月満ちる時、はじまる恋 

2017/06/17
恋と呼ぶには まだ遠い】から一年後のお話となっています。
拍手には月にまつわるSSが置いてあります。



【 月満ちる時、はじまる恋 】



「あかね。ちょっと買い物付き合えよ」
「ええ?今から?」
「いーじゃねーか。まだ九時にもなってねーし」

ちらりと視線を走らせた壁時計の針が差すのは、夜の九時まであと十五分。
おれはあかねの返事を待たないまま、言いたいことだけ言うとそのまま一階に下りて玄関で靴を履いた。それから待つこと三分余り。ドタドタと忙しなく階段を下りてくる音が近付いてきたと思ったら、先程のブラウスの上から薄手のカーディガンを羽織ったあかねが大袈裟に息を切らしながらやって来る。

「もう。買い物に行くならもっと早く言ってくれればいいのに」

とか言いつつ、行かないという選択肢はないらしい。
おれは心の中で密かに笑うと、「まあまあ」と宥めて玄関の引き戸を横に引く。
暑くもなく寒くもない、一年の中で最も過ごしやすい季節。特に梅雨入り前のこの限られた時間は 競うように木々が葉を茂らせ、住宅街を吹き抜ける湿った夜風さえ澄んでいるような気がした。
おれはポケットの中に財布と家の鍵だけ突っ込むと、その解放感に肺いっぱい空気を吸い込む。甘酸っぱいものを飲み込んだ時のように胸の奥がキュッと引き攣るのは、そわそわと浮き立つ気分のせいだろうか。

外灯が照らす住宅街の通りは 思った以上にまだ人影があった。
塾の帰りなのか、自転車のライトを点灯させて走る中学生らしき少年、犬を連れた女性に、仕事帰りのサラリーマン。駅の方から歩いてくる人波と逆らうように歩く夜の街は、普段の景色と少し違って見えてワクワクする。もしかしたらこれも、二人で小さな秘密を共有しているような高揚感からなのかもしれない。
とはいえ、流石にこの暗さだ。いつものようにフェンスの上を歩く気にもなれず、今夜は大人しくあかねの隣に並ぶ。その二人の距離は、偶然でも触れることは難しい人ひとり分の間が空いている。
両腕を腰の後ろで組み、時折跳ねるようにして歩いているあかね。その耳の辺りでは、月明かりを浴びた黒い髪の毛が、緩やかな風になびいてさやさやと揺れていた。


「ねえ、それにしても一体何を買うの?」
「さーな」
「そんなに急を要するもの?」
「ま、着いてからのお楽しみ」


うっかり口笛でも吹いてしまいそうに逸(はや)る気持ちを抑えながら、おれはいつも行く24時間営業のスーパーとは真逆の方に角を曲がる。


「ちょっと。スーパーはこっちよ?」
「知ってるけど、その前にちょっと寄り道」
「寄り道って…あんまり遅くなるとお父さん達心配するんじゃない?」
「うるせーな。すぐだから大人しくついて来いよ」


まあな。確かに行き先も告げられなきゃ訝る気持ちもわからなくはない。
そんなあかねの追及をのらりくらりとかわし、程なくして足を止めたのは、通りを抜けた先にある公園だった。
さして広くもない、それでいて小さ過ぎることもないその公園は、遊具で遊ぶ主達が帰ったのを合図に ひっそりと寝静まっている。時折風で揺れるブランコの錆び付いた軋みと、木の葉の擦れ合う音。それ以外は何も聞こえない、夜の静寂が広がっていた。
おれは出来るだけ外灯の明かりが当たらず、それでいて頭上に木が生い茂っていないぽっかりと空いた場所を見つけ、そこにあかねを手招きする。
むき出しになった簡素な手洗い場から少し離れた所に設けられていたのは、大小横に連なる錆びた鉄棒だった。その塗装の色までは、残念ながら暗くてよくわからない。


「よっ」と掛け声をかけ、鉄棒に腰を下ろす。
その隣の低い鉄棒にあかねも立ったままの姿勢で体重を預けながら、その目はどうしたのと訴えているようだった。おれは無言で顎を上に動かし、空を指す。
そこに浮かんでいたのは、去年 縁側で見たのと同じ、赤い満月。


「今日さ、ストロベリームーンってやつなんだよな」
「乱馬 知ってたんだ」

少し意外そうな声が返ってくる。

「まーな。っつっても朝のニュースでたまたま見ただけだけど」
「そういえば そんな特集やってたわね」
「今年も雨が降んなかったからよく見えるな」
「本当。梅雨入りしたとは思えないわ」


よく天気の話をするやつは面白くねえなんて言うけど、今日は違う。
頭の上で煌々と輝く月を遮る雲は一つもなく、心なしか地面からの距離も近いような気がした。不思議と、その周りに他の星の姿は見えない。
二人でしばし月に見惚れた後、おれはずっと気になっていたことを尋ねてみた。



「去年さ、」
「去年?」
「去年の満月の日。おれ、あかねのこと怪我させちまっただろ?」
「そうだっけ」
「ホントは覚えてんだろーが」
「べ、別にとぼけたわけじゃないけど…」
「…」
「で?それがどうかしたの?」
「あの時さ、」



膝の裏に鉄棒を引っ掛けるとそのまま後ろにグルリと回転する。目に映る景色が逆さまになり、おれとあかねはちょうど背中合わせの状態だ。



「おめー、本当は東風先生と一緒に月が見たかったんだろ」
「え…」
「おかしーと思ったんだよ。いつもだったら絶対学校帰りに先生んとこ寄ってくのによ」
「…」
「あの日に限ってあかね、診療時間ギリギリに行くんだもんな」
「それは、」
「確かに先生、診察が終わったらいつも玄関の外まで見送ってくれるしなー」
「…」
「本当は先生と一緒に月を見たかった。違うか?」



不意に強い風が吹き、新緑が茂る木の枝をざわざわと揺すって通り過ぎる。
家の庭と違って屏風のように立ち並んだ木々の奏でる音は、おれ達の声までも掻き消してしまいそうだった。



「どうしちゃったの?突然」
「どーしたって?」
「だって…乱馬らしくないんだもの。急にそんなこと言うなんて」


ざり…と土を靴で踏みしめる音が聞こえる。
おれは反動をつけて回転すると再び鉄棒の上に座り、隣にいるあかねの表情をちらりと伺った。
その顔には明らかに戸惑いの色が浮かんでいる。
きっと おれが何を言いたいのか、わかりかねているのだろう。正直、おれだってなぜこんなことを切り出してしまったのか不思議でならない。
だけど……。

……。


「今年はいーのかよ」
「え?」
「先生。誘わなくっていーのかっつってんの」


そう。
今の時間だったら まだ何とでも理由を付けて会いに行ける。
勿論、あかねがそんなことを望むわけはないと確信しつつ、それでも胸の奥に居座る小さなしこりを取り除いてしまいたかった。
風が止むと木が歌うのをやめ、余計に沈黙が重くなったように感じられる。が、プールの底のような静けさを破ったのは、どこまでも穏やかなあかねの声だった。


「もういいんだ、東風先生のことは」
「…」
「今も昔も東風先生はかすみお姉ちゃん一筋だし、確かに前はそれが悲しかったりもしたけれど」
「…」
「不思議よね。こうして乱馬に言われるまで、そんな気持ち忘れちゃってたわ」

へへっと笑って舌を出す。
その顔は、あの日 目にしたほろ苦いものではない。


「それにしても驚きよね。あんたがそんなセンチメンタルなこと言うなんて」
「な…っ、べ、別にそんなんじゃねーけどっ」
「一年前はストロベリームーン眺めてハムみたいなんて言ってたくせに」
「おれは感性豊かだからな」
「どこがよ。ただ食い意地が張ってるだけじゃないの」


ほら、そー言ってまたバカにしやがる。
そんな愉快そうにクスクスと笑って、こんなきれいな月明かりの下でムードがねえのはあかねも一緒じゃねーか。
「あーあ」と溜め息をつけば、「なによ」といたずらそうな顔して覗き込んでくる。
一年前は目を合すことすらままならなかったおれ達。それがいつの間にか、視線を交わすことが こんなに自然な距離になってたんだな。

でも それだけじゃあもう、物足りねえ。



「んで?」


おれはまたグルンと半転すると、あかねの顔を見ないまま問い掛ける。



「今年はなんか願い事とかねーのかよ」
「え?」
「せっかく雨も降らず月がはっきり見えてんだからさ」


なんとなくくすぐったくて、聞かれてもないのにもっともらしい理由を付けるおれ。
そんなおれに背を向けながら、「そうねえ…」と首をかしげるその髪の毛は、肩にも触れない程に短い。


「あんたは?」
「へ?」
「そう。あたしに聞く前に乱馬はどうなのよ」
「おれ?つっても、元々こんな迷信信じてねーしなぁ…」
「相変わらず夢がないわね」
「あ。けど、一個だけ願い事あるかも」
「なに?教えて」
「やだ」
「言うと思った!」
「言うと思ったんなら最初から聞くんじゃねーよ」
「天の邪鬼」
「お節介」
「ナルシスト」
「ずん胴」


あー。なんか頭がくらくらしてくんな。
やっぱあれか、ずっと逆さまになってたせいか。

軽く重心を後ろに引き、反動をつけて鉄棒の上に尻を乗せる。
再び回転する景色。軽い立ちくらみを起こしたように、こめかみではトクトクと血管が速く脈打つのを感じた。
そういえば去年、あかねが言ってたよな。確か、バイオなんちゃらって。
あれってもしかしたら案外本当なのかもしんねえ。
だってこの赤い満月を見ていたら、いつものおれじゃないもう一人の素直な自分が顔を覗かせる。
が、それは何もおれだけではないらしい。

「すごい。血が上って顔真っ赤」とひとしきり笑ったあかねが、まるで一区切りするように呟いた。




「あのね」


ジャ…ッと地面を靴底で擦る音が夜の静寂に響く。
きっとあかねの靴の先は、舞い上がった細かい砂埃で白く色を変えているだろう。



「あたし、もう願い事の半分は叶ったの」
「え?」
「今年の…ううん。もしかしたら、もう去年から半分だけ叶ってたのかもしれない」
「あかね?」
「だからね、もういいんだ」


おれを真っ直ぐ見つめる瞳が、月の代わりにおれの顔を映している。
その顔はもしかすると、今夜の月に負けず劣らず赤く染まっているのかもしんねえ。
だけど それはあかねも同じだった。



「…おめーさ、今日の月の意味って本当はいつから知ってた?」
「え?」
「…」
「今日の月って、ストロベリームーンのこと?」


ああ、やっぱりもうすぐそこまで梅雨の気配が近付いて来ているな。
ほんの少しだけ肌寒さを感じる湿った風が、じりじりと火照った頬に心地いい。



「あれ。本当はただの願い事だけじゃねーんだろ」



おれ、あかねに何を言わせたいんだろ。
だけど、これが自分の自惚れではないことを確かめるため。
あかねから目を逸らさずにいれば、あかねもじっとおれの顔を見つめ返してくる。



「乱馬、知ってたの?」
「なにが」
「だから…」
「…」
「ストロベリームーンの本当の言い伝え」
「さあ…どーかな」



言っとくけど、おれは昔からそんな迷信なんて信じちゃいねーんだ。
それでもこんなバカらしい事を聞いてしまうのは、きっと今宵の満月の成せる業。






すう…と、あかねが大きく息を吸う音が聞こえる。




「あたしは…」
「え?」
「あたしは知ってたわよ、ずっと前から」
「…」
「だからね、去年あんたが縁側に来た時は正直困っちゃった」
「ひでー」
「しょうがないじゃない。乱馬が意地の悪いことばっか言うんだもん」


まあな。
確かに出会いは最悪だったけど。


「でもあんた言ってたじゃない。所詮そんなの迷信でおれは信じないって」
「まーな」
「あの時は あたしもその通りだと思ってたわ」




「だけど…」




ざり…と土を踏みしめる音。

そして、こちらを向いたあかねの細い指が おれの腰掛ける鉄棒のバーに触れる。







「今は、迷信じゃなければいいなって……思ってる」





…月明かりって思った以上に明るいんだな。
幼い頃はあんなに怖かった暗闇で、今はオレンジ色の光がぼんやりとあかねの輪郭を包む。
おかげで背中に月を背負ったあかねの表情は、逆光のせいかよく見えねえ。
それでも。
おれ達の指が触れるまで、その距離はあと数センチ。
それはすなわち、おれとあかねの不器用な想いを表す、近くて遠いいつもの距離…。



おれは自分の右手を離すと、人差し指で頬を掻く。その指から漂うのは、鼻を突く錆びた鉄の匂いだ。そしてそのまま さり気なくチャイナ服の裾に手の平を擦り付けると、先程よりもあかねに近い場所に再び手を置く。




「……」



なんだろう。
この沈黙をやり過ごす気持ちは。

まるで大きなプレゼントの箱を目の前にした子どもが、そのリボンを解く時を今か今かと待ち構えているような高揚感と緊張。



早くその先に行きたくて。
でももう少しだけこのまま、今しかないこの時間を感じていたい。

そんな甘酸っぱい感情が身体の芯を駆け抜ける。




「乱馬?」



ああ。だけどやっぱり無理みてーだ。
だってそーだろ?
そんな恥じらいと、それから若干の期待を込めたような声で名前を呼ばれたら、もう我慢なんて出来なくて。
胸の奥から溢れ出る感情のままに、おれは自分の思いを白状する。



「…おれも」
「え?」
「おれもあかねと一緒で」
「…」
「えっと、その…」
「…」
「こ、これが、ただの迷信じゃなければいいなっつーか、」
「乱馬…」
「お、おれは、その、迷信にさせるつもりはねえ…って思ってて、えと…」





足りない言葉の分だけ、おれの小指があかねに近付く。
それを待つように、その場から動こうとしないあかねの手。





ずっと触れたくて。




まるで心臓が指の先に移動してしまったんじゃねーかと思うくらいに全ての神経がそこに集中する。
互いの体温さえふわりと感じるような、今にも触れ合う指と指。





「…それって ほんと?」



あかねの声が、微かな風のように聞こえてきた。
その返事の代わりに、あかねの小指に自分の指を重ねる。

ピクリと動く細い指。その先をくっと丸めるようにしておれの指を絡め取るのを感じれば、一度手を離してあかねの上から覆うように、今度こそしっかりと握りしめる。
まるで触れた場所から気持ちが胸に流れ込んでくるみてーだ。手を繋いでいるだけで、何とも言えない穏やかな幸福感に包まれる。
不思議だよな。
いつもだったらなんてことないやり取りも、こんな時だといちいち恥ずかしくて。
互いに顔を見合わせることすら出来ないまま更にギュッと力を込めれば、耳に掛けたあかねの短い髪が零れてサラサラと頬を撫でた。
その髪の毛をもう一度耳に掛けてやりたい。
そう思った時、ハッと気づく。




ああ、これが好きってことなんだ。





好きだと意識していない時は いくらでも触れられる。
でもいざ意識してしまえば、その短い二文字の感情に囚われて。






“ずっと こいつが笑っていればいい”





いつしか それは月に願うまでもなくなっていた。
だけど、それだけではもう 満たされない。





好きの感情が溢れ出す。

これもやはり 満月の仕業なのだろうか。





好きで。
好きで。



最初に“あかね”という引力にひき寄せられたのは おれのほう。





今度こそ鉄棒から降りようと、あかねの手を離し 一回転する。
公園に響く、ザリ…と乾いた音。と同時に、久し振りに地面に足を付けたそこから、白い埃が煙霧のように舞い上がった。


「乱馬、前髪はねてる」

クスクスと笑いながら伸ばす手に少しだけ上半身を屈め、代わりにおれもあかねの髪を耳に掛けてやる。もっと風が吹けば それを口実にしていくらでも触れていられるのに、こんな時に限ってひと揺れの風もない。
そして いつの間にかあかねも笑うのをやめ、互いに腕を下ろしたまま向き合った。
何も喋らないおれに、少しだけ俯いたあかね。
ジャ…と土を踏みしめ、ほんの数センチ二人の距離を縮める。咳一つ聞こえない夜の公園で鼓膜の中はドクドクと、早鐘を打つ心臓の音だけがサイレンのように鳴り響いていた。



「…あのさ、」
「なに?」
「あかねが思ってる月の言い伝えと、おれが思ってるのと」
「…」
「そ、それって、ホントに同じなのか…」
「乱馬?」
「…っ、」


あーくそ、かっこわりい。
もうちょっとマシな言い方はねーのかよ。

本当に触れたくて触れられない場所は、遠い月を掴むようだ。



「…っ、」


グッと噛みしめた唇。
とても六月とは思えないほど緊張してカサついたそこを、舌の先でぺろりと舐める。







……キス、したい。




胸の中から、最後の空気を吐き出すように呟く。
けど それは貼り付いた唇が微かに動いただけで、もしかしたらあかねには聞こえなかったかもしれない。
それでも。
そんなおれの目に飛び込んできたのは、暗闇の中でもはっきりと分かる、意を決したようなあかねの表情だった。

「乱馬……」

唇をうっすらと開き、何かを訴えるような瞳は 揺らぎながらも真っ直ぐおれの顔へ向けられている。
言葉を選んでいるのだろうか。
再び地面を向こうとするあかねの手を咄嗟に掴み、強く握った。そのままおれの方に引っ張って身体ごともたれかけさせると、おれの腕のすぐ下では行き場のないあかねの手が遠慮がちにチャイナ服の裾を掴む感触が伝わってくる。



「お、おれは別に言い伝えなんて信じちゃいねーんだけど、」
「…」
「で、でも、こーして二人で月見て笑って、んで、」
「乱馬?」
「…ず、ずっと、一緒にいれたらいーなって、その、」
「…」
「あー…、えっと、」
「…あたしも」
「え?」
「あたしも…ずっと、乱馬と一緒にいたい」
「あかね……」



ぐるぐる 回る。
過去とか今とか積もり積もった想いとか。
それこそ 立っている足元までゆらゆらと揺れているようだった。




「…、」



あかねの顔に一段濃い影が落ちる。
それが自分のせいだと理解するのに一拍の間を置いた後、触れそうなほど近付いた唇からぶつかる微かな吐息に眩暈がした。




やっとここまで来た。
こんなに近くにいたのに、どうしても踏み出せなかった あと一歩。



好きで。
好きで。
その思いがクルリと回転すれば、今度はそれがキスになる。



「ん…、」


鼻から抜けるような甘い声は何を言おうとしていたのか。
睫毛を伏せるその顔すら月に見せるのが惜しくて、そっとあかねの唇を自分のもので塞ぐ。
頭の中で描いていた想像よりずっと柔らかい感触に、たちまち思考の奥まで溶かされていくようだった。
薄い上唇を宥めるように食んでみれば、ぴくりと揺れる細い肩を再び腕の中におさめる。
それなのに唇は離れてしまった温もりが恋しくて、早くも もう一度触れたいと溢れた想いが、また引かれるように二人の影を重ならせた。

かわいくて。
不器用な想いは甘酸っぱくて。
まるで今のおれ達は熟しきっていない苺のよう。
そんならしくねーことを考えてしまうのは、やっぱり今夜の月の魔力なのかもしれない。


触れるだけのキスを何度もかわし、ようやく顔を離したあかねは頬を紅潮させてどこかぼんやりとしたまま、おれに体重を預けてくる。そのくったりと力の抜けた身体を支えれば、はあ…とゆっくり吐いた息が熱く湿っているのを チャイナ服越しでもはっきりと感じた。




「あー……、」
「…なに?」
「………………ながかった…」
「乱馬…?」
「…んでもねえ」


フワフワと舞い上がる気持ちは、まるで月面を歩く宇宙飛行士だ。
だってそーだろ?
こんな天の邪鬼なおれ達でもこうして素直になれたんだから、いつか人類が月旅行に行く未来もそう遠くないのかもしれない。


なんとなく恥ずかしくて目を合わせられなくて、それでも胸の隙間から嬉しそうに笑う声が聞こえてくれば、思わずつられて笑みが零れる。
あーあ。
悔しいけど、やっぱ好きなんだよな。
一度引きつけられちまうと、もう離れることなんて考えられねえ。
甘えるように白い首元に顔を埋めれば、背中を這う小さな手の感触に、おれの全てがあかねで満たされていくようだった。


「…乱馬」
「なに?」
「乱馬」
「だからなんだよ」
「乱馬」
「おい、」
「乱馬もあたしの名前、呼んでみてよ」
「へ?…って、あかね?」
「…うん。もう一回」
「あかね」
「もう一回」
「あかね…ってなんなんだ、これ」
「へへ、別に何でもないんだけど」
「…」
「ただ、嬉しいなぁって思って」

たった一言、ぽつりと呟かれる本音。
それだけなのに頬を叩かれたように目が覚めて、また一層深い恋心へと引きずり込まれる。
一体これはなんなんだ。
こんなかわいさ、絶対に卑怯だろ。
だけどやっぱりそれを素直には口に出せなくて。
代わりに力の限りギュッと抱き締めれば、腕の中から「もうっ、鼻がつぶれるっ!」と抗議の声が飛んでくる。


「どれどれ、あ、ホントだ。つぶれちまってる」
「ちょっとっ!」
「わりーわりー、今 治してやるからな」
「ひょっほ!ひっぴゃんないでひょ!」
「ほら、元通りになっただろ?」
「あんたねー。粘土細工じゃないんだからっ」


「まったくデリカシーがないんだからっ!」なんて口を尖らせるけど、あのままくっついてたら今度こそ我慢が利かなくなるなんてこと、きっとこいつは何もわかってねーんだろーな。
だけど あかねはあかねで照れくささを誤魔化しているらしい。
大袈裟に鼻を押さえていても、その表情は蕩けるほどに甘い笑みを浮かべている。

「あー痛かった!」
「おめーはいちいち大袈裟なんだよ」
「大袈裟じゃないもん。本当に痛かったんだから」
「んなこといったら普段あかねに暴力振るわれてるおれの方が「なに?なんか言った?」

あ、くそ!
そんな下から上目遣いをしてくるのは反則だろーが。

「これで本当に鼻が低くなっちゃったら どうしてくれるのよ」
「あ、それなら心配しなくても それ以上低くなりようねーから気にすんな」
「ちょっとっ!」
「それに、万が一つぶれちまっても」
「なによ」
「そん時は、その、おれが責任もってだな、えと、」
「…」
「………ま、まあ、そーいうことだっ」
「そういうことって全然わからないわよ。乱馬が責任もって、その後なに?」
「お、おめー、わざと言ってんだろ!?」
「そんなことないわよ?責任もって、なにかなぁ」
「うるせえっ」
「なによ、自分から言い出したくせに」
「だからっ、もしもおめーの鼻がつぶれたら責任もって洗濯ばさみくれー買ってやるってんでぃ!」
「なにそれ!そんなので治るわけないでしょっ」


あーもう、このじゃじゃ馬めっ。ムードがないのはどっちの方だ!
そんな前髪が重なるような距離で見つめられると、また触れたくなる衝動を抑えることなんて出来なくて。
鼻先に一瞬唇を落とした後、

「せ、責任とって言い伝えを本当にすればいーんだろっ」

と啖呵を切れば、

「…絶対、だからね」

と微笑む顔は、やっぱり苺のように赤かった。









「そろそろ帰るか」
「うん。お父さん達も心配するだろうしね」

いや、どっちかっつーと期待じゃねーの?
そう言いかけて口を噤んだ。その期待も あながち間違いじゃねーからな。
そんな二人の影は、行きと違って指と指の熱同士が今にも伝わりそうなほどに近い。
だけどさっきは、一筋の光すら通すことなく二人の唇が重なってたんだよな。
思い出した途端にむず痒いようなくすぐったさが襲ってきて、でもそれ以上の嬉しさに 足を動かす歩幅もついつい大きくなる。

「ちょっと待って、速い」
「あ、わりー。あかねが短足ってこと忘れてた」
「もうっ!」

跳ねるように軽く小走りしながら振り上げられた腕をパシッと掴む。そのまま指と指を絡ませ、おれは目を合わせないまま夜空を見上げた。

「しょ、しょーがねえからちゃんと掴んでてやるよ」
「しょうがないとは何よ」
「だっておめー、すぐ迷子になっちまいそうだからな」
「言っときますけど、ここはあたしの地元なんですからね」

あーかわいくねえ。
普通はこう言う時くれー、素直にうんって言うもんじゃねーのか?
なのにこいつときたら、強気な態度を譲らない。

「ふん。そんなこと言って、本当は乱馬のほうが手を繋ぎたかったんでしょ」
「はあ!?な、なんでおれが、」
「だって真っ暗闇が怖いんだもんね」
「あほ、別に暗闇なんて怖くねーよ」
「またまた強がっちゃって。テントからトイレに行くのも我慢してたくせに」
「だからそれは十歳前の話だっつーの!」

「大丈夫よ、みんなには内緒にしといてあげるから」なんて。アハハじゃねーよ、アハハじゃ。
こんなのちっとも楽しくねえ。
…クソ。あかねがそーくるなら おれだって。


「あ、でも確かにおめーの手 握ってると安心するよな」
「え、ほ、ほんと?」
「ホントホント。これで熊が出ようが変質者が出ようが安心だぜ」
「ちょっと。それどういう意味よ」
「わかんねーのか?あかねの凶暴ヅラとその怪力の前では誰だって…わ、待てっ!冗談だって!」

すかさずゲシッと膝の裏に蹴りが飛んでくる。
ったく、相変わらず足癖の悪さは健在だ。


「おめーな。こんな夜くれー、もうちょっとムードってもんを大事に出来ねーのか?」
「それはあんたでしょっ」
「へーへー。あかねがおれに優しくしてくれたらな」
「ずるいっ。普通、こういうのって言い出しっぺが優しくしてくれるものなんじゃないの?」
「おれは充分優しいだろーが」
「よく言うわよ」

あのなー。
ここで襲い掛かんないでいるだけでも、充分紳士的で優しいんだからな?

「……で?」
「え?」
「あかねの願い事ってなに?」
「願い事?」
「さっき公園で言ってただろ。もう願い事は半分叶ったって」
「そうだっけ」
「おめー、今日はとぼけてばっかだな」
「べ、別にそんなんじゃないけど。それよりあんたはどうなのよ?」
「へ?おれ?」
「そう。人に聞く前に、乱馬の願い事は?」
「だから内緒」
「ずるいっ!」
「ずるくねーっつーの」
「人にばっか聞くくせに」
「だってよく言うじゃねーか。人に話したら願い事は叶わねえって」
「そんな迷信、全然信じてないくせに」
「うるせー」

「なのに なんであたしには聞いてきたのよ」とふくれるその顔は、まるで今夜の満月だ。
ならば質問を変えてみると、あかねがおれの手を握り返してくる。


「じゃあ 乱馬の願い事は叶いそう?」
「あー、そーだなー…」



ちらりと肩の下に視線をやる。




おれ、“ずっと こいつが笑っていればいい” なんて思ってたけど。







おれの隣で ずっとあかねが笑っていればいい。





そこに付け加えられたのは、七文字分の新たな想い。




「どーかな。叶うかどうかはしんねーけど」
「乱馬?」
「でも きっと叶うんじゃねーの」
「すっごい自信」
「まーな」


それは結局、言い伝えでもなんでもなく おれとあかね次第なんだけど。

呆れたように見上げてくる顔に「それより、おめーの言ってたもう半分の願い事はどうなんだよ」と問い掛けてみれば、「そうね。多分、あたしの願いも叶うわよ」と強気な台詞が返ってくる。
互いに自分の願い事は口にしない。
けれど。
繋いだ手の先からは、目に見えない確信みてーなもんが通じ合っているようだった。



「ねえ」
「あ?」
「本当に綺麗な満月ね」
「そーだな」


見上げた夜空にぽっかりと浮かんでいるのは、いつもよりも赤みの増した丸い月。
どんなに強がっても、この思いは全て見透かされているのだろう。
幼い頃はあんなに苦手だった夜の暗闇も、今はもうこわくない。


「ところで何 買いに行くの?」
「あー、家出る前に かすみさんから朝食の材料の買い出し頼まれたんだよな」
「…ってことは?」
「やっぱお約束だろ?」


思わず顔を見合わせ、シシシと笑う。



夕飯の匂いの代わりにどこからともなくシャンプーの香りが漂う静かな夜の住宅街。

そんなおれ達の頭上で、まるでこうなることはずっと前からわかっていたというように。
ほんのり顔を赤らめた明日の朝食が、二人の姿を照らしながら微笑んでいた。





< END >





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comment (6) @ Omnibus 今夜赤い月の下であいましょう

   
白い波折りと 跳ねる月影 ①  | 恋と呼ぶには まだ遠い 

comment

No title : reina37891 @-
んーーー!!!綺麗っ!!!
文字が綺麗!!!文体が綺麗!!!
そして、ドキドキが伝わってキュンとかそーゆうんじゃなくで、ギュイーーーンですよ、、、

私も惹きつけられました、、、

なんか、面白みもなくただの感想ですいません、、

流れも綺麗で、綺麗で、、
長文で文庫本とかださないですか??
しっぽりじっくり繰り返し読みたい文です、、
その際はサイン入りお願いします。
2017/06/17 Sat 14:51:53 URL
Re: No title : koh @-
reina37891さん

こんばんは。
バタバタしており、お返事が遅くなってしまってごめんなさい(>_<)。

へっへっへ♡
ばれてしまったようですね、私のピュアピュアな感性が。←誰もそんなこと言ってない
なんかね、私も最近、キュンでは足りずにギュインギュインしてるんですよね…。
いまに温泉を掘り当てる日も そう遠くはなさそうです♨。

そしてまさかの文庫本ww
ブログでは自重していたのに 思わず草生やしてしまいました。
そんなもん出した日にゃあ 在庫の山で焼き芋パーティー待ったなしです。
いいんです。私はここでひっそりぼそぼそ書いているのが好きなのです♡(根暗)
2017/06/20 Tue 20:17:18 URL
: yoko @-
こそっ(文庫本にしていただけたなら、保存用と読む用二冊購入して、キッチンにkoh文庫の棚を設置して、料理の合間に読む…あ、ちゃんとかばーつけます(^^))
2017/06/20 Tue 21:21:46 URL
Re: タイトルなし : koh @-
yokoちゃん

やばっ💦。
これからALL書き直しなので2年程お暇をいただきますが、それでもよろしいでしょうか?(マジ)
今でもしょっちゅう書き直したくなる衝動にかられるのよね。
でも「その前に今は未完のシリーズの続きじゃーっ!」って我慢してる(´▽`;)。
時間が欲しいよぅ。
2017/06/21 Wed 16:37:34 URL
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2018/05/06 Sun 13:02:50
Re: 初めまして : koh @-
Yさん

初めまして、こんばんは。
この度はコメントいただき、ありがとうございます。
過去のお話は恥ずかしくてなかなか読み返せないのですが、つい私も赤い月シリーズを振り返って懐かしい気持ちになりました^^。
そしてこのお話は自分でも色々思い入れがあり、原作の続きがこんな感じだったら~と仰っていただいて本当に嬉しかったです。
なかなか素直になれなくて、ちょっと勇気を出して踏み込んだと思ったらまた反発して。
とっても面倒で遠回りな二人ですが、だからこそこんなに愛おしくて妄想が尽きないのだなぁと思います////
そしてコメントを送るってすごく勇気が要りますよね。私もひとつのコメントを送るのに毎回緊張しながら下書きを繰り返すので、とてもありがたくて……。
失礼だなんてとんでもない。本当に嬉しかったです。
最近はあちこちとシリーズが散らばっているこちらのブログですが、その中で一つでもコメント主様のお気に入りが見つかったら幸いです。
この度はありがとうございました♡
2018/05/07 Mon 19:53:17 URL

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