましくって言え」
「うん。図太い」
「おいっ」

どうせ金魚すくいをしたところで今年もいつも通りの結果に終わるだろう。
それに、今日は持ち帰るにしてもかなり時間が掛かりそうだ。
だったら…とちょうど目の前にある射的の店を指差して挑発する。

「んじゃー、今年は射的で勝負してみるか?」
「勝負ってなによ」
「あかねが一発でも的を倒せたらかき氷奢ってやる。その代わり、倒せなかったらおめーの奢りな」
「またそうやってばかにして。あたしだって金魚すくいに比べれば射的くらい余裕よ」
「お、言ったな?じゃあ…いざ、勝負っ!」








「……おかしいなぁ。あのお店、イカサマしてるんじゃないかしら」
「ばーか。おめーは大きな的を狙い過ぎてんだよ」

そう。
あかねの弾は的に当たることは当たった。だが、屋台からすればそう易々と商品を渡すわけにもいかないのだろう。おそらく見た目以上に重さのある熊のぬいぐるみはぐらぐら揺れるものの結局最後まで倒れることはなかった。
そんなあかねの左手にはきらりと光る玩具の指輪…。

「まぁいーじゃねえか。そうやって指輪ももらえたし」
「そうね」

そう言ってうっすらと頬をピンクに染め、嬉しそうに左手薬指の指輪をそっと撫でる。
それは先程、おれが射的で獲った景品の指輪。
いかにもガラクタですという様な軽い輪っかにピンクのプラスチックの石がごろりと付いている。
こんなちゃっちいのもらってもな…そう思ってポケットにしまおうとするとあかねのキラキラした視線に気付き、思わずあかねの左手薬指にはめてしまった指輪だ。
あかねの指に対して大き過ぎるぶかぶかの輪っかをグイッと指に沿わせて曲げる。
リングにすらなっていない、ただの玩具。
そんな今時 中学生でも喜ばないようなガラクタをあかねが愛おしそうに見つめる。

「…へへ」

ちらりとこちらを見上げ、はにかむ様にほほ笑む。

苦しい。

なぜだか分からないけど、可愛い、とか好きだ、とかそんなのを飛び越えて、痛いくらいの愛おしさが全身を駆け巡っていくようだった。

こうして手を繋ぐとか。
キスをしたりだとか。

なんだったらその先だって、もう数えきれないくらいあかねのことを知り尽くしていると思っていたのに、おれの左胸はドクドクと鼓動を速めている。
そんな気持ちを悟られないよう、人混みの波からあかねを逸らすように手を引いて聞いてみた。

「んで?かき氷、おめーはイチゴでいいのか?」
「え?乱馬が奢ってくれるの?」
「射的にまで見放された可哀想なあかねだからなー」

結局、なんだかんだであかねには甘いおれで。
照れ隠しにししっと笑いながらあかねの顔を覗き込むと 下駄の先でぎゅっと足を踏んでくる。

「ガキッ!」
「どっちがだよ。ほれ、いーからさっさと決めろ」
「うーん……やっぱイチゴ、にする」
「つくづく冒険しねえやつだな」
「冒険しないんじゃないもん。それを言うなら一途って言ってよね」

こんなやり取りすらもいちいち楽しいんだから、もはや重症。
やはり祭りの雰囲気は気持ちまでも高揚させるようだ。
まるでそうするのが約束のように 片手にかき氷、片手にあかねの手を取ると そのまま神社の裏の石の階段を昇っていく。



カラン コロン

下駄の音が響いて小気味良い。



カラン コロン
カラン コロン

でもおれは。
乾いた音に紛れて、自分の鼓動の音がドクドクと早鐘を打っているのも感じていた。











「ねえ、なんで乱馬はかき氷買わなかったの?」

おれの口にイチゴ味のかき氷をスプーンで運びながらあかねが聞いてくる。

「別に。こうやってあかねの半分もらえば充分だし」
「そうだけど…他の物もあんまり食べてないし。珍しいわね」
「そうかぁ?」
「もしかして、何かあった?」

不意にあかねの大きな瞳がおれの顔を覗き込んできた。
ドクンと心臓が跳ねるのを誤魔化す。

「別になんもねーよ。ただ、最近まで食事制限してたからちっと慣らしてるだけ」
「ならいいんだけど」

まだ何か言いたげなあかねの話題を逸らす。

「それよりあかねは仕事、相変わらず大変そうだな」
「んー、そうね。あたしもまさかこんな忙しくなるとは思わなかったわ」

そう言いつつもその表情は晴れやかだ。

「けどさ。なんだかんだいってあかねに向いてんだろうな、今の仕事」
「……」
「なんだよ?」

おれの顔をじっと見つめるあかねに聞き返す。

「ううん。ただちょっとびっくりしただけ」
「なにが」
「乱馬がそんなこと言うなんて…」
「…」
「でも、嬉しい。そんな風に言ってくれるの」
「ああ」
「ありがとね、乱馬」
「…おう」


本当は。
最初の頃は余りにも二人の時間が取れなくて苛立つこともあった。
おれの知らない環境で、おれの知らない男達と接点を持つ生活。例えそれが仕事だと分かってても、情けない愚痴の一つでも言っちまいそうになることが無いと言えば嘘になる。
だからといってあかねを信じていないわけじゃなくて。
認めてやりたい、でもおれの事も考えていて欲しい。
どうやら、いつまで経っても変わらないのはあかねだけじゃなくて、おれの独占欲も同じらしい。



「そういう乱馬は?」
「おれ?」
「そう。最近、立て続けに大会に出場してたでしょ?無茶してるんじゃないの?」
「まぁ別に。おれは自分で出たいって思って参加してるだけだしな」

勿論、試合に出るということは必ずしも無傷ではいられない。
子供の喧嘩じゃあるまいし、賞金や生活そのものを賭けた試合は時に血を吐くような思いをすることだってある。
それを全部、余計な口出しせず見守り応援してくれているのはあかねだった。

「こうして道場使わせてもらって、好き勝手許してくれてるおじさんには感謝しねーとな」
「ううん。乱馬が活躍することでうちの道場も有名になったし、お父さんの方こそ感謝してるわよ」
「だといいけど」
「うちの会社でもね、乱馬の事を知ってる人が盛り上がって話してるのを見かけたりするもの」
「へえ」

主要な大会で優勝をしてからというもの、それを取り扱う様々なメディアの中であかねの勤める会社からの取材や企画にも何度か参加する機会があったから おそらくはその繋がりだろう。
格闘の世界においては群を抜いて若いこととアジア人であること、更に高校以前…いわゆる自分が半分女に変身しちまう過去を完全に秘密にしていることから一部でミステリアス扱いされ、物珍しがられている部分も少なからずあるに違いない。
俺にしてみたらそんな格好いいもんじゃなくて、ただ単に信じ難いことの説明が面倒くせえだけなんだけどな。




「これからもっと乱馬は有名になるんだろうね」

半分溶けてしまったかき氷をスプーンですくいながら口に運ぶ。

「まだこっからどうしていくか、手探りだけどな」
「すごいね」

感嘆するように呟くと。

「なんだかちょっと、遠い人になっちゃったみたい……」

最後は小さな声で、残りの氷をかき集めて飲み込んだ。



「あのな。別に遠い人になんかなんねえよ。っつーか、この先も大会に参加するかは未定だし」
「そうなの?」
「ああ」

あかねがちょっと意外そうな顔をする。

「でも最近、取り憑かれたように試合に参加してたじゃない」
「あー。まあな」
「それでもこの先は未定なの?」
「別に全部が未定じゃねえよ。例えば ―」
「例えば?」
「例えばいつか おれが道場主になることだけは決定してるだろうが」
「それって……」


それって、おれの意思?それとも義務感として?
まるでそう問いかけてくるような瞳。


こく…とあかねの喉が鳴った後、不意に沈黙が訪れる。
かき氷の空いたカップを石畳の横に置いて あかねの両手は自身の膝を抱えるように前で組まれ、おれは腰の後ろに手をついてぼんやりと頭上を眺める。
提灯の明かりでいつもより少しだけ明るい空には ぽつぽつと星が光っているのが見えた。



あかねは何も喋らない。
おれも何も話さない。
階段下の祭りの雑踏もここまではやって来ない。
時間の感覚さえぼやけていくような静けさの中、一定間隔で散らばって座るカップルの控えめな笑い声が時折聞こえてくるだけだ。





― と、不意にあかねが両手をパンッと合わせて叩いた。

「蚊か?」
「うん、そうみたい」
「どっか刺された?」
「ううん、浴衣着てるから平気だけど…なんかプーンってあの嫌な羽音が聞こえた気がして」
「おめー、今年はあの虫よけリング付けてねえのかよ?」
「一応付けてるんだけどなぁ」

そう言って「ほら」と浴衣の袖をまくってみせる。
そこには毎年律儀におれの分まで用意してくれている虫よけのバンドが装着されていた。

「おかしいな。もう効き目が切れちゃったのかしら」

ブツブツ呟いたあかねが今度は「あっ!」と大きな声を上げる。

「な、なんだよ、でけー声出して」
「指輪!指輪の石が取れちゃった!」
「指輪ぁ?」

おれの顔の前に差し出された左手を見ると……なるほど、先程の指輪のプラスチックでできた飾りがポロリと取れてしまっている。
ついさっきまではちゃんと付いていたようだから、おそらく今の衝撃で外れてしまったのだろう。



「流石に祭りのガラクタだな。いーから捨てちまえよ、それ」
「やだっ!せっかく乱馬がくれたのに」
「あのなー。そんなの射的の景品だろ?気ぃ遣わなくていいって」
「嫌なのっ!」

ムキになって暗い地面に指を這わせて飾りの石を探る……と、すぐ足元に落ちていたのかそれをひょいと摘んでおれに見せた。

「直せるかな、これ」
「どれ……」



こんなガラクタ、おれはどうでもいいと思ってた。
でもあかねの表情が余りにも必死で。ピンクの飾りを受け取ると思わず噴き出してしまう。



「あのよー。そんな喜んでくれるのは光栄なんだけど、そこまでムキになられると まるでおれが今まで何もあげてねえみたいじゃねーか」
「別にそんなことは言ってないけど…でもなんか嬉しかったんだもん」

少し困ったように眉を下げると拗ねたような口調で呟く。



「ちょっと暗くてわかんねーな……あかね、一回指からそれ外してみろ」
「わかった」

素直に薬指からリングを外して渡すのを、おれはさり気なくポケットにしまい込む。

「どうかな?」
「んー、灯りの下で見れば直るんじゃねえか?」

そう言っておれはあかねに背を向けるように体を街灯の方にひねると、もう片方のポケットの中に手を突っ込んだ。
そのおれの背中に話し掛けるようにあかねが話し続ける。

「小さい頃ね、お父さんと一緒に縁日に行った時もこうやってキラキラのネックレスとか指輪とか買ってもらったのがすごく嬉しかったんだぁ」
「そっか」
「あの時は『一生の宝物にしよう』って思ってたはずなのにね。あれって一体どこにいっちゃったのかな」

何もはめていない左手を見ながら、懐かしそうに笑うあかね……。





……。


おれはもう一度手の中のものを確かめると口を開く。

「…よし、直った」
「ほんと?」
「いーから手ぇ出せ。左手な」
「うん」

ひらりと差し出された手の薬指を確かめると。
そのままその手をぐっと引き寄せ、あかねの目を閉じさせるように黙って唇を重ねる。



「…っ」


ゆっくりと。
ただくっつけただけの唇が再び離れるのを待ってあかねがそっと目を開いた。




「…びっくりした。突然どうしたの?」
「……驚くとこはそこじゃねーよ」
「え?」

言葉の代わりにあかねの手を取って顔の前に持ち上げる。







「……これって…………」
「…んだよ。石が小さくなって嫌だとか言うなよな」
「…っ!」


ぶんぶんと首を横に振ってあかねが自分の左手を右手でぎゅっと握りしめる。
その薬指にはプラチナのリングと、月の光に反射して輝く透明の小さな石……。





「いつもあかねが用意してくれるだろ?虫よけリングってやつ」





ポロリと音が聞こえそうなくらいの大粒の涙を親指の腹で掬う。





「あれよりかは効果があるはずだから……まぁ、はめとけ」





その言葉を言い終わるか終わらないうちに、おれの胸にどんっと衝撃が走った。
そこには両手をいっぱいに広げてしがみつくように飛び込んできたあかねが 背中を震わせ泣いている。
シャツを通して、じわりと伝わってくるのはあかねの体温を含んだ涙の感触。
そのまま浴衣の背を撫で、あかねが落ち着くまでただゆっくりと待つ。
不思議と、おれの心臓の鼓動は穏やかだった。





「あのさ、ごちゃごちゃ言うのは性に合わねえから…これだけ言っとく」

「…」

「おれと…結婚してくれるか?」








「…あかね。返事は?」

「…っ!」


こくこくと。
何度も胸の中で頷く小さな体をぎゅっと抱きしめる。
頭のてっぺんにキスするように頬を摺り寄せると、ふわりと甘いシャンプーの香りがした。

この髪の毛も、
この身体も、
あかねの心も。

今この瞬間だけは、どこもかしこもおれのもの。





おれの胸に押し付けたあかねの顔をそっと離して覗き込む。

「…あーあ。せっかくこんな時なのに涙でぐしゃぐしゃでぃ」
「だっ…のせい、で…っ」
「ったく気が強いのは相変わらずだな、おめーは。……今度はそれ、失くすなよ?」

真っ赤な目に真っ赤な鼻の頭。
はらりとほどけた耳の横の髪の毛が涙を含んでしっとりと濡れている。
両手の指で撫でるように目から頬へ指を滑らせると、気持ちよさそうにあかねが目を閉じた。
湿った瞼も、涙でかさついた頬も、赤く染まった耳朶も、全てがじんわりと熱い……。



「…ど…して…?いつ……?」

あかねの言いたいことが分かってぽんと軽く背中を叩く。

「まぁ…ずっと考えてはいたんだけど」

そう。高校を卒業してからずっと。
でもだからといって、全て親の言い成りになるのはまっびらごめんだった。
中国に渡って男に戻るついでに武者修行で参加した小さな格闘の試合。
そこで思いがけず賞金を手にして以来、ファイトマネーから少しずつ金を溜めていたことは あかねのみならずきっと他の誰も知らなかっただろう。
そして今日、指輪を受け取りに行っていたために時間が押して遅くなってしまったことも――。



おれはもう一度あかねに口付けると、唇が触れるか触れないかのところで囁く。

「道場継ぐのは おれの意思に決まってんだろ」


そう。
いつからか 思い描く未来にははっきりと、道場主になったおれと その隣にはあかねの姿があった。














「あのさ。今晩だけは二人でいたいんだけと……」


「…」







「…………いい?」











胸の中で、また小さくあかねが頷くのが分かった。





ベッドの上で一筋の川のようにほどける群青の帯。
伊達締めと腰紐を取ると 浴衣下の紐も一緒に解いて下に落とす。
そのまま胸元に手を滑り込ますと、解放されたようにふるりと重量感のある二つのふくらみが表れた。
その白い乳房を両手で優しく包んで柔らかな頂きを引っ掻くように弾く度、そこはみるみる硬さを増して薄く開いた唇から甘い喘ぎを漏らす。

「…んっ……っ……あっ」

すぐにでも味わいたくて、それでも尚ゆっくりと時間を掛けてあかねの恥じらいを一皮ずつ剥がすように肌に触れる。

水色
淡紅
薄紫

紫陽花の絵柄の上で翻弄されるあかねの身体はほんのりとピンクに染まり、その首筋から舌をなぞらせるように胸元にきゅうっと吸い付けば赤紫色の跡が付く。
それはまるで、小さな金魚。
一つ
二つ…
身体に赤いおれの印を浮かび上がらせ身を捩るそのさまは、白いシーツの中を泳ぐさながら人魚のようだ。





「あかね」


しゅるりと。
髪の毛を束ねるリボンの端を引っ張れば、水色のリボンが滑らかな一本の形にその姿を変える。




「あかね…今日だけは我慢しないで声を聞かせて」

「…っ」

「全部、あかねを感じたい…」

「…あっ……」



揺れる身体。
重なる体温。
絡まる熱情。




囚われたのはあかねの方か、それともおれの方か。
濡れた唇がこの世で一番愛しい言葉を囁く。



「乱馬……大好き……」





くしゃりと寄せるシーツの波が描く濃淡の影。
照明を落とした薄暗い部屋の中で おれはあかねに溺れていく。
そんなおれの背中に回されたあかねの指には、水の雫の代わりに指輪がきらりと光っていた。





< END >


♪ 揺れる体温 / ACO






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comment (8) @ Omnibus 揺れる金魚-夏

   
HAPPY BIRTHDAY  | 2. きみに触れたくて 

comment

幸せです : クリ @-
三部作、最終話、こんなに早く読めると思ってませんでしたー!
乱馬カッコよすぎて、あかねちゃんは可愛すぎて、ため息出ました♡
最後のお話がプロポーズなんて、ステキです!
お祭りテーマの三部作、ほんとにとても面白かったです!今度は子供と一緒のお祭り番外編も読みたい…と思いました〜。でもリクエストは申し訳ないのでたわごとと思ってください!
また読み返します(^^)
2016/08/24 Wed 23:37:47 URL
管理人のみ閲覧できます : @
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2016/08/24 Wed 23:42:25
Re: 幸せです : koh @-
> クリさん

気持ち的にざわざわしていた時にも関わらず、この三話はパッとひらめいてあっという間に書き上がったんです♪
初プロポーズ話だったので公開するのはドキドキしたのですが、ため息…なんて言っていただけてすごーく嬉しいです(´艸`*)♡
このシリーズはタイトルにもある通り、お祭りと金魚をイメージして妄想を広げたのですが、こんな甘い「どこぞの乱あや!?」でよろしければまた是非おつきあいください☆

お子様家族編、いいですね~(*´ω`*)。
書けるかどうかの力量は置いといて、リクエストってすごくすごーく嬉しいんですよ!
意欲がムクムク湧いてきます✨(だから早く夏休み終わってくれ~ッ!)
2016/08/25 Thu 01:09:37 URL
Re: タイトルなし : koh @-
> 2016/08/24 Wed 23:42:25 コメント主様

pixivから引き続きありがとうございます♡
本当は第一話で切なく終わる予定だったこちらの『揺れる金魚』シリーズ。
大好きと言っていただけてすごく嬉しいです(*‘ω‘ *)。
またゆっくり更新していきますので 今後ともよろしくお願いします。

2016/08/25 Thu 01:13:08 URL
最高です! : みにとど @-
三部作完結編がプロポーズとは(≧∇≦)しっとりしてて、でもやっぱり乱あの会話で、最高でしたー‼︎萌え死にしそうです。あかねちゃんの職場での反応とかも気になります(笑)絶対職場でもモテモテのはずのあかねちゃん、ショックを受ける男性は多いでしょうね。もちろん、人気者の乱馬も(笑)妄想膨らむ完結編、ありがとうございました‼︎
2016/08/25 Thu 10:46:08 URL
管理人のみ閲覧できます : @
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2016/08/25 Thu 19:07:12
Re: 最高です! : koh @-
> みにとどさん

ありがとうございます。
みにとどさんのコメントにこちらが萌え死にそうです♡

あかねちゃんの職場…なるほど、そのシチュがあったかφ(..)メモメモ。
こういったコメントから妄想のヒントをいただくことが多いのですごく嬉しいです。
ありがとうございました♡
2016/08/26 Fri 06:11:59 URL
Re: 幸せ! : koh @-
> 2016/08/25 Thu 19:07:12 コメント主様

温かいコメントありがとうございます♡
私自身、こちらは水の中にふわふわ浮くようなイメージで三部を繋げていた(つもり)なので、余韻だなんて言っていただけてすごく嬉しいです(´艸`*)。

また創作に関しては完全なる私の趣味&ストレス発散なので全然感心されることじゃないんですよ💦。
強いて言えば、このためだけによく早起きしてるな、と我ながら思います。
あれ?それともただの年寄…いや、みなまで言うまい。

ゆるりとした投稿頻度になりますが、今後ともよろしくお願いします♡

2016/08/26 Fri 06:17:02 URL

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