1. 触れられない背中 

2016/08/21
お祭りを舞台としたお話 【揺れる金魚】 シリーズです。
高校一年生・高校二年生・未来の三部作になります。
こちらはまだあかねちゃんの髪の毛が長い頃。
個人的には焦れったいくらいのこの関係も大好きです。



【 触れられない背中 】



「あれ?おめー、祭りに行くんじゃなかったのかよ?」


誰もいないと思っていた居間で思いがけない後ろ姿を見つけ、思わず声を掛けるとその長い髪の毛が揺れてこちらを振り向いた。

「別にいいでしょ。お祭りに行くのはやめたの」
「なんで?さっきまでガキみてえに浮かれて楽しみにしてたじゃねえか」
「うるさいわねえ。別に浮かれてなんかないもん」

相変わらずかわいくねえ。
つんと口を尖らすと、これ以上おれと話すことはないというようにテレビのリモコンをいじくっている。が、特に観たい番組があるわけでもないらしく、視線はぼんやりと庭先を見つめたままだ。

(なんでぃ。らしくねえの。)

ま、別にいーんだけどさ。
何を拗ねてんだか知らねえけどこっちにまで八つ当たりされちゃたまんねえ。
特にやることもないし、ロードワークにでも行くか……。
そう思い立って家を出てすぐ角を曲がった所だった。
なにやら見覚えのある女性が小乃接骨院の前で佇んでいるのが見える。

(あれは……)

いつもは下ろしていることが多い長い髪の毛を上で一つにまとめ、うっすらと化粧をしているせいか少し雰囲気が違って見えるが、そこに居たのはあかねの姉のかすみだった。
白地に薄紫で描かれた花柄の上品な浴衣が良く似合っている。

(あれ?でも今日は家族みんなで祭りに行くって言ってたような…)

不思議に思いつつ、知り合いに気付いたのに無視するのも…と声を掛けようとした丁度その時、ほねつぎ屋の扉が勢いよく開いた。


「おおおおお待たせしました、か、かすみさん!」
「あら東風先生、もう患者さんはいいんですか?」
「ははははいっ!な、なんか急に用が出来たとかで、元気に走って帰られました!」
「まあ、ふふふ。それは良かったですね」
「は、はいっ!」
「じゃあ行きましょうか」
「ははははははいっ!!」
「…先生、それはベティちゃんです」
「あ、あれ、いつの間にっ」
「ふふ。東風先生ったら本当におもしろいんだから。父達はもう先に行ってるんですよ」
「やあ、それじゃあ急がないと…」

そんな会話をしながら、ぎこちなく並んだ二人が祭り会場の方へと歩いて行く。
"父達はもう先に行って"…ってことは、おそらくかすみさんと東風先生の二人きりではなく天道家の人々と一緒に祭りに行く約束でもしたのだろう。


「……」

…あーあ。まったくしょうがねえな。
面倒くせえ。そう思いながらも、気が付くとおれは再び天道家へとUターンしていた。







「おい、あかね」
「なによ」

居間に戻ると、そこには先程と同じ様にあかねが一人で頬杖をつきながらテレビの前に座っていた。グラスの中の氷はすっかり溶けて水滴の汗をかいている。

「今ロードワークに出たらちょうど東風先生とかすみさんに会ったぞ」
「…だから?」
「だからって…一緒に祭りに行く約束してたんだろ?なんか患者さんが来て東風先生だけ遅くなったみてえだから、今から追いかけたらまだ間に合うんじゃねえか?」
「間に合うって…何に?」
「え?だから、家族と先生みんなで一緒に祭りに行くんだろ?」
「そんなの、あたしが行ってもかすみお姉ちゃんと東風先生のお邪魔虫になるだけじゃない」

あ……。
どうやら、天道家と東風先生が一緒に祭りに行くことになったのは急な話らしい。
昼過ぎまではあんなに楽しそうにしていたあかねが、まるで火が消えたような静けさでぼそぼそと言葉少なに話す。

「け、けど、おめー朝から楽しみにしてたんじゃねえのかよ?」
「…いいの、別に。浴衣姿を見せたい人だっているわけじゃないし」

ちらりとあかねが視線を走らせた先には、着てもらえない藍色の浴衣が寂しそうに衣紋掛けに吊るされている。
あかねの背中が「もうこれ以上話し掛けてこないで」と言っているようで。

「あっそ」

小さく返事をすると、おれはそのまま自分の部屋へと戻った。








1時間程経っただろうか?
エアコンのない締め切った部屋で 夏の夕方を過ごすのには限界だった。
顔を洗いがてら台所に麦茶を取りに行くと、磨りガラスの向こうには変わらず長い黒髪が透けて見える。どうやら、あれからずっとこうしていたらしい。
流しの前の窓からは長くのびた陽も段々と薄暮がかってもうすぐその姿を夜に変えようとしている。
ちらりと時計に目をやると、時刻は6時48分 ―。

「……」

おれは再び自分の部屋に荷物を取りに行くと、居間に入るなりあかねの背中に声を掛けた。



「おい。出掛けるから準備しろよ」
「え?」
「え?じゃねーよ。もうすぐ7時になるぞ」
「え…あ、もうそんな時間?」

少し慌てたようにあかねが時計に視線をやる。

「祭りって確か8時か9時までやってんだろ?おれ達もそこでメシ食おうぜ」
「メシって…お祭りで?」
「そう。みんなは祭りで食ってくるだろうし、おれ達だけ夕飯抜きってわけにもいかねえだろうが」
「…あたしはいいや。乱馬だけ行ってご飯食べてきなよ」

そう言うと、また両頬を手の平で支えて卓上に目を落とした。
そんなあかねの様子などお構いなしというようにおれは続ける。

「よくねえっつーの。これであかねだけ置いておれ一人祭りに行ったら 後で他の家族に何言われるかわかんねえ」
「それはあたしがちゃんと弁解してあげるわよ」
「それにおれ、まだここら辺の地理に詳しくねえんだよな。祭りの会場とかよく分かんねえし」
「そんなの、人の流れに沿っていけば自然に分かるじゃない」
「おめーはいちいち素直じゃねえなあ。いいから一緒に来て案内しろっつってんだよ」
「な、なんでそんな偉そうなのよっ!」

ある程度予測していたとはいえ、こいつはなかなか"うん"と首を縦に振らない。
ならば……

「あ、それとも何だ?もしかしていじけちゃってんのか?」
「…っ!そ、そんなんじゃ…っ」

東風先生の名前こそ出さないものの、ぶすくれた顔を覗き込む様に挑発するとまんまとそれに乗っかってくる。

「んじゃー道案内くれえしてくれてもいいじゃねえか」
「そ、う…だけど……」
「…ここでいつまでもグジグジしてたってつまんねえだろ?」
「え…?」
「いーから。たこ焼きくらい奢ってやるから5分で準備しろ」

そう言うとおれはあかねの返事を待つことなく、そのまま玄関の方へと足を向けた。







それから5分。
本当に時間きっかりに玄関の引き戸が開く音がして振り返る。
そこには先程と同じ、シンプルな青と白のチェックのワンピースという格好に小さな斜め掛けのバッグとサンダルを履いたあかねの姿があった。

「お。時間ぴったりだな」
「あんたが5分って急かすからでしょーが」

つんと尖らせた唇に眉間のシワ。
年頃の男女が二人きりで出掛けるというのにこれほど色気のない表情をしなくてもいいじゃないかと思う。が、先程と一つだけ違って 長い髪の毛の束を部分的に結んだ後ろには水色のリボンが揺れていた。

「んなこと言って、一応おめかししてんじゃねーか」
からかうようにリボンを指さすと
「お、おめかしって、これは別にあんたのためじゃなくて自分のためだからっ!」
とムキになって突っかかってくる。
あー、ほんとかわいくねえ。

「へいへい。何もおれのためだなんて言ってねえだろうが」
「…っ!」
「とにかく早く行こうぜ。おれ腹減ってんだよな」
「…本当に奢ってくれるんでしょうね?」
「え?おれ、んなこと言ったか?」
「ちょっと!」

…こんなかわいくねえ女なのに。
なんだか、居間に一人で座ってるこいつの背中が泣いているように見えて。
気付いたらおれはこいつを祭りに誘い出していた。








祭り会場に着いてもあかねの表情は晴れない。
それどころか、時折固まるように周りの人に目をやっては「ほぅ…」と胸の前に手をやって小さく息を吐いている。
それが何を意味してるかくらい 恋愛に疎いおれだって流石に分かったけど、敢えてそれに気付かないフリをする。

「んで。おめーは何を食いてーんだよ?」
「あたしは別に…」

今までのおれだったら「じゃあ勝手にしろよ」と突き放してしまってもおかしくない。
が、なんとなく今日はそうしちゃいけない気がした。

「ならおれの食いたいもんでいいな。えっと、たこ焼きとー、焼そばとー、かき氷とー…」
「あ、あたしもかき氷食べたい」
「じゃあ、かき氷は食事の最後でいいな。焼そばとたこ焼き、どっちがいい?」
「じゃ、じゃあ たこ焼き……」
「なら買ってくるからそこのベンチ取っとけよ。いいな」

強引にあかねに約束させると長い行列のたこ焼きの最後尾におれも並ぶ。
とにかくどこを見ても人、人、人だ。

(こんなすごい人混みで、偶然 漫画みてえに東風先生になんか会うかっつーの)

先程のあかねの態度を思い出すとなんとなく面白くない気がしてきて。

(でも…それでもあいつ、東風先生に会いたかったんだろうな……)

そう思うと胸の隅っこがギュッと痛くなったような気がした。







ようやくたこ焼きと、結局ついでに焼そばも買い足してベンチに戻ると、そこにあかねの姿は見えなかった。

「おーい、あかね?」

「おーい」

辺りを呼び掛けて見ても返事はない。

(なんだよ。あいつ、まさかやっぱり家に帰ったとか?)

そこまで考えてハッとする。

(もしかして…東風先生に会った、とか?)

もしもそれで東風先生や他の家族と一緒に祭りを回っているならそれでいい。
けれどもし、東風先生とかすみさんの姿を見て一人で泣いていたら……。

(やっぱ一人にしないで一緒に並んどきゃ良かったかな…)

あーあ、と溜め息をつこうとしたその時。



「あ、いたいた!乱馬―、こっちこっち!」

大きな声でおれを呼ぶ声が聞こえた。
見るとあかねが手をぶんぶん振りながら、おれの方に声を掛けている。
駆け寄るにも人が多すぎて、何とかその人波をやり過ごすとあかねのところに辿り着いた。


「おめー何やってんだよっ!?ベンチのとこで待ってろっつっただろ?」
「うん、あの…ちょっと……」

そう言って言いづらそうに目を逸らす。

「……もしかして、先生達に会ったとか?」
「先生って……やだ、違うわよ!ちょっとその、お、男の人に声を掛けられて困ったから場所を移動しただけ」
「って…あっ」

どうやら、おれがいない間に他の男にナンパされていたらしい。
そういえばこいつ、一応学校でもモテる部類なんだっけ。おれにはよく分かんねーけど。


「へー。世の中には物好きもいるんだな」
「うるさいっ!だからあんたには言いたくなかったのよ!」
「にしても、はぐれたらどうするつもりだったんだよ」
「別に。はぐれようと何だろうと その時はその時で特に困ることはないじゃない」
「…まあな」

そうだよな。
おれ達、一応許嫁同士ったってほんの名ばかりだし、別に好きで一緒に祭りに来てるわけでもねえし。
だからもしもはぐれちまっても困ることなんてなんもねえんだけど。
けど、そんなはっきりと言い切るあかねの横顔が少しだけ憎らしいと思った。



―と、

「…それに。もしもはぐれちゃっても、あんたなら見つけ出してくれそうじゃない」

予期しなかったことをあかねが呟く。


「なんで?」
「…なんとなく」
「ふーん。なんとなく、ねえ」
「ほらあんた。なんか執念深そうだし」
「人をストーカーみてえに言うんじゃねえよ」
「あら、違った?」
「おいっ!」

冗談よ、冗談。
そう笑うあかねの顔が思いがけず眩しくて。
柄にもなくドキリとする心臓の音に気付かないフリをすると、あかねの手に持っているビニール袋を指さす。

「それ、なに?」
「ああ、これ?せっかくだから飲み物買ってきたの。だってたこ焼きには水分欲しいじゃない?」
「お、あかねのくせに気が利くじゃねーか」
「まったく、あんたはいつも一言多いのよ!」

いつも通りのやり取りをしながら、周りを見渡してちょっと空いたスペースに二人腰掛けたこ焼きをつつく。

「うまっ!」
「あ、ほんとだ。美味しい!」
「半分はこういう祭りの場で食ってるからなんだろうけどな」
「そうかもね」

そう言って笑うあかねの顔を見ながら、うまい理由のもう半分はあかねと一緒だからなんじゃないか…なんて思って慌てて首を振る。
おれがこんなかわいくねえ女に?
親が決めただけの許嫁に?
ありえない。
ただ、祭りに来てちょっと浮かれているだけだ。そう自分に言い聞かせる。


「お祭りといえば…じゃーん!」

先程の袋からあかねが嬉しそうに二本の瓶を取り出した。

「お、ラムネか」
「そう。ね、昔 この瓶の中のビー玉を取り出そうとしなかった?」
「あー、したした。んで、瓶を割って手ぇ切って、親父に思いきり怒られた」
「ふふっ、乱馬らしいね」

目を細めて笑いながら、ビー玉の蓋をキャップで押すとその勢いで中身が外に溢れ出す。

「きゃ…っ」
「ったく鈍くせーなぁ。濡れなかったか?」
「大丈夫だもん」

いーっと顔を歪ませた後、隣で細い首がこくりと小さく音を立てる。

シュワシュワ
パチパチ

まるでおれの淡い想いのように、刺激の後にすぐに弾けて消えていく小さな泡…。





「…おめーさ」

おれが口を開きかけた時だった。
あかねがぼそりと呟く。

「あ、金魚すくい……なつかしいなぁ」

見ると、目の前を幼い浴衣姿の女の子が小さな透明のビニール袋に赤くゆらゆら揺れる金魚をぶら下げて歩いているところだった。

「おめー、金魚すくいなんて出来んの?」
「ば、ばかにしてっ!あたしだって…!」
「あたしだって?」
「…多分、今だったら少しは獲れるはずだもん」

その口ぶりからするとおそらく今まで獲れた試しがないのだろう。
噴き出したくなるのを堪えると、それまでしゃがみ込んでいた尻を叩きながら立ち上がる。

「んじゃー、せっかくだから金魚すくいもやってみっか」
「え、いいの?」
「おめーの上達ぶりってのを見せてもらおうじゃねえか」
「なによ、偉そうね。そういうあんたは得意なわけ?」
「ばーか。おれを誰だと思ってんだよ」

はいはい、早乙女乱馬様でしょーと軽くあしらうあかね。

「言っとくけど自分の勝負は自分で払えよ」
「わ、わかってるわよ!」
「じゃ…いざ、勝負っ!」








「おーい。いつまで拗ねてんだよ」
「別に拗ねてなんかないもん。あんたこそ、いつまで笑ってんのよ!」
「いやー、流石だぞ?あかね。不器用とは思ってけど、まさかあそこまでとはなー。あんだけ金魚屋を儲けさせちまって店のおっちゃんも驚いてたじゃねえか」
「うるさいっ!」

まるで箸にも棒にも引っかからないような散々の金魚すくい。
水に入れるだけでポイの紙を破るなんて、一体こいつはどんだけ不器用なんだよ。
結局、店の情けでおれが獲った金魚を一匹ずつだけ持って帰ることになったおれ達の手首には、透明のビニール袋が水滴をキラキラと反射させている。

「まあいーじゃねえか。こうしてちゃんと持って帰れるんだし」
「うー…」
「んな顔していつまでもブツブツ言ってると氷が溶けるぞ」

そんなおれ達の手には、金魚の他にかき氷のカップが握られている。
いちご味のあかねに、メロン味のおれ。
いかにも人工的な色と味だが、蒸し暑い夏の夜に氷の冷たさが喉を潤す。

シャクッと氷にストローを差し、先ずは一口堪能した後 シロップをまんべんなく掻き慣らすと、白い氷がジワリとどぎつい色に染まっていく。
さらさらと氷の山が崩れて指先にこぼれそうになるが、その前にストローですくって口に運んではまたシロップと混ぜる…。


「……おめー、かき氷一個食うのにもそんな不器用なのかよ」
「うるっさいわねぇ。ちょっと氷が落ちただけじゃない」

ちょっと…なのか?
まるで南極の氷が剥がれ落ちるみてえに氷の塊がぼろぼろとあかねの手元から零れ落ちるが、あかねがそれを"ちょっと"と言い張るのならちょっとなのだろう。
くく…と再び込み上げてくる笑いに堪えられず噴き出すと、すかさずギロリと睨み付けてくる。

「ふんっ!ちょっと金魚すくいが得意だからって人のことバカにしてっ」
「いやー、バカにはしてねえぞ?むしろ感心してるっつーか、こんな不器用な人間が世の中に――」
「それ以上言ったらぶっ飛ばすわよ!?」

いやいや、その前に人に蹴り入れてんじゃねえよ。
金魚持ってかき氷食いながら人の足蹴って。妙なとこだけ器用なんだな、こいつ。
じんじんと痛む足をさすりながら、ふと拗ねたあかねの口元を見る。


……。

「あかね。べーってしてみ?」
「え?」
「いーから。舌出してみろっつってんの」
「…こう?」

言われた通り、素直にあかねが舌を出す。


「うわっ、やっぱ真っ赤だな。すげー色…ってことはおれもか?」
「ちょっとー。あたしだけにやらせないであんたもべーってしなさいよ」

途端にあかねが強気になって挑発的な目を向けてくる。
多分…というか、間違いないであろう自分の状態を予想しつつ、おれもあかねに舌を見せると聞いてみた。

「どうだ?」
「すっごい緑色!宇宙人みたい!」

こんな子供っぽいやり取りにきゃっきゃっと声を上げて笑うあかね。
その顔を見ると、氷を食って冷たいはずの胸が不意にじわりと温かくなるような気がした。




一通り笑い合った後、空になったかき氷の容器をあかねの分ごとごみ箱目掛けて投げ入れると、おれは独り言のように呟く。

「…随分 元気になったじゃねえか」
「乱馬?」
「夕方まであんな泣きそうな顔してぶすくれてたくせによー」
「ぶ…っ!べ、別に泣きそうになんてなってないもん!」
「いーや、泣きそうになってたなってた。えーん、あたしだけ置いてきぼり~って」
「ホントあんたってデリカシーないんだからっ!」
「わっ!こら、暴れんな!金魚がびっくりしちまう!」
「あ…っ」

っとにこいつは。
楽しそうにしてたと思ったら一転、泣きそうになって、迷子になって笑って笑わせて怒って怒らせて……こうしておれの目の前でコロコロと表情を変えるんだ。



「ふーんだ。乱馬のガキ」


…それって、誰と比べて言ってんだよ。
目の前を歩くゆらゆら揺れる水色のリボンに一瞬手を伸ばしそうになりながら…自分の中で生じ始めた想いとその手を慌てて引っ込める。




「ガキで結構。ま、おれよりガキのあかねには言われたくねーけど」
「ちょっと聞き捨てならないわね。あんたよりガキってどういう意味よ」
「ほれ、またそうやってすぐにムキになって怒る。そーゆーとこだよ」
「怒らせてるのはあんたでしょ」
「まあ、そうなんだけど」



そうなんだけどさ。



「だけど、おめー…」
「なによ?」



とん、と一歩を大きく跳びはねてあかねの姿を追い越すと。








「笑うとかわいいよ」






気が付いたら 自分でも思ってもみないことを口走っていた。













その後はどうやって家まで帰ってきたのか覚えていない。
でも一つだけはっきりしていることは、最後に玄関で目にしたあかねの表情は恥ずかしそうにはにかむ笑顔で。

「…今日はありがと、乱馬」

その笑顔と一緒に小さく呟かれた言葉に、おれがノックアウトされそうになってしまったこと。



かわいくねえ女。
修行中の身で、おれがこんなかわいくねえ女を好きになるわけがない。

無意識のうちに自分で自分に言い聞かせてブレーキを掛ける。
そう。ブレーキを掛けることが何を意味するのかも分からぬまま……。







その晩、おれは薄暗い台所の明かりの下で用意した水槽に二匹の金魚を放ってやった。
水の中では鮮やかな赤い金魚が気持ちよさそうに鱗をきらりと光らせる。
時折寄り添うようにひらひら漂い、また次の瞬間には離れてその身を水に任せる。
ゆらゆら揺れて
ひらひら尾をなびかせて
お互いのテリトリーを侵さない、保たれるのは絶妙な距離感。

と、不意に金魚が跳ねて静かな水面に波紋を作った。
パチャ…と音を立て、小さな点は瞬く間に大きな円状に広がりを見せる。






―― 今のおれとあかねって こんな感じなんだろうか。





二人の距離が縮まるまでには、まだまだ時間が必要だ。





♪ 金魚 / Bonnie Pink





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