Survivor 03.茜溺泉 

2018/05/25
拍手には、このシリーズを書くにあたっての裏話なんぞを置いてあります。


「あいやー、お客さんよく来たあるな」
「よう。これからしばらく世話んなるぜ」
 あれからバスに揺られること一晩、更にその後は徒歩で山を越え、ここ呪泉郷に着いたのは翌日のことだった。
 聞き慣れた中国訛りの日本語がやけに嬉しくてたまらない。おまけに久々に会ったプラムはすっかり身長も伸びていて、幸いなことに父親には似ても似つかない成長っぷりにおれは安堵の胸をなで下ろした。
 それにしても、不自由なく会話が出来るのはなんとありがたいことなのか。
 こう見えてガイドのおっさんは数か国語を操る。それでこそガイドの職を得ているとも言えるが、いざ自分が異国の地に投げ出された時、そのたゆまぬ努力には素直に感服せざるを得ない。
 プラムだってそうだ。まだ年の端十歳にも満たないというのに、中国語、日本語をペラペラ操り、普段はバカにしていたムースだってシャンプーだってあのパンスト太郎ですら、みんな頭がいいんだな……なんて感心しちまうおれがいた。
 ばかデカい荷物の中から託った日本の土産を取り出し、それぞれに渡す。そしてゆっくり椅子に掛けることもなく立ち上がると、おれは日本を発つずっと前から頼んでいた ある現場へと案内してもらった。
 
 *

「ここが……」
「そう。あかねさんが溺れた、その名も茜溺泉ね」
 かつて、サフランの手下共にさらわれて中国までやってきたあかね。卑怯な手段で罠に掛かり、そこで出来たのがこの忌々しい茜溺泉だった。

 あれから約二年──、ガイドのおっさんから連絡が来たのは祝言騒動から一カ月も経たない頃だろうか。心なしか声が遅れてやってくる電話の向こうでは、相変わらず怪しい日本語でおっさんが困ったように切り出す。
「泉枯れる危機を救た代わりに何か礼を考えたあるが、男溺泉の水を送るのもう無理ね。以前、それを運んでる間に樽桶の水漏れて散々だたあるよ」
 それを聞いていよいよこれは自力で中国に行くしかないと覚悟を決めると同時に、ならばそれまで茜溺泉に誰も近付くことがないよう、厳重な管理を託した。無論、あかねはそのことを知らない。
 あかねだけではない。もしも茜溺泉なるものがあるなど余所に知れたら、はたしてどうなるか。
 もしかしたらそれを使ってシャンプーが巧妙な罠を仕掛けてくるかもしれない……って流石にそれはないか。それによく考えてみりゃ、あいつは既に猫溺泉で変身体質になっちまってるしな。そこにあかね要素が加わったら、あかねの頭に猫の耳が生えて、丸い尻の後ろにはゆらりと揺れる長い尻尾が……。
 …………止めよう。おれはおぞましい想像に一人首を振る。
 まあとにかく、人間に悪用されるのも勿論恐ろしいことだが、問題は人間だけではない。それこそ野生の猿が溺れたり、なんなら地面の虫が転げて泉で溺れたり。そこで命を落とさず這い上がってきたものは皆、水に濡れるとあかねの姿になっちまうという事実。そのあまりにも危険な泉をあのまま放置しておくなんて、おれにはどうしても出来なかった。
(あれ? でも待てよ?)
 ここにきて、おれは呪泉郷の基本とも言える素朴な疑問をぶつけてみる。
「なあ。この呪泉郷って、たとえば小さな虫が若い娘の泉に落ちた場合でも人間になっちまうのか?」
 だとしたら大問題だ。が、それに対するプラムたちの見識は少し異なる。
「それは私達にもわからないね。ただ、殆どの虫や小動物は一度溺れるとまず浮かんでは来られない。そのくらい呪泉郷の泉とても深い」
「へえ……。確かにおれが落ちた時も底に足が着く感じはしなかったな」
「それにいくら変身するとはいえ体の大きさ限界あるよ。たとえばカエルが鳥や犬に変身できても象やカバになるの無理あるね」
「なんで?」
「急激な大きさの変化に堪えられず、みな死んでしまう」
「なるほど」
 もともと人間に比べて生命力の弱い生き物だ。そういうこともあるのかもしれない。
 とはいえ人間が子豚のサイズまで変化できるのと同様、大きなウシガエル程度なら人間に変身することは可能なようで、また新たな疑問が湧いてくる。
「ちょっと待てよ? じゃあ仮に爬虫類や小動物が人間に変身しちまった場合、どんどん人口が増えちまうじゃねえか」
 そうだ。しかも戸籍も家族も持たない、ただ見た目だけが人間の姿をした空っぽの存在。しかし、その懸念に関してはプラムがきっぱりと否定する。
「お客さん、それは心配ないね。いくら人間に変身しても元が動物。動物には動物の寿命がある」
「あ……」
「人間としての知恵を持たない動物、人の体操るのとても大変よ。人間になても食べるもの変わらない。でもそれ捕まえること、極めて難しい」
 確かに言われてみたらその通りだ。
 今まで考えようとも思わなかった生き物の生態と習性。そんなものに切なさすら感じている中、淡々とプラムが続ける。
「そして寿命が来た時、その姿も元に戻るね。だから人の姿で死ぬことない」
「なるほど」
 こう考えるとなんて恐ろしい泉なのだとつくづく思う。が、プラム曰く男溺泉、娘溺泉共に泉の中央部にあり、そこに行き着くまでもなく他の泉に落ちる可能性が殆どだということ。ついでに言えば、野性的感が備わっている動物が泉に落ちることは非常に稀なことで、せいぜい溺れるのは泉を作る元凶になった元の主と、あとは愚かな人間くらいのものらしい。そこに落ちた愚か者の一角が、おれに親父にムースに良牙……って良牙は違うか。まあ、どちらにせよあいつの生まれ持った不幸の運命がそうさせたに違いない。

「お客さん、足元どくよろし」
 金網の格子の上からトタン、草や竹など何層にも重ねて偽装してある茜溺泉の前に立つ。
 なるほど、こうして見ると他の地面となんら変わったところはなく、たとえその上に立っても落ちて溺れることは無い。こうして二年もの間、この茜溺泉は存在を消していたのだろう。
 それでもこの先ずっとこの方法で誤魔化せるかといったら、決してそうではなかった。
 ここ呪泉郷には、数年に一度の記録的な雨期がやってくる。近年は呪泉郷が枯れる例の騒動でそういったこともなかったが、泉の状態が安定したと思ったら、今度は天空の水蒸気が再び重く雨水を蓄えているというのだ。
 もしもここで記録的な豪雨が降った場合、たちまち泉の水は交じり合う。幸いなことに茜溺泉は他の泉とは離れた場所にあるため前回の洪水では難を逃れたが、いつまでも楽観はしていられない。おれはその泉の前に印を付けると、この先誰が来てもその周囲には近寄らないよう、再度念を押した。
「それにしてもお客さん、本気か?」
「ああ、そのためにわざわざ用意してきたんだ。ここまできて今さらやめられるかよ」
「でも気をつけるよろし。万が一お客さんが茜溺泉に溺れるようなことあれば、たちまちあかねさんになてしまうよ。それだけじゃない。それ治すため、また一年間ここで待つことになる」
「でもって、次こそ元に戻れる保証はねえってか。大丈夫、そのために手は打ってきた」
 それに───万が一にも茜溺泉に落ちたとして、もしも先におれが完全な男に戻っていたとしたら体質が混ざり合ってしまう可能性がある。言うならば元の変身姿にタコが加わったパンスト太郎のように。
 男のおれと、女のあかねが混ざり合った姿……うげっ。わりーが、死んでも想像したくねえ。ならば百歩譲って女のおれとあかねが混ざり合うほうがまだマシと言えるだろう。
 結局、本来生まれ持った元の体質──たとえばおれだったら完全なる男だけの要素の泉に浸からない限り、元の体質に戻る術はねえってことだ。それだって元に戻すには最低でも一年以上の間隔を要するんだからとことん質がわりい。
「お客さん、くれぐれも気をつけるある。たとえ溺れなかたとしても、体に掛かった水の割合で一部あかねさんに変身してしまう可能性充分あるよ」
「ったく。つくづく厄介な泉だぜ」
 だからこそ、こんな危険な代物をいつまでも野放しにして置くわけにはいかなかった。仮に顔だけだろうと、声だけだろうと、髪の毛のみだってあかねの偽者などこの世には必要ない。
 おれはリュックの中から完全防水の保護服を取り出す。ゴム製の長手袋に足元は同じく防水の長靴を履き、その上から持参した白いそれを着た。更には顔全体を覆う透明のゴーグルをつけ、服の隙間から浸水しないよう、ラップを何重にも巻く。
 これでも完璧と言えるかといったらそうではないかもしれないが、あとは気を付けて作業をするより外ない。おれは用意してもらった一輪のリヤカー、バケツ、それに巨大なスコップを手に取ると、「よしっ、いっちょやるか!」と気合を入れた。
 
 *
 
 …………暑い。まだ三月だというのになんて暑さだ。
 体を密閉したも同然なおれの格好は、五分もすればじわりと汗が浮き、三十分もすれば中はサウナのように流れ落ちる汗でドロドロになる。毎度靴の中はびちょびちょと水分が溜まり、最初は茜溺泉の水が入り込んだと焦ったものだがなんのことはない、それはおれ自身の身体から噴き出た汗だった。

 作業を初めて一週間。未だ茜溺泉の水が枯れる様子はなかった。
 それもそのはず、ただ単純に水を抜けば解決するわけではない。流れ伝った水は必ずどこかに辿り着く。それは河川だったり海だったりはたまた土の中だったり。土ならばいい。が、川や海に流れた場合は最悪だ。
 幸か不幸か、この地形は周りを山で囲まれ、海まではかなりの距離がある。その反面、あちこちから雪解け水が流れてきてちょろちょろ流れる小川が多数あり、その数は計り知れなくて。もしもそこに茜溺泉の水が流れ込んだ場合、濃度が薄まったとはいえ、どの程度変身効果を残すのか……それがはっきりしない以上、迂闊なことは出来なかった。
 茜溺泉を完全に消滅させる以上、作業は完璧でなければならない。
 そして自分なりに色々調べた結果、おれは基本とも言える超古典式手段を選ぶことにした。
 とにかく周囲を掘りまくり、そこに少しずつ手で茜溺泉の水を運んで流し込む。それがしっかりと地面に沁み込むのを確認したらその上から石と土をかぶせ、完全に密封する。そうしてまた次の穴に水を流し込み、黙々と同じ作業を繰り返すのだ。
 とはいえ、当初はもっと甘く見積もっていた。それこそいくつか深い穴を掘り、そこへ直接水を引いて泉の水を分散させればいいと思ったのだ。が、調べれば調べるほど、水というのは厄介な存在だということがわかる。最初こそ人間が管理できる水流れも、ふとした弾みで簡単にその勢いを増すこと。一度そうなってしまうと堰き止めようがないこと。茜溺泉の深さがどの程度かわからないため、場合によっては規模は小さくとも新たな茜溺泉が複数出来てしまうかもしれない懸念があること。この土地の表面を覆う土壌は脆く、容易に崩れてしまうこと……調べるほど見えてくる事の深刻さに、おれは正直頭が痛くなった。かといって、このまま指を咥えて見ているわけにはいかない。無論、もっと金と技術が揃うなら違う方法もあるのだろう。しかし、それががないなら、己の肉体を使うまで。いわば、これは中国で行う最初のトレーニングってわけだ。
 来る日も来る日も周囲に穴を掘っては、何十キロ、何百キロという水を運ぶ。持参した手袋はすぐにダメになり、それから何度も買い直した。正確にはガイドのおっちゃんが町で仕入れたものをそっくりそのまま買い取らせてもらったわけだが、まあとにかく根気のいる作業には違いない。
 多分、一日におれが摂取している水の量も相当なものだろう。あまり水を飲み過ぎると水貧血になるから気を付けろとも言われたが、そんなことを言っていられない程に汗をかく。こんな時こそ、あかねの殺人的な塩分の握り飯でもあったら助かるのにな。懐かしい恐怖を思い出しながら、袋から直接指に取った塩を舐める。その指先だって、地面を掘り進める際の石と土で真っ茶色に皮膚が変色していた。

 二週間。まだ水が完全にはなくならない。というより、水を捨てる場所がないのだ。近くは散々掘り尽くしたため、必然的に茜溺泉からどんどん離れたところに穴を掘るより外ならない。
 同じ場所を掘り返して水を流すことは出来るだけ避けたかった。なんせ、一度溺れただけであの呪いの効果だ。もしも茜溺泉の濃度が強まった土の中で新たな動植物が育った場合、突然変異で新しい生命体の誕生なんてことも考えられる。とにかく、万に一つもその可能性を残さないこと。それが重要だった。
 地面は掘れば掘るほど地層が重く、硬くなる。が、掘るだけなら幾らでも出来た。問題はその後で、取り出した地面の土を一旦リヤカーから降ろし、そこに縁までなみなみと水の入ったバケツを幾つも乗せてては、そろそろと押して運ぶのが地味にきつい。
 なんせ中身は厄介な呪いを秘めたもので、普通の水を運ぶのとは訳が違う。慎重に取り扱いながら、一方で刻々と迫るタイムリミット。正直、足も腰もパンパンで、腕の感覚なんてとっくになかった。
 それでも雨期が来る前に。その思いだけがおれを突き動かす。

 一度、ふらついた拍子に思いきりバケツの水を被ることがあった。一瞬ひやりとしたものの、頭から防災服を着込んでいたおれにあかねの変身効果が表れることは無かった。それにホッとするのはもちろん、でも頭の片隅でちょっとだけ残念に思う自分もいて正直びびる。
(なに考えてるんだ、バカっ)
 あかねと離れて二週間。そう、まだ二週間とちょっとだ。
 国内にいた時だって、修行で二週間やそこら家を空けることなんてしょっちゅうだったし、ハーブ戦の時に関しては月単位で家を留守にした。それでも平気でいられたのは、戻ろうと思えばすぐに戻れるという確信があったから。
 だけど今はまだ先の見えないゴールの真っただ中にいる。だからこそあかねのことなんか考えている場合ではないし、余計なことを思う暇があったら目の前のやるべきことをさっさと終わらせて早く男に戻れと思う。思うんだけど……。
 
 なあ、知ってるか? あかね。
 おれ、今あかねのためにこんな思いしてんだぞ。
 こんな汗まみれになって、こんな泥だらけになって、飯だって日本にいた時の倍食ってんのに、それでも体は一回り締まった気がする。
 どこまで深さがあるかもわからない泉を、ただ一人バケツに汲んでは排水するその行為。それは小さなスプーンで水をすくって風呂釜一杯に満たすような、気の遠くなる作業だった
 それもこれも、第二のあかねを生み出さないように。
 おまえ、考えたことなんかないだろ。もしも自分がこの世に何人もいたらって。
 それがたとえ水を被った時だけだったとしても、そんなことは関係ない。
 おれ、この世に偽者のあかねが出来ちまうかもしれないって想像しただけで許せねーんだよ。
 幸い、キーマの野郎はサフランによる特殊能力が功を奏し、あかねの変身効果を自ら放棄した。だが、目的のためなら手段を選ばないあいつらが、また泉を使って悪さをしない保証はどこにもない。保証がないからこそ、おれがこの手で手段を潰すしかない。
 かっこわりーよな。
 こんな間抜けな姿で、こんなヘロヘロになって。
 だけど泉の水位が深くなるにつれ、おれの記憶の中のあかねが励ましてくれてるような気がするんだ。
(あかね…………)

 
 泉を埋め始めて三週間。頭上には辺り一面厚い雲が覆い、いつ雨が降り出してもおかしくない。
 ここで大量の雨が降ったらまた作業は止まる。いや、止まるどころか何歩も後退してしまう。まさに時間との闘い──そんな焦りをひしひしと感じていた中、ついに泉の底に到達した。
 いつものように掘り進んだ先にスコップを突き立てる。思えばこの穴だっておれの身長の何倍もあって、よくもまあここまで素手と鉄製のスコップの実で掘り進めたものだと我ながら感心した。もはや、ただの枯れ井戸のように空洞化した縦長の穴。その中に何本も差し込んだ杭を足場代わりにして降り、水に浸からないように作業を進めるその工程は思った以上に困難を極めた。それでも途中で投げ出さなかったのは、限りなくキザな言い方だが愛の力のほかないだろう。
 とにかくやった。後は最後一杯となった水を捨て、この忌々しい泉の穴を完全に埋めるだけだ。いつもはロープで滑車のように吊り上げる水も、なんとなく最後は手に持ったまま、地上まで上って戻る。そして深い穴から這い上がったおれは茜溺泉の水が入ったバケツを前に……あろうことか、躊躇っていた。
 本当にこれで最後だ。
 この水を捨てたらもう、茜溺泉の存在はこの世から消滅する。
 それは自分が最も望んでいたことであり、今もそう願っている。
 だけど…………。
 
 ──もしもこの水を、他の動物に掛けたなら。
 
 鳥でもいい。ネズミでも、なんならウシガエルでもいい。
 もしもこの水を掛けたら、その存在はたちまちあかねになる。しかも中身はネズミやカエルのまま、無駄なことを言わない、おれだけのあかね。
 ……なにもずっとあかねの姿をさせているわけじゃない。ほんの少し。本当にもうダメだと限界が訪れた時だけ、こっそり水を被せてあかねの姿に変えるくらいなら──。
 無論、それ以外はしっかりとカゴなり飼育ケースの中なりで隔離すればいい。実際にはあり得ない。してはならないことだとわかっていた。それでもどこか躊躇うおれがいて。
 何もあかねの姿をしたそいつに手を出そうっていうわけじゃない。ただ、触れられる距離でおれに向かって微笑みかけてくれたら。もしかしたら上手いこと言葉なんか喋れるようになって、そこで「乱馬」っておれの名前を呼んでくれたら。
 そこまで考え、己の卑怯な欲望に頭をガツンと拳で殴る。
(なに考えてんだよ、バカ野郎!)
 こんな水、とっとと捨てるに限る。
 わかってる。
 わかっているのに、どうにも体が動こうとしない。
 …………何も今すぐに決断しなくてもいいだろう? なんならペットボトルに移し替えて持ち歩くだけでもお守り代わりになるんじゃねーか?
 つい今しがた追いやったはずの邪な考えが再び頭に浮かぶ──と、その時だった。まさにおれを試すように、一匹のカエルがそこへやってくる。おそらく水を求めているのだろう。バケツの中できらきらと光を放つ水目掛けて躊躇わずにこちらへジャンプし、そこで────
 
 バシャッ!!
 
 おれはカエルがバケツに飛び込む寸前それを手に取り、辺り一面に中身をぶちまけた。幸い、ここ三週間は一滴も雨が降っていない。カラカラに渇いたベージュの土は見る見るうちに水を吸い込み、三十秒もしないうちに小さな水溜りすら消えてなくなる。
 重たそうな腹でぴょこんと跳ねるカエルは残念そうにこちらを眺め、やがて見えなくなった。
 (…………これで良かったんだ)
 水一滴も残っていない空のバケツをカランと投げ捨て、ホッと膝をつく。
 それから暑苦しい防水服とゴーグルを脱ぎ捨て、誰も見ていないのをいいことに上半身裸になって穴を埋める作業に掛かった。
 十数メートルはあろうかという、深い深い穴。
 その穴を全て石や木、土で埋め立て、地面を均す。全ての作業が終わったのはとっぷり日も暮れかけた頃で、日本を発ってから三週間と三日が過ぎた日のことだった。
 
 
 *
 
「……あんた、そんなことしてたんだ」
「まーな」
 詳しい経緯は省いたものの、茜溺泉がこの世から無くなったこと。それだけはあかねにも知らせておいたほうがいいかと思い、簡単に説明した。
 あかねときたら別段喜ぶでも感動するでもなく、「ふーん、そういえばそんなこともあったわね」と危機感たるものが全くない。おれはその発言を受け、少しだけガックリきた。
「おめーなぁ、自分のことなんだからもうちょっと真剣に考えろよ」
「だってしょうがないじゃない。あの時は必死に逃げてて、そこで溺れた泉がまさか茜溺泉になってるなんて思いもしなかったんだもの」
「あ……」
 そっか。言われてみりゃあ、こいつはキーマがあかねに化けた状態でおれに抱きついてきたことなんて知らねーんだ。しかも風呂場で、お互い真っ裸で。
「あの時あたしが溺れた泉がそのまま茜溺泉になっちゃうなんて、やっぱり危険な場所ね」
「……まあな」
 もしかして余計なこと言っちまったかな。でももしかしたらムースや良牙からあの時のことを聞いてたかもしんねーし。いや、けどやっぱり……。
 多分、相当間抜けな顔をしていたのだろう。おれを見てあかねが笑い、変な顔と茶化してくる。なんだよ。なんかおれ一人で熱くなっちまってバカみてーじゃねえか。
「あのなー。普通はもうちっとしおらしー態度するんじゃねーか?」
「しおらしいって?」
「だから、たとえば“きゃー、嬉しい! あたしのためにありがとう”とか」
「だって別に頼んでないもの」
「なんだとっ!?」
 あーあ、わかっちゃいたけどかわいくねえっ。あんな苦労したのに。ちょっと見せらんねえくれえ、滑稽な格好して頑張ったっつーのによっ。そりゃ確かに頼まれてはいねーが、それでも普通はもうちょっとかわいくお礼の台詞を口にしても罰は当たらないんじゃないだろうか。
 なのにこいつときたら礼を言うどころか、「知らない」だの「頼んでない」だの散々な言い分である。
「せっかく中国に着いたんだからさっさと男に戻ればよかったのに」
「っ、あのなー、一体誰のためにあんな苦労したと思って……!」
 思わず声を荒げた時だった。
 ぎゅっと。胸にしがみつく感触は柔らかなあかねの肌で。
「……バカっ。もしもそんな無茶して男に戻れなくなったらどうするつもりだったのよ」
「あかね?」
 ゴスンとおれの胸に打ち付けた額で再び頭突きし、今度はぐりぐりとそこを押す。
「だって言ってたじゃない。二度、三度と変身を重ねた体は元に戻らないリスクが高くなるって」
 その声はもう、さっきみたいにふざけてはいなかった。
「あたしの泉なんかを埋めるより自分の体のほうが大事でしょ? なのになに無茶してんのよ!」
「あかね」
「それでもしも乱馬が完全な男に戻れないなんてなったら……っ、あたし……」
「あ……、」
 …………忘れてた。
 そうだよ。こいつ、変なとこで自分のことよりおれのことを優先しちまうんだ。
 貧力虚脱灸を据えられた時だってサフラン戦の時だって、いつも後先考えずに首を突っ込んできやがって。そんなあかねが、自分のためにおれが茜溺泉に溺れるリスクも顧みずそれを埋めたと聞いて、素直に喜ぶはずがなかった。
「なあ」
「……」
「んな怒んなよ。おれ、水被ってもあかねに変身なんかしねーだろ?」
「……してたら今頃こんなことしてないわよ」
「そっか。もしもおれがあかねに変身しちまったら、あかねとあかねで」
「バカっ! そういうことを言ってるんじゃないっ!」
 間髪入れず肘鉄を食らう。相変わらずの俊敏さに、格闘家としての片鱗を垣間見る瞬間だ。にしても裸で肘入れんのはやめろ。本気でかなり痛い。
「お、おめーなぁ、もうちょっと加減しろよっ」
「あんたが妙なこと言うから悪いんでしょうが!」
 あーあ。ついさっきまでいい雰囲気だったのにな。ちょっと喋り出したらすぐこれだ。
 まあ、それがあかねらしいっちゃあかねらしーんだけど。でもさ、もうちょっとこう、ご褒美的な一言があってもいいんじゃねーか?
 ブツブツと腑に落ちない思いを口の中で唱えながら、あかねのご機嫌を取ろうとした時だった。
 再び背中に腕を回され、あかねが自身の胸をおれに押し付けてくる。っつーか、乳房が直接素肌にあたってすげえ気持ちいい。
「…………ありがと」
「あかね?」
「あたしのこと。偽者が出来ないよう、ちゃんと茜溺泉を埋めてくれて……ありがとう」
「……おう」
「けどこれからはもう絶対そんな無茶しないでよね」
「おめーこそ。今度は連れ去られて溺れたりすんなよな」
「そんな間抜けじゃないもの」
「へっ。どーだかな」
 鼻先をくっつけるようにじっと見つめ合い、そして笑った口のままキスを交わす。
「ね、それより他には何があったの?」
「他? 他にも色々あったなー。あ、そうそう、そういえば……」
 
 これはほんの序の口。いや、正確にはやっとスタートラインに立っただけで。
 ここから先が本当の修行の幕開けであることに、この時のおれはまだ気付いていなかった。
 
 


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comment (12) @ 中国修行編 Survivor

   
かわいくない許婚(乱あの日)  | Survivor 02.出立 

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2018/05/25 Fri 02:55:27
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2018/05/25 Fri 07:53:13
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2018/05/25 Fri 12:58:07
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2018/05/25 Fri 13:19:09
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2018/05/25 Fri 15:32:56
Re: 愛だぜ、愛。 : koh @-
k~コメント主様

「愛だぜ、愛」懐かしい!!その後のJphoneのCMとかねぇ、ああいう和の顔と耳の形が好きなんです…!
永瀬正敏さん、短い髪の毛ツンツン立たせてかわいかったなぁ。
話を戻して、茜溺泉に関してはずーっとずーっと前からしつこく書きたいと言ってたんです。というか、どなたかが茜溺泉を消し去ってくれないかな、と。でも残念ながら(私があまり知らないということもありますが)茜溺泉ってそれほど問題としては残っていないようで、ならば私が消してやる!とこのお話に至りました。
きっとYすけさんあたりは「あ、こいついよいよ書きやがったな」と思っているのではないでしょうか笑。
でも、この世でたった一つしかない茜溺泉の水。それをすんなり捨てれるかといったら、男一人の旅で躊躇したと思うんです。でもやっぱり……ね。
こうして自分から一つずつ甘えを失くしていくことによって、成長していくんじゃないかなぁと。
どんなにフィクションでも、「後は想像にお任せします」ではなく、なぜ、どのようにしてそうなったかを考えるのが私は好きみたいで。こうしてパズルをカチカチ組み合わせて少しずつ経験値輪毛ていく感じがゲーム好きだった自分には合っているような気がします^^。
2018/05/25 Fri 23:18:05 URL
Re: No title : koh @-
ト~コメント主様

わああ~💦、コ、コメント主様、これ落ちてましたよ。←そっと眼球を渡すw
茜溺泉…意外と気にされている方少ないですよね。私は【男・こたつ・つれない・許婚】を書いていた頃くらい(だから2016年11月ですね)にふとこの疑問が湧いてきて、それからずっと沸々してたんです。それこそ、他の文字書きさんにしつこく相談するくらい笑。
でも誰もこんな恋愛抜きのお話は興味ないだろうなぁと思って諦めていたのですが、とうとう書いてしまいました(*^^*)。あー、満足です!
とにかくこちらのシリーズはなかなか乱あが直接絡むことは無いのですが、それでもこうして回想シーンを巡ってあかねちゃんが出てきたり、乱馬の心の中には必ずあかねちゃんがいたりして、私的には充分「乱あ」だったりします。
時々甘さも挟みつつ、またのんびり勧めていきたいと思いますのでゆっくりお付き合いください^^。
2018/05/25 Fri 23:18:23 URL
Re: 楽しかったです(*^▽^*) : koh @-
m~コメント主様

そうそう、娘溺泉と茜溺泉の違いですよね!これ、私もすごく気になっていて、自分なりに仮説を立てていたのですが、流石に説明的過ぎるのと自分の考えの押し付けになってしまうかな?ということで伏せていました。……が、いただいたコメントを拝見して思わず拍手に追記しちゃいました笑。(詳しくは拍手にGo)
こうして疑問をぶつけあえるのってとっても楽しいです♡そしてなんとなく…で終われない自分の性格よ汗。
私はネタかぶりを防ぐためにあまり他作品を積極的に読まないため、この茜溺泉に関しては殆ど目にしたことがなくて……。ただ、ここまで目にしないってことは皆さんあまり気にされていないのかな、という印象ではありました。でもやっぱり自分的には茜溺泉があのままだなんて絶対嫌だったんです(>_<)。
実はマンションの理事会で親しくなった方の中に水の取り扱いを専門とされている人がおり、話を聞くほどに水って難しいんだなぁと痛感。たとえば雨水がもたらすコンクリートへの腐食とか凹みとか、身近なことでもこんなに厄介なのにそれが泉となったらとてつもなく大変だろうなぁと。そして結局、地道に手を動かすしかないという結論に(私の中で勝手に)至りました^^。
あかねの出番は少なめですが、離れていても乱馬の心の中にはあかねがいて、それが今後の乱馬の道を切り開いていく原動力になる……そんないつもとはまた違う乱あを感じていただけたら嬉しいです♡
2018/05/25 Fri 23:18:50 URL
Re: タイトルなし : koh @-
あ~コメント主様

わーい、新シリーズもお付き合いいただきありがとうございます///
そして義理のお姉さまが!仲良しだということで微笑ましいです^^。
それにしても皆さん、エネルギッシュで溌剌としていますよね。もしかしたらたまたま私の周りにいる中国の方がそうなのかもしれませんが、それにしたって皆さん元気で勤勉で、話しているといつもパワーをいただける存在です。
そして茜溺泉、自分なりに解決法を書けてホッとしました~!
これを思いついた時から「茜溺泉のことを書かないうちは二次をやめられない!」と思っていたので。そして茜溺泉問題をクリアした今、今度は書きたいネタが山のように出てきてしまっているのでまだ当分やめられそうにありません笑。
もしもここにあかねちゃんがいたら乱馬は「おめーがなんとかしろよ」なんて意地悪いことを言う気もするのですが、あかねちゃんがいないところでは自分の体質改善より先に手をつけるんじゃないかな、と。
で、意外とあかねちゃんはあっさりしていてそんなに喜んでくれなかったり笑。
次からはようやく異国での修行(?)という感じになってくるので、クオリティはともかく一緒にお付き合いいただけると嬉しいです。
2018/05/25 Fri 23:19:10 URL
Re: 乱馬かっこいい : koh @-
青~コメント主様

おおっ、コメント主様は茜溺泉気になる派でしたか!
確かにオカルト板でもありそうな話ですよね。ただ、私はあまりらんまの世界観の中に死者を出したくないので、あくまで溺れた者の呪い(怖かった思い)として考えちゃいました^^。
そしてコメント主様の仰る通り、キーマは自分の得にならないことをわざわざするとは思えないし、ガイドのおじさん達もそこまで……とは思わないんですよね。もちろん、呪泉郷が枯れる阻止をした礼に頼まれれば泉を隠すくらいはしてくれるでしょうが、その先は知らないよ、と。そういう点も、良くも悪くも国民性なのかな、なんて思います。
それにしても原作を読み返した時、良牙やあかねちゃんはガッツリ意識を失うくらいに深くまで沈んでいたので「これは埋めるのが相当大変だぞ」と感じたりして。
けれど他の人の手を使って泉の処理をするとなったら、更に心配のタネは増えるはず。結果、乱馬は一人で作業に取り掛かるんじゃないかと踏みました。
ここら辺を一行で「泉を処理して潰した」としてもいいのですが、やっぱりそこに至るまでの苦労と気持ちは綴っておきたかったのです。なので、この乱馬に惚れたと言っていただき嬉しい…!
あと私もあかねちゃんに変身するならせめてネズミかウサギ…などとも思ったのですが、自発的に水に飛び込もうとなると野生の動物としてはあり得ないと断念し、カエルになりました笑。←真面目か
2018/05/25 Fri 23:19:31 URL
一気!一気!! :  憂すけ  @-
ゴメン、やっぱ止めらんなかったよ。一気にここ迄読んでしましました・・・!!
この回。中国で、ガイドの親子に会った時のあたしの安堵感ったら半端なかったです。(^^;)
パスポートを取った上で尚泳いでいくんじゃないかと心配していたあかねちん。飛行機で行くって言っても隠れて荷物と一緒に行くんじゃないかと心配してたあかねちん。そんな彼女の為に乱馬が渡中して真っ先にした事が「これ」。泣くかと思った、あたし。呪いの泉を一本枯らす事の大変さ。可笑しくなりそうな極限さ。拝読していてひしひしと感じますが、きっとこの先もっと過酷な状況が続くのでしょうか。「頑張れ乱馬」終わってしまった過去への回想ですが、強く想わずにはいられません。ドキドキしながらお待ちして居ります。m(__)m
2018/05/28 Mon 13:11:36 URL
Re: 一気!一気!! : koh @-
憂すけさん

ありがとうございます。
私、このシリーズを妄想していると止まらなくなるくらい自分の趣味全開でして^^。
既に次のブロックまでは続きがあるのですが、多分憂すけさんは好き……だと思う。信じてる。←
それにしても呪泉郷って美味しいネタですよね。色んな説が浮かんで来て、それだけ沢山のお話も広がって。
その中でも茜溺泉だけは絶対に外すことが出来ない自分なりの妄想だったので、そこを書き終えてホッとしています。さあ、これでいよいよ趣味に突っ走れる……。
中国着いて即、というのが自分の中にあったイメージなのです。そしてそこには他人の手を借りない(借りられない)乱馬の姿が頭に映像として浮かんでいて。
「バカね」なんて言いながら、きっとあかねちゃんも乱馬の気持ちは痛いほど感じているのではないでしょうか。基本はハード、時々甘めでのんびりいきたいと思います^^。
2018/06/11 Mon 15:43:51 URL

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