揺れる金魚 番外編 ~あかねの同僚~ 

2016/08/28
調子に乗って帰って来た【揺れる金魚】番外編です。
3. 重なる指先】の続きになりますので、そちらから先にお読みください。

こちらはコメント欄でいただいた あかねちゃんの同僚視点になっています。
(みにとどさん、ネタをありがとうございました♡)




月曜日の朝は憂鬱だ。

これは何も社会人だけに限ったことではないだろう。
そういう僕もほんの半年ほど前までは、毎週日曜日夕方にテレビから流れる定番のアニメソングを聴いては溜め息をついていた口だ。
だけど今は違う。
最高に込み合う通勤ラッシュの時間を避ける時間帯の電車から滑り降りると、会社までの道のりも軽い足取りで まばらな人の間をぬっていく。
そして扉の前でさっと身なりを整え、一つ呼吸を吐くとまるでそれがさも自然なように声を掛けるんだ。


「天道さん、おはよう」
「あ、おはようございます」



パッと花が咲いたような笑顔でこちらを振り返ったのは、同じ広報部所属の天道あかねさん。以前、僕より四つ年下だと聞いたから…まだ二十四歳だ。
彼女は一応一流スポーツメーカーと言われるこの会社に 当初は事務職担当として採用されたらしい。が、女の子とは思えないスポーツ全般への知識に(あ、こんなことを言ったら女性軽視だと思われちゃうかな。決してそうではないんだけど…)彼女自身の突き抜けた身体能力。
何より、その中身とのギャップを感じる見た目の愛らしさを買われて急遽 広報担当に配属されたと聞いた。
この春、営業からこの広報に移動となったばかりの僕は 当初は業務について行くのが精一杯で。それでも元々の趣味でもあるスポーツ観戦と広い守備範囲が功を奏し、今ではそれなりに仕事も任されるようになるまでに馴染んできたのだから おそらく水が合ったのだろう。



僕が最初に彼女を見た時の第一印象、それはご多分に漏れず"可愛い女の子だな"だった。
それ以上でも、それ以下でもない。
強いて言うなら"こんな可愛いんだから今までさぞチヤホヤされてきたんだろうなあ。それがこの厳しい広報の世界でどれだけ精神的に持つのだろう。ま、少なくとも容姿も仕事の能力も十人並みの僕には関係のないことなんだろうけど"。
そんな斜に構えた捉え方を心のどこかでしていたところも否めなかった。
だが、そんな思い込みはあっという間に裏切られることとなる。


彼女は毎日朝一番に出社する。
別に自宅から会社が特別近いわけではない。
ただ、雨の日も風の日も、どんな時でも誰より先にがらんとしたオフィスの机に向かっているのだ。
"へぇ…可愛いだけじゃなくて真面目な子なんだな"
僕も朝は早い方だし、他のみんなはもっとゆっくり出社してくるから 彼女がこんなに早く来ているなんておそらく僕以外には誰も知らないだろう。
そして、しばらく経って僕はもう一つの事実に気付く。
朝、広報部署の室内に入ると空気が澄んでいるのだ。
僕は最初、冗談ではなく彼女は空気清浄機でも背負ってきてるんじゃないかと思う程だった。が、勿論そんなわけはない。
日中は閉めきったままのオフィスは どんなに二十四時間換気をしても、その淀んだ空気が完全に入れ替わることは難しい。
そこで彼女は毎朝 可動域の限られた窓をギリギリまで開放させ、自分のデスクと共有部分の卓上をさっと一拭き掃除をする。
たった五、六分のことなのだろうが、それだけでこの室内の空気はがらりと清らかなものに変わっている。

僕がそのことに気付いて一週間程経った頃だろうか。
二人きりのオフィスで僕は思い切って切り出してみた。

「天道さんは毎朝早いよね。感心するよ」
「やだ、佐藤さんだって毎朝早いじゃないですか。それに感心だなんて…全然そんな褒められたものじゃないんですよ」

へへっと笑うその表情は二十四歳とは思えないあどけなさが残って見えた。

「あたし、人よりすごく不器用なんです」
「へえ、全然そうは見えないけど」
「いえいえ、本当に。だから皆さんの足を引っ張らないように少しでも出来ることはやっておかないと心配で」


意外だった。
言い方は悪いが、生まれ持った彼女の容姿なら周りに助けや媚びを売ればいくらでも免除される方法だってあっただろう。
でも彼女はそれを良しとはしていない。
ましてや、自分のことを不器用だと言い切る。
当時、仕事にやや行き詰まりを感じていた僕は 気付いたらもっと彼女の話を聞きたくなっていた。



「不器用ってどんな風に?」
「一言では言えないんですけど…学生時代もそれで散々バカにされてきたんですよ」
「それって女の子に…じゃないよね?」
「あ…っ」

軽く誘導してみると まんまと顔を赤らめながら

「ま、まあ、クラスメート全般っていうか、はい」

としどろもどろに誤魔化す様子から、おそらく好きな男の子にからかわれていたのは間違いない。
分かってないなぁ。きっとその男の子のことは君の事が好きだったんだよ。
そう言いたくなるけれど、なぜだかそれを言うのをためらわれて笑っていると不意に彼女、天道さんがいいことを思いついたという風に手を叩いた。

「そうだ、せっかくだから美味しいコーヒーでも飲みません?会社で淹れたての一杯を飲むってちょっとした贅沢ですよ」
「あ、いいね それ」
「ですよね!じゃあ あたし、自分と佐藤さんの分淹れてきます。佐藤さん、確かスイスの国旗の柄のマグカップで良かったですよね?」
「よく覚えてるなぁ」
「そりゃー、いつも色々親切に教えていただいてますもん」

そう言ってにこっと笑うと、廊下の突き当りにある給湯室に少し足早に向かっていった。
うちの会社はいわゆる老舗と呼ばれる企業だが、その中身もまた然りで今時珍しくコーヒーもセルフの一回ずつ淹れたてのタイプではない。
コーヒーメーカーで落とした一定の量をサーバーで保温し、個人が家から持ち寄って棚に並べてあるマグカップに好きなだけ注ぐ。使い捨ての紙コップなどとは無縁だ。
一般的なファミレスなどでよくあるコーヒー形式だが、当然保温でゆっくりと煮詰まっていくコーヒーは時間が経てば経つほど 味も香りも飛んで美味しくはなくなる。
だからその淹れたてにありつけるというのは、社内にいる間はちょっとした贅沢なのだ。

彼女が出て行った扉をぼんやり眺めながら、自分のデスクの書類に軽く目を通して午前の打ち合わせに備える。
と、しばらく経って香ばしい香りを漂わせたマグカップを両手に持った彼女が僕のすぐ隣に立っていた。

「はい、佐藤さん」
「あ、ありがとう」
「どういたしまして。佐藤さんはミルクもお砂糖もありでいいんでしたよね?」
「そこまで覚えていてくれるなんて、なんか嬉しいな」
「はい。だって男の人で甘いのがお好きって前 話していたから…」
「本当はもっとこう、ビシッと渋く決めてブラックコーヒーでも飲みたいところなんだけどさ。男なのに甘党ってカッコ悪いだろ?」
「そんなことないですよ」
「え?」

僕はいつもこうだ。
周りに何かを言われる前に、自分で言ってバリアを張る。
それは些細なことから大きなことまで様々だけど。
今も「男のくせに甘党だなんて」とからかわれるのを無意識に恐れて、自分で自分をからかって笑い飛ばす。
特別な自信も能力も持ち合わせていない僕はそうやってみんなに静かに馴染んでやり過ごす。それがいつの間にか、僕の癖になっていた。

「男の人が甘党だっていいじゃないですか」

天道さんがもう一度言う。

「甘いものは疲れた脳にもいいし、甘いものを好きな女性の気持ちも分かってあげられるし、それにあたしの身近にも甘いもの好きな男性っているし…」
「…」
「佐藤さんが甘いものお好きなら これからちょこっと朝のおやつでも持ってこようかな。男の人でお菓子の感想言い合えるなんてなんだか嬉しいし」
「う、うん…」
「なんか ちょっとした朝の秘密みたいですよね」

そう言っていたずらそうに笑う瞳を見た瞬間。



僕は彼女に恋に落ちた ―。







それからは毎日のよう…とはいかないまでも、週に二、三日は天道さんと二人きりで朝の時間を過ごした。
朝の時間を…なんて響きは爽やかな中にもどこかいやらしさを伴うけれども、もちろん二人の間にそんなことはなく。ただ、純粋に喋ったり笑ったり、時には業務内容の確認で先輩らしくアドバイスしたりと有意義な時間だった。

ある日、僕が部屋に入るといつものように彼女が先に自分のデスクに向かっていた。
僕はほんの悪戯心で天道さんの背後にそっと近寄り、気配を隠す。
いつもだったらすぐに僕が入ってくるのに気付く彼女も、今日は何やら作業に集中してまだこちらに気が付いていないようだ。

(何を熱心にしているのかな…)

革靴の底がタイルに響かないようにそっと歩く。
ん?何かの切り抜きをスクラップしているのか…?

「おはよう、天道さん」
「きゃぁっ!」

それはまさに跳びはねるといった表現がぴったりで。
大きな音を立てて椅子とデスクをぶつけると手元の雑誌をパタンと閉じる。

「ごめんな。そこまで脅かすつもりじゃなかったんだけど…」

ちょっと気の毒になって謝ると、「いえ、あたしの方こそ気付かずに失礼しました」と早口になって頭を下げる。
失礼と思いつつ、思わず視線を落とした彼女のデスク上に広がっていたのは……

「これ……早乙女乱馬…くん?」
「あ…っ」
「へー。この前のT大会でも優勝したんだ。確か、その前のS試合でも圧勝してたよね」
「ご存じなんですか?」
「まあ、格闘は僕の専門じゃないけど仕事上それなりに情報はチェックはしてるから。それに彼の場合、突然 彗星の如く現われて衝撃だったしね」
「そうですか」

気のせいだろうか?
少しだけ彼女が嬉しそうな笑みを浮かべた気がした。

「すごいよなあ。この経歴でまだ二十四歳って…あ、もしかして天道さんと同じ歳じゃないの?」
「そう…です、ね。はい」
「この若さで世界大会優勝かぁ。なかなかないよ、こんな無差別流で。やっぱり天道さんも彼のファンなの?」
「ファン…なのかしら。うーん」
「はは。にしてもこの強さでこのルックスかー。浮いた噂のない天道さんにスクラップさせるくらいだから相当やるね、彼も」
「…」
「だけど格闘やってて顔に傷つけないって流石だよな。普通は首から上にもらうもんだけど」
「…それは超がつくナルシストだからよ」
「え?」
「いえ、なんでも」

途中、ぼそりと呟いた彼女の言葉はかっきりと聞き取れなかったが、少なくとも天道さんが格闘に興味があることはわかった。
更にその後、日を重ねるごとに判明したことだけど、どうやら天道さんの実家は道場を経営しているらしい。どうりで納得だ。
と同時に、僕はもっと天道さんに近付きたくて いつの間にか畑違いだと思っていた格闘方面の情報をマメにチェックするようになっていた。
そして調べれば調べる程、彼 ―、早乙女乱馬がいかに非の打ちどころのない選手かということを知ることになる。

(なるほど。これは若い女の子ならずとも夢中になるはずだよな)

申し分のないルックスに優勝以外見当たらないその経歴。
大会に出る前の情報が一切出てこないのは不思議だったが、それもまたミステリアスで気になる所だった。

こんな漫画みたいなやつって本当にこの世の中にいるんだな。
同じ男としてそんなことを思いながら、"ま、でもおかげで天道さんと共通の話題が出来たしな"と僕はのんびり構えていた。






* * *


それはまさに青天の霹靂だった。
いつものように彼女以外 誰もまだ出社していないオフィスの一室に入る。
いつものように挨拶を交わし、自分でやるから大丈夫だよと言っているのに まるで僕が来るのを待っていてくれたかのように彼女が自分と僕の分のコーヒーが入ったマグカップを持ってデスクの上にゴトリと置いてくれる。

「あ、ありが……」

多分、最後まで言えなかった。
おそらく口を閉じることも出来ていなかっただろう。

まさか。
嘘だろう?
それ、玩具じゃないよね?

思わずその手を掴みたくなる左手の薬指には……きらりとダイヤの光る指輪がはめられていた。

(待て待て、落ち着け!今時、ファッションリングを薬指につけることも珍しくないじゃないか)

ファッションリングにしては相当な輝きを持っていることが気になったが、もしかしたら夏のボーナスをはたいて買ったのかもしれないという泣きたくなるほど頼りない推理をして心を落ち着かせる。
これは、果たして触れるべきか触れざるべきか……。
でもな、こんな目立つ輝きに何も言わないというのも それはそれで無神経な奴みたいで憚られる。
大体、僕は君のそんなことも気にならないだなんて思われたら心外だ。
僕はごくりと唾を呑み込むと、さも何でもないように平静を装って話し掛ける。

「そ、それ、新しい指輪?すごい綺麗だね」
「あ…ありがとうございます」

えっと…。
そんなに頬を染めて嬉しそうに返事されると傷付くんですけど…。
僕は精一杯の笑顔を貼り付けるとわざと明るく続けた。

「ごめん。行き過ぎたことを言ってたら申し訳ないんだけど、それって薬指だよね?もしかして、その、エンゲージリング…とか?」

大丈夫か、僕。
ちゃんと笑えてるだろうか。

「…そうみたい、です。なんか恥ずかしいんですけど」

口ではそう言いつつ、右手の指でそっと薬指に触れて微笑む彼女。
その表情は今まで見た中で一番幸せそうに輝いていた。








「はぁ……」


眠ることを知らないオフィス街は、夜になっても競うように煌々と灯りが点いている。
僕は取引先との打ち合わせから会社に戻ってきたものの、どうしても中に入る気が起こらずその建物の前で二の足を踏んでいた。
そっと上を見上げる。
しっかりと数えたわけではないが、広報部のある二十三階付近は当然のように窓が明るく見えた。

(まだ天道さん、中にいるかな…)

僕がこんな所で落ち込んでいても仕方のないことだって分かっているけれど。
そりゃ、あんなに可愛くて優しくて、その上周囲に気を配れる子なんだ。
彼氏の一人や二人……いや、彼女に限ってはやっぱり一人か。とにかく付き合っている人が居たって当然じゃないか。
頭では冷静にわかっている。
わかっているけれど……


昼休みに思わず検索してしまったエンゲージリング。
彼女の指元できらりと光るそれは 今も昔も女性に不動の人気の某メーカーのもので、結婚してからもマリッジリングと重ねてつけることも出来るものらしい。
驚いたのはそのお値段。

(あんなの自分で買えるとしたら、一体どんな金持ちなんだ)

あーあ、悔しいな。
…どうやら、僕は自分が思っている以上に彼女に夢中になっていたらしい。




以前 どこからそういう話になったのかは忘れたが、理想の異性像について彼女と話した時のことをぼんやりと思い出す。

『あたしは、顔とかは別にどうでもいいんです。ただ、目標をしっかり持ってコツコツ努力をしてる人。素直じゃなくても…あたしだけを見てくれる人がいいんです』

確か、そう言っていたっけ。
この空の下のどこかにいる 見ず知らずの彼氏は、一体どんな羨ましい奴なんだ。

(今日だけ……今日だけ落ち込んだら明日からしっかりしよう)



きっと僕が広報部に戻らなくったって、彼女にとっては何の問題もないだろう。
それでもちくりと痛む胸の内を慰めるように、もう一度溜め息をつくと何とか直帰する理由を考える。

(…っと。会社の前まで戻って来ておいて直帰もクソもないよな)

そう思い、慌ててちょっとビルの周囲に植えられている木の下に身を隠した時だった。
不意に見覚えのあるシルエットが佇んでいることに気付く。


(あれは……)


白っぽいシャツに濃色のパンツ、そしてシンプルなローファーを履いたその後ろ姿には、彼のトレードマークでもあるおさげが垂れている。
服の上からでも分かるしなやかに隆起した筋肉はライトアップされた植樹の下からの光を反射し、妙な色気を感じさせた。
――間違いない。早乙女乱馬くんだった。

(こんな所で何をやっているんだろう。あ、もしかしたら また社内で取材でもあったのか?)

それも充分考えられることだった。
だけどもし取材なら、終われば早々に帰ればいいだけの話だ。けれど彼はその場を動こうとせず、ぼんやりとビルの上に視線をやっている。
その横顔は試合の時とは比べ物にならないほど穏やかで、そしてどこまでも整っていた。
時折、腕時計に目をやってはまたビルを見上げる。




「……」


……やれやれ。僕も甘いよなぁ。
今日 失恋したばかりというのに、それでも天道さんの笑顔を見たいと思ってしまうなんて。
移動しようとしない彼の姿をもう一度確認すると、僕は胸ポケットの中から携帯電話を取り出す。
勿論、コール先は天道さんだ。
君の大好きな早乙女君が会社の下にいるよ。
そう教えてあげたらどんなに喜ぶだろう。

つくづく自分のお人好しさに笑えてきながら、登録アドレスを探している時だった。





「あかね!」



急に早乙女君が大きな声で誰かを呼び止めたかと思うと、ポケットに両手を突っ込みながらしゅたっと音が聞こえそうな身の軽さでその人物の傍に近付いた。
飛ぶ。
まさにそんな感じだった。
それだけでも驚いたのに、その相手の顔を見て僕は二度驚くことになる。

「ら、乱馬!?どうしたのよ、こんな所で?」


え。
え。
え―――――!

天道さん。あの、天道さんだよね?
乱馬…って、呼び捨てなの?っていうか、知り合いだったの?
っていうか、これって…これって……。



気が付くと僕は二人の姿を確認するが如くふらふらと後を追っていたらしい。



「天道さん!」


ほぼ無意識のうちに その名前を呼んでいた。
暗闇でもわかる艶やかな髪の毛をさらりとなびかせながら、ふわりとしたスカートの後ろ姿がこちらを振り返る。

「あ、佐藤さん、お疲れ様です!今お戻りですか?」
「う、うん、まぁ。そ、それより、その、隣の彼…」
「あ…」

反射的に一定の距離を取る彼女の横にずいっと彼が近寄ると。
天道さんが何か言う前に その形の良い口を開いた。

「いつもあかねがお世話になっています」
「え、いや、お世話になっているのは僕のほうっていうか…」

おい。僕は何を言ってるんだ。

「あの、早乙女乱馬くん…だよね?」
「はい」

へえ。
こうやって真正面からしっかり見ると、あらためてかっこいい。今風とか、イケてる、とかそんな言い方じゃなくて、なんて言うかこう、男前という表現がぴったりのような。
なんだよ、やっぱり天道さんも男を顔で選ぶのかよ……。
そんな鉛のようにずしんと沈む気持ちを堪えて精一杯作り笑いをする。

「お二人は一体……」

バカ。こんなこと、聞かなくても分かるだろうが。
自分に盛大に突っ込みつつ、この気まずい状況を打破するためにへらりと笑って尋ねてみる。
勿論、この後に続く衝撃波に備えながら。

「あ、あの、あたしと乱馬は……」
「婚約したんです。一昨日」

ほぼ同時に二人の声が重なった。

「こ、婚約……」

なんて言っていいのか分からず僕が呟くようにそのフレーズを繰り返す。
と ―。



「え!?あ、あれって婚約になるの!?」
「はぁ!?あれが婚約じゃなくてなんなんだよ!?」
「だ、だってあれは、プ、プ、プロポーズっていうか…」
「お、おめー、んな恥ずかしいこと人前で言うんじゃねえっ!」
「だってだって、婚約ってもっとこう、家族間の儀式とか色々―」
「あほかっ!んなもん、おれ達の家族に限ってあるわけねえだろーがっ」


…えーっと。
一応、まだ僕はここに居るんですけど。

目の前で繰り広げられる凄まじいまでの言葉の応酬。
いつも可憐な天道さんは、腰に両手を当ててあの格闘家の早乙女君を前に一歩も引く気配はない。
僕が呆然としている間にどんどん話は別の方向に行ったようで。


「っつーか ちょうどあかねも帰る時間だったのかよ。全然知らなかったぜ」
「よく言うわよ!知ってたから人をストーカーみたいに待ち伏せしてたんじゃないの!?」
「ス…っ!だ、誰がストーカだ!!おめーみてえなかわいくねえ女、どうしておれが―」
「かわいくなくって悪かったわねっ!」

切れ味鋭いパンチをなんなくかわす早乙女君に、普段の社内では想像もつかない程強気に詰め寄る天道さん。
蹴り上げられそうになる足の動きを素早く封じ込めると

「ばかっ!おめー、こんなとこでパンツ見えんだろっ!?」

と必死な早乙女君の声が聞こえてくる。





「……ははは」
「さ、佐藤…さん?」
「あっはっはっはっは…………!あー、おかしい!」

僕の笑い声に、はっと我に返った天道さんが恥ずかしそうにスカートの裾を押さえながら僕の方を向く。
先程までの作られたものではなく、僕は腹の底から込み上げてくる衝動を堪えきれなくなると壊れたように笑い出した。



「て、天道さん、ま、まったく会社にいる時と、違うんだもんなー」
「あ…」

腹を抱えて言葉も絶え絶えに笑う僕に、顔を赤らめて天道さんが恥じらう。

「つまり、二人の話を聞いていると一昨日プロポーズされて両家も納得の婚約で、天道さんは嬉しくてたまらないと」
「んなっ!」

僕の分析に対して天道さんが聞いたこともないような声を上げる。
そしてその隣りで大きくうんうん頷く彼…。
もちろん、そんな早乙女君に対してもこれで済むわけはない。

「いやー。会社の男性陣が知ったらみんなショックを受けるだろうな。相手が彼じゃあ、勝ち目がないよ」
「そんな……」
「お相手が早乙女君ってことも中々驚きだけど、今の天道さんの素を見ちゃったらね」
「ッ!」
「悔しいけど、すごくお似合いだと思う」

最後に含まれた僕の本音には全く気付いていないのだろう。
顔を真っ赤にしながら、「あの」とか「ありがとうございます」とか困ったように照れて早口のまま応える。
なんだよ。
美男美女とかそういうのを全て差し置いてみたとしても、きっとこの二人の空気感の中には誰も入れない。

負けも負け、大完敗。
あげる腕も見当たらないほどのお手上げで
ノックアウトの完全KO。

こんな何でも持っていそうな早乙女君をここまで振り回すなんて、天道さん、やっぱりあなたはすごいよ。
そんな彼女の鈍感さに 素直になれない彼がやきもきしているのかと思うと何だか微笑ましさすら感じてくる。
ああ、きっと二人はこうやって周囲に愛される人柄なんだろうな、なんてオッサンくさく思いながら。

笑いと共に ふぅ…と最後の溜め息が零れる。
これ以上、二人の邪魔をするのは無粋だろう。



「…じゃあ天道さん、また明日ね」

くるりと背中を向けて歩き出した時だった。




「あ!佐藤さん、ちょっと待ってください!これ!」

慌てたように僕の後ろを追いかけてポンと叩いたその手の中には ―。




「これって…?」
「これね、新発売のグミなんです。すごく美味しくて久々のヒットなんですけど中々売ってなくて」
「う、うん…」
「お昼を買いに行ったときにたまたま見つけたから買っておいたんです。今日、佐藤さん何だか元気がないから気になってて…」
「…」
「甘いもの食べたら少しは疲れが取れますよ!はい」

そう言って差し出されたのは、ハートの形をしたブドウ味のグミだった。

「これね、最初は酸っぱいんですけどそのうち甘くなって癖になるんです」
「そっか」
「じゃ、佐藤さん、また明日―」
「…天道さん!」


今度は逆に僕が大きな声で彼女を引き留める。



「ありがとう。その……突然だけど握手、してもらってもいいかな」
「握手?乱馬とですか?」
「いや、早乙女君じゃなくて天道さんと」

彼女の天然さにずっこけそうになりながら僕が右手を出すと、不思議そうにしながらも素直に天道さんも自分の右手を差し出してきた。


「― 幸せにね、天道さん」
「はい、ありがとうございます」

はにかんで笑う彼女に気持ちばかりの餞別だ。

「それからさ。早乙女君、ずっと天道さんが仕事終わるのをビルの下で待っててくれたんだよ」
「え…」「げっ!」
「仕事熱心なのもいいけど、たまにはもう少し早く帰って上げたほうがいいよ、天道さん」

笑ってそう言うと、今度こそ二人に背を向けて歩き出す。
その背中では

「い、今のは全部デタラメでっ!た、たまたまこの近くを通りかかってだなぁ!」
「たまたまって、ここ自宅からどんだけ離れてると思ってんのよ?」
「るせえ!偶然ったら偶然なんだよ!そ、それよりもう行くぞ!」
「あ!もう、ちょっと待ってよ!」

賑やかな声がまだ聞こえてくる。
まーったく。あてつけるのもそのくらいにしておいてくれよ。
でも……。


僕は左手に持ったグミに目を落とす。





『あたし、コツコツ努力する人が好きなんです』――。







「…仕方ない。僕も一頑張りするとするか」


誰に言うでもなく声に出して呟くと、封を開け グミを一つ摘まんで口の中に放り込む。








「すっぱ……」



いつか、この想いも淡い記憶として笑って思い出せる日が来るのだろうか。
いや、そうであって欲しい。

自分に気合を入れるように鞄の持ち手をぎゅっと摑み直すと、背を向けていたオフィスのほうにくるりと踵を返す。
次第に甘く広がっていく口の中を感じながら、僕は広報部のある二十三階のエレベーターのボタンをポンと押した。








会社から最寄りの駅の改札口をくぐりながら、あかねが口を開く。

「ね、でも本当に今日はどうしたの?」
「別に。たまたま近くで試合会場の場所と規模をリサーチしてたらこんな時間になったんでぃ」
「…本当?」
「ホント」
「……ま、いいわ。そういうことにしといてあげる」

唇こそつんと尖らせているけど、その目は嬉しそうに笑っていて。
内心ホッとしながら、あかねの左手を指差す。


「これ、ちゃんとつけてんだな」
「うん…おかしくない、かな?」

まるで芸能人の結婚発表のように手の甲を顔の横に並べておれに見せる。

「別におかしくはねーだろ」

おかしいもんなんか贈ったつもりねえし。
っていうか、あかねの細い指にすげえ似合ってるし。
何より、すぐに会社につけて行ってくれたことがすげえ嬉しい…し。



「…会社の連中になんか言われたか?それ」
「え?」
「だから、同じ部署のやつとか」
「ああ、さっきの佐藤さんはすぐに気が付いてくれたみたい。最初びっくりし過ぎて声が出なかったみたいだけど、やっぱり二十四歳で婚約って早いのかしらね」
「……どうだろうな」



……あぶねえ。
やっぱこいつ、全然わかってねえのかよ。
さっきの佐藤…さん、だっけ?あんな態度見てたら一目瞭然だろうが。
おそらくきっと他にも似たような気持ちになった奴は一人や二人じゃないはずだ。
会社帰りに男どもがあかねに詰め寄るのを防ぐためにおれが迎えに来たことなど、あかねは露ほども想像していないらしい。

(おれが何のためにわざわざ婚約したって宣言したと思ってるんだよ)

いつまでも変わらない素直な一面に惚れつつ、この鈍感力には時に溜め息をつきたくなってくる。



「さっきは乱馬がいることに驚いちゃったけど…」
「…」
「こうして二人で電車の乗ってると、なんだか仕事帰りのデートみたいだね」

乗り込んだ電車の車内はそれなりに混み合っている。その中で下から見上げるようにおれを見つめる黒目がちな瞳…。

「おめー、それ計算でやってんの?」
「え?なにが?」
「…なんでもねえ」

そう言ってあかねの右側のドアの壁に手をつき、もう一方の手であかねの左手を取る。




高校一年生の時は『許嫁』、
高校二年生の時は『恋人同士』、
そしてプロポーズをして『婚約者』になった今も。
おれの独占欲を振り回すのはこの存在だけだ。
繋いだ手をそっと持ち上げると、そのままおれの顔の方まで持ち上げて指輪ごとそっと口を付ける。


「ちょっ…!乱馬、ここ電車の中…!」
「ばーか、んなの知ってるよ」
「もう!だ、誰かに見られたら…」
「こんな壁の方向いてて誰も見てねえっつーの。っていうか、顎が痒くて手を持ち上げたらたまたま当たっちまっただけだし」
「…嘘つきっ!」
「どうかなぁ」

ニヤニヤしてわざと顔を近付けると、今度は大袈裟なくらいに仰け反って顔を真っ赤にする。



「あのなー。いくら何でもこんなとこで変な事するわけねえだろーが」
「へ、へへへへ変な事って!」
「あ、それと今日、帰って風呂入ったらあかねの部屋に行くからな、おれ」
「な、な、なんで!?」
「なんでって……こんなとこで言って欲しいのか?」
「ちょっ…!」

まるで酸素を求めるみたいに口をパクパクさせながら首まで赤く染めておれを見つめるその姿は さながら金魚の様で。

「あれ?あかね、なに想像してんだ?顔真っ赤だぞ?」
「あ、あんたがいやらしいことばっか言うからでしょうがっ!」
「え?いやらしいこと?おれはてっきり、あかねが疲れてるだろうからマッサージでもしてやろうと思って言っただけなのに?」
「ッ!」
「そうかそうか、あかねちゃんはいやらしいことを想像しちゃったのか」
「ち、違…っ!」
「いいって、いいって、遠慮すんな。おれも大切な婚約者のリクエストを無視するほど意地悪じゃねえからさ」
「それを意地悪って言うのよっ!」

今度こそ、悔しそうにあかねが唸っておれの足を踏みつけてくる。
それでもくつくつ笑いが止まらないおれは あかねの手を離すことはない。








(さーてと。後はこっからどんだけ甘い空気に持っていくかだよなぁ)



たった二日前に散々あかねを堪能したばかりだというのに。
家に着くまでタイムリミットはあと三十五分。
この難航で甘美なミッションを遂行するべく車内の窓から流れる景色を見つめたその窓には、すげえ楽しそうなおれの顔が映っていた。




< END >





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comment (8) @ Omnibus 揺れる金魚-夏

   
スマホ&PCからの文字サイズについて  | kohです 

comment

うわーーーー‼︎ : みにとど @-
なんてことでしょう!なんてことでしょうか‼︎感動し過ぎてお話読みながら手が震えました…>_<…あんな、ぽっと浮かんだ一言をこんな素晴らしいお話に立ち上げてくださるなんて✨✨✨んもー、理想通りの同僚さんでした(笑)でもさすがkohさん、あかねちゃんの天然と乱馬のヤキモチも入っているのに爽やかなお話‼︎書いてくださり本当にありがとうございました>_<
2016/08/28 Sun 20:29:45 URL
Re: うわーーーー‼︎ : koh @-
> みにとどさん

この度は貴重なネタ提供、ありがとうございます。
たった一言でもコメントや拍手にこうした感想があると、
すごくすごーく跳び上がる程嬉しいんです♪
pixivと違って評価やブクマがない分、どんなお話にどんな反応をいただけるのか
分かりにくいからかもしれませんね。
(ですが、くれぐれも無理のない範囲でお願いします!)

子供達の夏休み最終日、課題の総チェックをする予定が
気が付いたらちょっと息抜きに書き上げていました(*´▽`*)。
うーん、やっぱりヒントをいただいてパッとイメージが浮かんだものは比較的サクサク書ける♪

久々にオフィス街での仕事を懐かしく思い出しながら、楽しく創作できました。
ありがとうございました♡
また何かネタや希望シチュなどありましたら是非教えてくださいね☆
2016/08/29 Mon 01:22:07 URL
ええ人や… : yoko @-
佐藤さん、ピュアピュアのええ人や(#^.^#)
早くいい人見つかってほしいと心から願うばかりです(笑)
2016/08/30 Tue 21:39:55 URL
Re: ええ人や… : koh @-
> yokoさん

ありがとうございます。
何の変哲もないフツーの同僚を書きたくて(*´▽`*)。
なんかあかねちゃんは 知らず知らずのうちに周りの男性を惹き付けているだろうなあという
アツい妄想で書き上げました♡
何気に社会人乱あ、書くの楽しい…(ゴクリ)。
2016/08/31 Wed 01:49:30 URL
koh様 : 憂すけ @-
・・・社会人乱あ、何だかすっっっごく良いですね!私、大好きです!そして、第三者目線ちゅーのもまた!好きですー♡kohさーん!何時か、手が空いて気が向いたら、「社会人乱あ妄想」お願いしたいっス!(*^^*)清々しい社会人あかねちゃんと格闘家乱馬・・・美味しすぎるー!(*´Д`)済みません。興奮しちまいました。でも本当に素敵な良いお話でした!萌え萌えしながらニヤニヤと拝読させて頂きました!(そう、変態です)
2016/09/21 Wed 12:28:52 URL
Re: koh様 : koh @-
> 憂すけさん

社会人、なんかいいですよねー♪
このお話、書いてて何気にすごーく楽しかったです(´艸`*)。
あかねちゃんのオフィスファッションとか、乱馬の私服とか、つい職業柄考えては
あーだこーだ妄想したり…うう、たまらん!
このシチュエーションは大事に温めようと思っています♪ふふふ(´▽`*)
揺れる金魚はpixivで荒れて大変な時期だったにもかかわらず久々に楽しく書ききった感があります♡
2016/09/21 Wed 14:42:57 URL
管理人のみ閲覧できます : @
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2016/11/10 Thu 17:08:38
Re: あ… : koh @-
> 2016/11/10 Thu 17:08:38 コメント主様

こんばんは☆
どうも、トレンディです(笑)。
もー、言われて見つけて大笑い(´▽`*)。
どうして自分の誤字脱字ってわからないんでしょうね~。いやはや、ホント不思議です。
あとは私の場合、
PCで文章を打つ。

Onedriveで保存。

コピー用紙に4分割でプリントアウトして、書いてから少し時間を置いて読み返す。
ここで部分的に修正。(主に子供の習い事の待ち時間💦)

Onedriveで修正保存した文章を、出先やベッドでスマホで読み返しながら最後に修正。
というやり方なのですが、この最後のスマホが逆にとんでもない変換になっていることも多くて。
特に夜、寝ぼけながら見てたりすると「おいおい」な間違いだらけになってて
かえって大変だったりします(^▽^;)。
いやー、ほんと他の人はどうしてるんだろ…。

どうしよう、ようやく一息ついたからなんか書きたいと思ってPCの前に来つつ、
もう眠さの限界だぁ💦。
年末にかけては何かと忙しいですね"(-""-)"。
こんなに妄想は膨らんでるのに…。

そうそう、私も何気にこの話の佐藤さん好きなんです(´艸`*)。
癖のある登場人物の中でどこまでも、名前すら普通の佐藤さん(笑)。貴重です。
もっと会社の中のこととか書きたいのだけど、もう今いろんな話がテンヤワンヤで
ちょっとずつ目処をつけて行かなきゃ~と思いつつ、色んな意味で社会人編が
一番書きやすいかったりして。やっぱあれかしら?私が年老いた 大人になったからかしら?
もうちょい色々考えてみますね。忘れた頃に登場するかもですよ☆←無計画
2016/11/11 Fri 02:13:10 URL

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