二度目の春は、はじまる予感。(前編) 

2018/04/18


二度目の春erizi




 親が決めただけの許婚──。

 その台詞を何度口にしてきただろう。
 時に親の前で。時にクラスメイトの前で。時に一人ぼっちになった、自分の部屋で。
 何度も何度も言い訳のように繰り返してきたそれは、すんなり事が運ばない二人にとっていわば免罪符のような切り札に過ぎなかった。それなのに。
 二人が出会って一度目の春が過ぎ、二度目の春が訪れたこの四月。
 あたたかい日差しでゆっくりと溶かされた雪のように。
 渓流を転がる石が角を丸くするように。
 少しずつ、少しずつ、意地を張ることを手放す代わりに自分でも止めようのない想いが膨らんで。
「あかね……」
「あ……」
 気が付いたら乱馬の顔がすぐそこにあった。
 それまで雑誌やテレビの中の世界だけと思っていた甘い予感。それはなんの前触れもなく突然あたしの日常をノックする。どうしよう。そんな一秒の戸惑いは呆気なくおさげに結った輪郭の影に覆われた。
 生まれながらにして体に教え込まれたように、そっと瞼を伏せる。熱に侵されたみたいな赤い顔。それが最後に見えた乱馬の表情で。
 感触を確かめ合うように、重なる二人の唇。
 この春、あたし達は言い訳だけの関係を踏み越えた。
 
 


 二度目の春は、はじまる予感。



 それをゆかとさゆりに打ち明けたのが三日前。
 そしてなぜか、あたしの目の前には一本のビデオテープが置かれている。
「これ、なんのビデオテープ?」
 やや日に焼けたラベルを見れば『異種格闘技』と癖のある文字で書かれており、なるほど、さゆりがどうしても一緒に観たいものがあると言ったのはこういうことか。
 学校帰りのコンビニに立ち寄り、それぞれお気に入りのお菓子を手土産に訪れたさゆりの家。そこで通されたのはいつものさゆりの部屋ではなく、家族全員が留守にしているという一階の居間だった。買ってきたペットボトル入りのジュースをグラスに注ぐあたしを横目に、さゆりはリビングのカーテンを寸分の隙間なくぴっちりと閉める。そして「いい? 観て驚かないでよ」そう言って、机の上のリモコンを手に取った。

 テレビ画面に映し出されたのは若い女性と、それより幾つか年上に見える男女の姿だった。女性は二十歳そこそこだろうか。その後ろから髪の毛を横に流した男性が女性の耳元で何やら囁いている。それにしても、何の脈絡もなく部屋の中で佇む二人──その室内には不思議と窓がないにも関わらず、やけに明るい照明とドレッサーらしき小さな家具、それから対照的に大きなベッドがあるだけだ。はたしてこれのどこが格闘技なのかと首を捻る。と、突然、男性が女性の頬に手を当て、口付けを始めた。はっきり言ってそこにストーリー性など見当たらない。
「な、なにこれ」
「しっ! いいから」
 咎めるよう、人差し指を口の前に立てるさゆり。
 それはどう見ても、健全なビデオ鑑賞とは言い難く。
「ちょ、ちょっと待って。これってもしかして……っ」
「そう、アダルトビデオ。お兄ちゃんの部屋で偶然見つけちゃったのよね」
 へへっと、大して悪びれた様子もなくさゆりが舌を出す。
 男兄弟のいないあたしには想像もつかないことだが、もしかしたら年頃の男性が一つ屋根の下で暮らす中でこういうことは珍しくないのかもしれない。思わず画面に釘付けになりそうな衝動を堪え、チラチラと視線をやる程度に留めるあたしとゆか。その隣からはバリッとポテトチップスの封を開ける、呑気な音が聞こえてくる。

「タイトルに格闘技ってあるくらいだから、最初はあかねが好きそうだなぁと思ってなんの気なく再生したんだけどね。すぐに“あ、これ違うな”って気が付いて」
「そりゃ、こんなチュッチュッしてる格闘技なんてないわよ」
 ポテトに手を伸ばしたゆかがすかさずツッコミを入れる。
「で、あたし一人で観るのもなんだし、どうせならあかねも勉強しておいたほうがいいんじゃないかと思って誘ったの」
「あ、あたし!? あたしがなんで、」
「またまたとぼけちゃって。乱馬くんと付き合うことになったんでしょ?」
「つ、付き合うっていうか、その、よくわかんない……けど」
「でも十日前にキスしたのよね? あかねの部屋で」
「う、うん」

 そう。何がきっかけだったかなんて忘れてしまった。ただ、ぷつりと糸が切れるように会話が途切れ。目が合った瞬間、乱馬の瞳の中にそれまで見たことないような男を感じた。
『あかね』
 たった三文字、自分の名前を呼ばれるうちに乱馬の顔がすぐそこにあって。その後ははっきり思い出せないけれど、唇に触れた確かな温もりと、あたしの肩を抱く乱馬の手が微かに震えていたこと。それだけは今も体が覚えている。

「ちょっとあかね。悪いけどここで一人妄想に耽らないでよね」
「やだっ、別にそんなんじゃないわよ」
「けどさ、乱馬くんにしてみたらやっと念願のキスを済ませたわけじゃない? となったら当然、次のステップだって期待してると思うわよ」
「乱馬が?」
「そうよ。ああ見えて乱馬くんだって年頃の男の子なんだし」
「年頃ねぇ」

 なんだか、乱馬がこんなことに興味があるなんていまいち想像がつかない。そりゃ確かに関心がないと言ったら嘘になるんだろうけれど、かといって積極的に先を急ぐようにも思えなくて。
 そんなあたしの胸中を察したのか、ゆかが質問を変えてくる。

「じゃあ聞くけど、乱馬くんと初めてキスした日からしない日なんてある?」
「それは、」

 ……そうなのよね。みんなの前ではあたしになんてまるで興味の無いような顔しておきながら、あの日以来、あたしと乱馬は毎日欠かさずキスをしている。たまにタイミング悪く二人きりになれない日なんかもあったりして、今日はもうしないんだと思っていたら、わざわざ寝る前にあたしの部屋まで訪れることもあった。お互い付き合うのも初めて同士、最初はそんなものなのかと思っていたけれど、もしかしてやっぱりその……そういうことなの?
 呆れたようにさゆりが溜め息をつき、指先に付着したポテトの塩分をペロリと舐め取る。

「あのねぇ、あれで乱馬くんだって色々と我慢してると思うわよ」
「そうかしら」
「それとも何? あかねは結婚するまで乱馬くんとはこういうことしたくないって思ってるの?」
「べ、別にそんなんじゃないけど」
「だったら心の準備くらいしておいても損はないわよ。っていうか、これ観たらまたお兄ちゃんの部屋に戻しておかないとバレたら大変だわ。あ、もしも新作見つけたら、その時はちゃんと声掛けるから安心して!」
「さゆりったら」

 そうこうしているうち、画面の中で交わされる男女の口付けは深いものに変わっていた。
 ぴちゃぴちゃと音を立て、まるで見せつけるように何度も角度を変えては繰り返される接吻。後ろから顎を捕えられていた女性はいつの間にか体ごと反転し、求めるように相手の首に腕を絡めている。

「す、すごい……なんか大人のキスね」
 ごくりと、ゆかが唾を飲み込む。
「もしかしてあかね、こういうキスも乱馬くんとしてるの?」
「し、してるわけないじゃないっ!」

 ……ううん。実は一度だけ、乱馬の舌があたしの唇を舐めたことがあった。が、その時は突然のことに驚いて顔を離してしまったため、それ以上のことはない。今思えば多分……いや、きっとそういうことだったのだろう。

「あかねはこういうの観るの初めて?」
「う、うん。うちはテレビも居間に一台しかないし……あ、でも映画のロードショーとかで俳優さん同士が際どいラブシーンとかしてるのは観たことあるけど」
「特に洋画は激しいわよねぇ。あれって家族で観てる時だと気まずくて」
「そうそう。うちのお父さんなんかわざとらしく新聞読み始めちゃったりするもの」
「そのくせ、いいところで都合よくシーンが切り替わっちゃうんだから」
「い、いいとこって、やだ!」
「それより、あかねはいいわよね。一応、キスのAを済ませてから見てるんだもの。あたしなんか恋のABCがいきなりアダルトビデオのAスタートよ」
 笑いを誘うようにゆかが盛大な溜め息をつく。
 それを宥めるよう、さゆりがゆかの肩をポンと叩いた。
「そっかぁ。うちは男兄弟がいるせいか、たまにこういうのが無防備に置いてあるのよね」
「無防備って?」
「たとえばビデオデッキの中に忘れて入れっぱなしとか」
「あちゃー」

 会話だけを聞いていたら、まるで恋愛ドラマでも見ているようだ。
 他愛ない話をしながらお菓子に手を伸ばし、赤裸々な事情を打ち明ける。こんなの、乱馬が知ったら一体どんな顔をするんだろう。
 だけどあたし達も思春期の女子高生で。表立って口にするかしないかの違いはあれど、さほど男子と大差ないんじゃないかと思うくらいに、性に対する好奇心だって大いにある。

「見てよ。あっという間に脱がせていくわね……」
「あれって手元も見ないのにどうやってボタンとか外していくのかしら」
「そこはやっぱり慣れなんじゃない? もしくは職業的なものか」
「あ、でも乱馬くんって妙に器用なとこがあるからボタンの一つや二つくらい、難なく外せそうよね」
「ちょ、ちょっと、変なこと言わないでよっ」

 気まずい沈黙が訪れないよう、みな口々に好き勝手なことを言う。それでも大袈裟なくらいに男女の喘ぐ声が聞こえ始めれば、ここで他の家族が帰宅したら目も当てられないというようにボリュームを下げ、辺りをキョロキョロ見渡した。
 ブラウン管の向こうでは、絶妙に肌蹴て露わになった胸を男性が弄り、その度に女性が甘い声を漏らしている。

「これって“感じてる”ってやつなのかしら」
「さあ……よくわからないけど、そうなんじゃない?」
「でもよく言うでしょ。女性は多少の演技も必要って」

 女子高生たる者、みんなどこかで聞いたような知識だけは一丁前……いや、もしかしたら男子より、女子の方が現実的な分だけいやらしいのかもしれない。好奇心と冷やかし、それから単純な疑問を一纏めにした、際どい質問も飛んでくる。

「あかねは乱馬くんに触られたこととかないの? その、胸とか」
「あっ、あるわけないじゃないっ! 乱馬がそんな、あ、あたしの胸なんて……っ!」
「あかね、声が大きい!」
「あ……、」

 にやにや意地の悪い笑みを浮かべる友人達にたしなめられ、残っていたジュースを一気に口に含む、その味は氷がとけて甘くはなかった。それでも意地汚く最後の一滴まで飲み干すと、やれやれとさゆりが肩をすくめる。

「でも乱馬くんは触りたいと思ってるかもよ」
「っていうか、間違いなく思ってるわよ」
 そこにポッキーをくわえたゆかも頷く。
 だけど。
「そ、そんなことないわよ。だっていつもあたしのこと、ずん胴ぺちゃぱいってバカにするもの」
「それはらんまちゃんの胸が大き過ぎるだけでしょうが」
「そうそう。あかねだって決して胸が小さいわけじゃないわよ」
「でも……」
「大体、あかねがずん胴だったら世の女性の立場がないじゃない」
「本当よね」
 慰められてるんだか愚痴なんだかわからない二人の調子に相槌を打ち、三杯目のジュースを注いだところで 、ふと さゆりが声のトーンを一段落とす。

「あかねはどう思ってるの?」
「え?」
「乱馬くんとこういうことするの、考えたことないとは言わさないわよ」

 あんあんと尋常ではない喘ぎ声が響く中、ゆかとさゆりがあたしの覚悟を聞き出そうとしているのを痛いほど感じた。薄暗い室内で明々と照らされる画面の中では、まさに異種格闘技のハイライトに差し掛かっている。しかし、みんな気恥ずかしさからそこには視線を向けず、たまにチラチラと盗み見しては「どうなの?」と追及の手を緩めない。
 そしてあたしは観念したように白状する。

「そ、そりゃあたしだって、いつかは……って思ってるけど」
「それって、結婚してからとかじゃなく?」
「う、うん……。もしも自然にそういう雰囲気になれば、だけど」
「まあ、確かに高校生だからって早過ぎるなんてことはないしね」
「ましてや許婚同士でしょ? そんなの、親のお墨付きじゃない」
「それとこれとは違うわよ」
「あら、全然違わないわよ。っていうか、そんなぼんやりしてたら他の女の子に取られちゃうかもしれないわよ」
「え?」
「なに驚いてんの。乱馬くんの周りってやたらと女の子が多いじゃない。しかも見た目はイケてるシャンプーとか右京とか、小太刀……は、まぁないとして」
「そうね。最近でこそ少し落ち着いてきてはいるものの、あの三人が大人しく身を引くとは思えないものねぇ」

 うんうんと頷く二人。そして思いもよらぬことを口にする。

「三年生になってから乱馬くん、ますます後輩の子達にも注目されてるみたいよ」
「そうなの?」
「そうなの? って呑気ねぇ。噂で聞いたけど、早くも一、二年生の間でファンクラブみたいなものがあるみたいだし」
「乱馬くん、目立つもんね」
「この前だって二年生の子に呼び出されたの、本人から聞いてない?」
「き、聞いてない」
「そっか。まあ、わざわざあかねに聞かせるようなことでもないかもしれないわね」
「素顔を知らない年上の先輩って余計にカッコよく見えちゃうんだから怖いわぁ」

 真剣な表情の二人に圧倒されるあたし。そしていつしか、問題のビデオテープは終わっていた。
 時間にしたら約三十分程だろうか。それは行為そのものだけを抜粋したような、画質も鮮明とは言い難い代物だったけれど、おそらく初心者にも観易いオーソドックスな類にあたるものだろう。
 ぎゅるぎゅるとテープを巻き戻す音が響く部屋の中、さゆりが厚手のカーテンだけを開ける。途端に窓から射し込むうららかな光が部屋を照らし、先程までのいかがわしい空気は一気に日常へと引き戻された。が、ダメ押しするようにさゆりがあたしをビシッと指差す。
「いい? 脅すわけじゃないけどあかねも覚悟しといたほうがいいわよ」
 それに対し、あたしはただ曖昧な笑顔を浮かべるしかなかった。
 
 *
 
 自分の部屋に戻ってからも、あたしの考えることはそればっかりだった。
 さゆりの家で観た男女の営みが頭から離れない。ううん。正確には言葉を失くしたように啼き声を上げる響きが耳にこびりついていた。
(乱馬とあたしもあんな風に……? なんだか、想像がつかないわ)
 胸を触られ、舌ったらずの仔猫ような声を零していた女性。思わず服の上からそっと自分の膨らみの上を触ってみるものの、特に気持ち良いとは思わない。
 これが乱馬だったら違うのかしら?
 パッと思い浮かべた存在に、いけないことをしている気になって手を離す。
『あかね……』
 キスの前、お伺いを立てるように、甘えるように。そっと耳元で囁かれる、少し掠れた声。それを思い出した瞬間、ジンとお腹の下に痺れたような疼きが走った。
(や、やだ……っ、今の、なに?)
 声を思い出しただけ。それだけなのに──と、そこにノックなど知らない男が突然部屋のドアを開ける。
「あかねー」
「ら、乱馬っ!?」
 全身がギクリと跳ねる。そして椅子から半分転げるように立ち上がると、胸の上の皺を伸ばした。
 一瞬にして背中に広がる冷たい汗。明らかな挙動不審を自覚しつつ、それを誤魔化そうとするあたしはまともに乱馬の目を見れないでいる。
「あれ、どーした?」
「べ、別になにも……っ」

 乱馬にも。
 乱馬にも、その、なんていうか、男の人のそういうのが付いていて。興奮したら、あんな風に……ってやだやだ、あたしってばなに考えてるのよっ!?

 そんなこちらの混乱など知る由もなく、のしのしと近付いてくる乱馬。そしていつものように躊躇なくあたしの手を取ると、
「おめー、なんか顔赤くねーか?」
「そ、そうかな? そんなことないけど、」
「もしかして熱でもあんのか?」
 ゴツンと額同士を合わせる、乱馬の息が瞼に掛かった。キスをするようになって以来、二人きりの時はこういうこともするようになった乱馬に、あたしは未だ戸惑いを隠せない。
「熱は……ないみてーだな」
「う、うん。あの、本当に平気だから。それより、なんか用事があったんでしょ。なに?」
「いや、うん。その……用事っつーか」
 気が付いたら顔の前の影が濃くなっていた。後ろめたさからか咄嗟に顔を逸らし、直ぐさま後悔する。

「あかね?」
「あ……ご、ごめん。実は乱馬の言う通り、ちょっと風邪っぽくて。だからその、うつしちゃ悪いし」
「こんくれーでうつるほどヤワじゃねーよ」
「う、うん、でも」
「……わかった。その、今日は早く休めよな」

 じっと射るような視線には心配の色が浮かんでいた。あたしはなんだか申し訳ない気になり、ますます顔を伏せる。押し黙るような気まずい空気が流れ──ふと、額に唇が触れるのを感じた。
「ちゃ、ちゃんと腹隠して寝ろよっ!」
 バタバタと、逃げるように部屋を後にする乱馬。その乱馬が残した熱が額から全身に伝わり、やけに熱い。
(ちょっと前までが思い出せないくらいの展開なのに、これでも乱馬は我慢してるの?)
 そっと額に手を当て、先程の乱馬の表情を思い出す。刹那、酸っぱいものを口にした時のような原因不明の鋭い痛みに、その晩あたしはなかなか眠ることが出来なかった。


 翌日からのあたしの態度は、我ながら褒められたものではなかったと思う。
 目が合ってはふいっと視線を逸らし、乱馬に話し掛けられる前に他の人のところへ関心を移す。万事がそんな調子だった。
 授業中はまだいい。横から刺すような視線を感じても「授業に集中しなさいよ」と尤もらしく口を動かし、黒板を見ているふりをすればいいだけだ。
 休み時間も然りで、乱馬に話し掛けられる前に他の男子や女子が盛り上がっている輪の中に飛び込む。明らかに意識し過ぎている。自分でもわかっているのに、自然にしよう、今度こそ乱馬の目を見て話そうと思えば思うほど、まったく逆の行動に出てしまう自分が恨めしかった。
「あか──」
 放課後、早々に鞄を背負った乱馬があたしの元にやってくる。が、タイミングが悪いという時はとことんついていない。そんな時に限ってやれ部活の助っ人だの、誰彼からの呼び出しだので邪魔が入り、何か言いたげな乱馬をよそに、あたしはどこかホッとしている自分がいた。
 
 *
 
「乱馬くん、かわいそー」

 じゅるるるとお行儀悪く音を立ててストローを吸うのはゆかだ。既にグラスの中は透明に変わり、それでもみみっちく氷の間のアイスティーを吸い上げる。

「まだ手を出されたわけでもないのに」
「だ、だって」
「あんな露骨に避けられたら乱馬くんだってワケがわからないでしょ」
「う……っ、そうなんだけど」
「やれやれ。あかねにはまだ刺激が強かったか」

 若干の責任を感じたようにさゆりが首を振った。けど、あたしだって別に温室育ちの純真無垢ってわけじゃない。男女が付き合えばその先を考えてドキドキもするし、それが具体的に何をするのかも知識として把握しているつもりだ。更にはなんだかんだ言いつつ、人並みに好奇心と期待も持ち合わせている自覚だってある。
 ただ、相手があの乱馬だから。だから気持ちが追いつかないだけで。

 多分、こわいんだ。乱馬にあたしの全てを見られるのが。

 だってそうでしょう。女に変身した時の乱馬は十人いたら十人全員が振り返るような絶世のかわいらしさで、更には本人曰く黄金のプロポーションを誇っている。悔しいことにそれは大袈裟でもなんでもなく、出るとこは出て締まるところは締まっている、まさに完璧と言ってもいいほどのスタイルに、あたしが怖気付くのは当然のことだった。
 もちろん、あたしだってただぼんやりしていたわけじゃない。日々のエクササイズだって欠かさないし、乱馬に出会った頃に比べれば幾分女の子らしくなっている……と信じたい。それでもあたしの顔を見れば相変わらずずん胴呼ばわりし、初めて裸で対面した時だって自分の方がプロポ―ションに優れていると言い放った男である。……あ、思い出したらだんだん腹が立ってきた。
 とにかく、グラビア雑誌から飛び出して来たようなボディの持ち主に自分の裸を見せるのが躊躇われるなんて、こんなのきっと、他の女の子にはわからない悩みだろう。
 三分の一ほど氷のとけたジュースを口に含む。するとそれまで窓の外を見ていたさゆりが、両手で内緒話のポーズを作った。
「ねえ、乱馬くんは知ってるの?」
「知ってるって?」
「あかねがアダルトビデオ観たこと」
「しっ、し、知ってるわけないでしょ!?」
「あ、流石にそんな話はしないんだ」
「す、するわけないじゃないっ」

 そう。それどころかあの日からちょうど一週間、二人の間に会話らしい会話さえ儘ならない。そんなあたしの隣では、ストローの包み紙を蛇腹状にするべくゆかがせっせと指を動かしている。

「でも乱馬くんに言ったら喜ぶと思うけどなぁ」
「喜ぶ? あたしがアダルトビデオ観て?」
 意味が読み取れず聞き返すあたし。それに顔を上げないまま、ゆかが「当然」と答える。
「だってそうでしょ。初心な彼女がそんなビデオを観ただなんて、それって遠回しに“そういうこと”を意識してるって言ってるようなもんじゃない」
「そ、そうなの!?」
「そうなの」

 ……すごい。
 あたしが知る限り、ゆかだってお付き合いの経験はないはずだ。しかしながら、こうも自信満々に断言できる根拠は一体どこにあるというのか。

「それに乱馬くんだって観てると思うわよ、アダルトビデオ」
「え? どうして?」
「だって年頃の男の子だもん。そういうことに興味ない方がおかしいでしょ」
 そして出来上がった芋虫状の中心に雫を一滴垂らす。途端にうねうねと、まるで生き物のように包み紙が反り返った。
「だけど、乱馬なんてテレビどころか自分一人の部屋だってないのに」
「そんなの、ひろしや大介の部屋に行けばなんとでもなるじゃない」
「現にあかねだってあたしの家で観たでしょ」
「まあね……」

 確かに。あの日、本当にビデオを見たくなければ拒絶することだって出来たのだ。にもかかわらず先立つ興味本位に負け、しっかり最後まで観終えたのは他でもないあたしの意思で。
 その結果、変に意識するあまり乱馬を避けてばかりだなんて、相手にしてみたらたまったもんじゃないかもしれない。
 そんな乱馬の肩を持つように、二人が口を揃えて言う。

「言っておくけど、乱馬くんだって不安だと思うわよ」
「不安?」
「そりゃそうよ。それまでラブラブ一直線だと思ってた彼女が突然よそよそしくなるんだもの」
「あたし、そんなによそよそしかった?」
「うん。傍から見てるだけでもあちゃーって、乱馬くんに申し訳なくなっちゃった」
「そ、そんなに!?」
「とにかくさ、ちゃんと一度話しなさいよ。大丈夫、その場でとって食われるようなことはないんだから」
「大体、いつまでもあんた達がそんな調子だと、教室の中も気を遣うのよね」
「ごめん……」
「もう、そんな顔しないでってば! 単純……あ、素直な者同士、話せばあっという間に笑い話に変わるわよ」
「ちょっと! 単純は余計よっ」

 あははと笑い飛ばし、トレーを下げる。そして店を出たところで「いい? とにかく自然によ。乱馬くんは何も知らないんだから」と念を押され、ついでに背中をばしんと叩かれた。

 
 一人で歩く帰り道は美しい夕暮れだった。オレンジ色に染まっていた鮮やかな空はだんだんと闇に包まれ、それまでの明るさが嘘のように藍色の幕が広がる。
(同じ空でも、時間と見方によってこんなにも違うのね……)
 ゆっくりと表情を変える空はまるであたしと乱馬のようで。動きだす二人の関係性。意識し始めた男と女の違い。
 そう。あたし、乱馬のことを“男”として意識してるんだ。
 だけどそれは昔のような男嫌いではなく、寧ろ逆。
(……あたし、乱馬ともっと近付きたいって思ってる)
 脳裏を過ぎるのは、先日のゆかとさゆりの発言だった。

 ──ぼんやりしてたら他の女の子に取られちゃうかもしれないわよ

 何も乱馬を信用していないわけじゃない。ううん。それどころか、あの不器用で天の邪鬼が服を着て歩いているような乱馬があたしにだけ甘える顔を見せてくれること。それがたまらなく嬉しくて、だからあたしももっとそれに応えたくなってしまう。
(いつからあたし、こんなにエッチになっちゃったんだろう)
 まるであたしだけがこんなことばかり考えてるみたいで、ブンブンと顔の前を手で遮っては言葉にならない声を飲み込む。
(こんな頭の中、乱馬にバレたら恥ずかしくて死んじゃうわ)
 羞恥と混乱と動揺。そんな言いようのない感情で思考は混沌としていたが、一つ確かなのは“そうなること”を望んでいるあたしがいると断言できる現状で。
(とにかく、今夜こそちゃんと乱馬と話をしよう)
 そして久し振りにキスができたらいいな。
 足元の小石をコツンと蹴る、あたしはそっと自分の唇を指でなぞった。
 

 
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comment (4) @ 高校生編 短編(日常)

   
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comment

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2018/04/18 Wed 09:38:55
女子あるあるwww : kimmy @-
いやぁ、恋人としての関係をスタートさせたばかりのふたり、初々しくていいですね。
やっぱり高校生編好きだなぁ(*^^*)

乱馬くんサイドの「あー、辛抱たまらんっ!」的なお話って割とお見掛けしますけど、あかねちゃんサイドの「こんな事ばっかり考える私って…」っていうお話すごく新鮮でした。

女の子同士の恋バナとかって確かに結構な際どい話しましたよねwww
AVとか観て急に生々しく意識しちゃうのもすごくわかります。
最初がオーソドックスなやつで良かった(←そこかいっ!www)

あかねちゃんって真面目でみんなに優しくて何となく純粋無垢な印象があるんですけど、こういう耳年増なこの年頃の女の子っぽい所も当然あるよねっていう。
ましてや好きな人とひとつ屋根の下、毎日キスする関係になったばかりだと女の子だって当然その先も意識しますよね。
そこで流れのままに甘々になるんじゃなくて、自分のそういう感情に戸惑って意識し過ぎて思わず避けちゃうっていうのがあかねちゃんらしいなぁと。
そしてそういうあかねちゃんの気持ちを無視して強引に突き進まないのも乱馬くんらしいんじゃないかと。
今の状況はさゆりとゆかが言うとおり乱馬くんにとってはかなり気の毒ですけどねwww

原作のイメージを崩さず、でもより感情移入しやすく深みを持たせてくれて「もしかしてこういう事考えてたかも、してたかも」と思わせてくれるのがkohさんの作品なんですよね。
うーん、何か全然上手く伝えられませんけどf(^_^;

このあとどんな風に二人で決着するのかめちゃくちゃ楽しみです!
後編正座待機でお待ちしてます!!
2018/04/18 Wed 09:42:14 URL
Re: 続き楽しみにしています! : koh @-
m~コメント主様

ふふふ……♡
本当はこちらの作品を支部に投稿しようかと一カ月ほど前に書いてあったのですが、アダルトビデオの連呼に「これは良い子のお子様が読んで大丈夫だろうか?」……というのは大袈裟にしても、記念のお話としては少し躊躇ってしまって こっそりブログのほうに切り替えてしまいました笑。
そして、このお話はそのまま実体験だったりもします(*^^*)←兄、姉の三人兄弟の末っ子
そりゃ友人同士でAV鑑賞しますともっ!そこでのハプニングや細かいネタは尽きないのですが、それは他でちょっと書こうかな、なんて思っているのでここでは内緒にしておこうっと。
そして男子より、女の子のほうが覚悟をもってこういうのを見てる気がするんですよね。だからこそ、絶対相手には言えないような思いも抱えていたりして、このあかねちゃんの想いを乱馬に教えてあげたいような勿体つけたいような、そんな気分……笑。
とにかく書いていて楽しいお話だったので、後半も楽しんでいただけたら嬉しいです♡
2018/04/18 Wed 18:42:20 URL
Re: 女子あるあるwww : koh @-
kimmyさん

そう!ほんと、女子あるあるですよ~っ!!
それこそ遥か昔に女子高生なる生き物だった私はおバカさんだったため、色々やらかしました……。が、それが今の創作に繋がってるんだから結果オーライだよね^^……なーんて都合よく憂すけさんとも話していたところです笑。
っていうか、女子高生の耳年増感って相当ですよね。入学時は周りに比べて著しく無知だった自分は、女子更衣室や部活の女子トークの度にエロの皺を脳に刻んだものです。←部活に集中しろよ
でもみんな興味ありますよね。寧ろ無いとは言わせない。なんだったら使う予定がなくても女子同士でお手頃な下着ショップとか行ってキャアキャアしてましたもん。
で、いざとなると本人より周りのほうが積極的にアドバイスしたり。これも女子あるあるですよね笑。
こういう“キスは済ませたけれど、その先に進むのは躊躇する時間”が大好きだったりするので、色々ネタが溜まる一方で……。
どうなるのか大正解はないかもしれませんが、後編もお付き合いください^^。

PS.ここで出てくるAVに関しては、原作の時代通り25~30年前のレベルを想定しています。
あの頃はまだ顔○とかなかったんですよ……。あれが普通だと思ってる男子諸君、気を付けて!笑
2018/04/18 Wed 18:53:40 URL

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