Survivor 06.襲撃 

2018/06/17
こちらで注意喚起しているR描写を含みます。
また特定の地域や生活スタイルを侮辱するような表現がありますが、差別の意図は一切ありません。
拍手には作中の翻訳と時代背景の補足を置いてあります。



「な……っ、ヨ、宥安(ヨウアン)!?」
 必死に絞り出した声はどこか掠れていた。
 よもや、寝ているとばかり思っていたのだろう。おれの声に驚いた宥安は少しだけ体を浮かせ、それでも再びおれの上に圧し掛かってきた。今度こそ、逃がさないというように膝の上をがっちり組み敷いて。
「やめろ……っ! な、なにしてやがる……っ!」
 ぶんぶんと必死で首を横に振る。そのおれの頭をぐっと掴んでなにやら早口で捲し立てるが、何を言ってるかはさっぱりだ。
 それでも一つだけわかった台詞がある。
 中国語に混じり、短く言い放たれた言葉。
「あきらめろ」
 それは今までの宥安からは考えられない、冷たく威嚇するような響きだった。
 ゆっくりと宥安の影がおれの顔に落ちてくる。まるでおれが怯える表情を楽しむように、ゆっくりと。その唇は舌なめずりをしそうなほど、弧を描いて笑っていた。
 宥安の鼻息がおれの頬にかかる。
 唇を隠そうと引き結んでもみたが、鼻を塞がれ呆気なく解放した。
 そこへ躊躇いなく近付いてくる宥安の唇────
「離せ……っ! こんなっ、女同士で……っ!」
 情けないことにパニックで他の言葉が出てこない。ただ、懸命に訴え掛けるおれの表情はそれなりに唆られたのだろう。あと数ミリで唇の表面が触れ合う位置にいる宥安が上体を起こし、それもそうかと呟いた。
「女同士では不満か?」
「あったりめーだろ!? なに考えてんだ、てめーっ!!」
「ならば────」
 突然、頭上から降ってきたのは…………湯?
 そしておれに圧し掛かる影が一回り大きくなる。
「男の姿ならどうだ?」
 その声は先程までの女のものではなかった。
 厭らしさを存分に秘めた声音は、低いバスでおれの鼓膜を震わせる。
 ぶよりと重みを増す体。濡れた肌に服が張り付き、舌なめずりするような声が纏わりつく。
 が、ひとつだけ相手に誤算があったとすれば、それはおれの変身体質に違いない。
 久々に感じる自分本来の大きさ。皮膚の下で指先までむくむくと引き伸ばされる感触に懐かしさを覚えながら、にやりと口の端を上げてみせた。
「奇遇だなぁ。実はおれも男だったんだよ」
 宥安の影になったおれの変化に、一瞬意味がわからなかったのだろう。無防備になった一瞬の隙をつき、宥安の体を力いっぱい跳ね退ける。
「貴様……っ! もしや、娘溺泉に……!?」
「だったらなんだってんでい!」
 一拍の間。
 すると突然、宥安が野太い笑い声を轟かせた。
「なるほど、どうりで貴様には恥じらいがないはずだ」
「なんだと!?」
「いくら女同士とはいえ、普通ならば湯浴みの時に胸の一つも隠すだろう。おかげで貴様の裸も堪能させてもらったぞ」
「気食わりーことぬかすんじゃねえっ!」
「…………可哀想にな」
「あ!?」
「おれの嫁になれば一生この村で平穏に暮らしていけたものを」
「へっ。まっぴらごめんだぜ!」
 大体、おれの嫁はもう決まってるんだ。
 が、それをわざわざこいつに知らせてやるほどおれは親切じゃない。
「秘密を知った以上、生きて帰すわけにはいかぬ……覚悟しろ!」
 蝋燭の灯りが照らす土壁に大きな影が映しだされる。
 おれよりも幾分横に広い、男の影だった。
 今にも涎を垂らさんばかりに口を開け、後ろで一つに括った髪が妖怪のように揺らめいている。
 そこにはもう、夕方までの優し気な宥安の面影はどこにもない。
 暗闇の中、ゴトンと重たい何かを持ち上げる音がした。
 ────おかしい。
 臨戦態勢を取っているはずの視界がぐにゃりと歪む。それどころか、自分の呂律すらも怪しく感じるのは気のせいか。横になった姿勢から一気に立ち上がったせいで頭がぐわんぐわんと鐘のように響いている。トランポリンの上を歩いているように足元はおぼつかなく、例えるなら軽い船酔いのような感覚だ。
 左右に頭を振ってみせる。相手との距離感がつかめないのは、室内を照らすのが蝋燭の灯りのみという点を除いても普通ではなかった。
(まさか、夕食後の茶になにか……!?)
 そうとしか考えられなかった。しかし、今それを言ったところでどうにもなるまい。
 おれはびりびりと痺れる両足でなんとか構えのポーズを取り、奴の一挙一動に目を凝らす。
 ──…………来るっ!
 次の瞬間、頬のすぐ横で激しい打撃音がした。見れば家の壁には大きな穴が開き、ひゅうひゅうと夜風を通している。
「去死ロ巴!!」
 これを殺意と呼ぶのだろう。
 言葉の意味などわからなくても、剥き出しになった敵意で全身が逆立つ。
 びゅうっと風を切って飛んできたのは大人の腕ほどもあるこん棒で、それを寸でのところで避けるとおれは地面の砂を拳一杯握りしめた。
「该死!」
「るせえっ! 言いてえことがあんなら日本語で言いやがれっ!」
 闇雲に丸太を振り回す宥安の目めがけて砂を撒く。途端に獣のような雄たけびが室内に響いた。両目を押さえてのたうち回る横をすり抜け、飛び出した家の外は漆黒の闇に包まれている。
 きっと文明が発達していない時代の夜は、こんな姿だったのだろう。月明かり以外に何一つ照らすものがない中、おれは転がるように辺りを駆け抜けた──つもりだった。
 足が重い。
 踏み出す一歩は深い沼の中を歩いているようだった。がくりと膝から崩れ落ちそうになりながら、懸命に足を動かす。何度も無様に転んだ。けれど痛みは全く感じなかった。あちこちが痺れ、感覚が麻痺していたからだ。
 後ろからは怒り狂った叫び声が聞こえてくる。数少ない近隣の住居はみな灯りを消し、辺りは残酷なまでの暗闇だ。その分、音や気配がダイレクトに五感を刺激する。
 それにしても、こうも暗いとどこに何があるかもわからない。これは地の利がないおれにとって圧倒的に不利だった。おまけに身体はどこもかしこも痺れていて、いつものように跳んだり走ったりすることも儘ならない。
(どこか……っ! どこか、隠れられる場所……!)
 日が昇る朝まで──いや、せめて数時間でも身を隠せたら、それだけでもだいぶ違うだろう。
 おれはあちこちにぶつけた鈍痛を意識の向こうで感じながら、撹乱するようひたすらに辺りを駆ける。
 後ろから追ってくる獰猛な声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
 それでもわかる。全身にねっとりと纏わりつく憎悪は気のせいなんかじゃないはずだ。
 おそらくどこかで体力温存を図り、おれがみすみす出てくるのを待ち構えているのだろう。だけどそうはいくもんか。──が、その気持ちとは裏腹に、見渡す限り田畑しかない平地が続く。月明かりに浮かぶおれのシルエットなど、闇に慣れた目ならばいとも容易く見つけられてしまうに違いない。
(考えろ……っ! どこか、あいつの盲点となる隠れ場所を……!)
 地面に転がっている大きめの石を掴み、出来るだけ遠く離れた場所に投げ込む。ガサリと草の根を分けるような響き。その物音に紛れて身を隠したのは、なんと宥安の裏庭にある水汲み用のタンクの陰だった。
 灯台下暗しとはこのこと、まさかこんな所におれが潜んでいるとは気付くまい。
 それにこの家の中には、まだおれの荷物一式が丸ごと置いてある。どのみちそれを取り返さねばならないおれは、このタンクを盾にじっと息を押し殺した。
 ドクドクと暴れ回る心臓の音がうるさい。この暗闇の中、もしかしたら宥安の元にまでこの爆音が聞こえてしまうのではないか。そんな不安に駆られながら、チャイナ服の上からぎゅっと左胸を押さえる。
 それにしても────
 以前、聞いたことがある。人の頭目掛けて鈍器をフルスイング出来るのは、本物の殺意を持っている証拠だと。
 そしてそれは、ごく限られた人間にしか備わっていない。
 つまり、今度宥安に会った時。あいつは本気でおれを仕留めにくる。
 それは格闘の喜びとはまるで違う、理不尽で一方的な殺意に他ならなかった。
 にもかかわらず、あろうことかおれの頭は未だ不快な膜に覆われている。そしてもっと最悪なことに、瞬きするたび襲ってくるのは、引きずり込まれるような得体の知れない眠気だった。
 寝るな。
 寝たら死ぬ。
 こんなに極限状態に追い込まれても人間は睡魔に勝てないものなのか。他人事みたいにぼやけた思考で、閉じた目を開く瞬間は目の前に宥安の姿がないことを念じる。研ぎ澄ますべき神経は、いくら鞭をくれても働かなかった。
 早く朝になれ。
 朝になりさえすれば事態は変わる。その変化がどちらに好機となって傾くのかはわからない。が、それでも信じるしかなかった。
 顔に虫が止まる。ポリタンクの周囲には大きな蛾が薄いリボンのように飛び回り、こちらがその存在に気付いた途端に全てがおれに向かって飛んでくるような気がした。
 飛び散る鱗粉が嫌がらせのように汗ではりつく。
 一度痒いと自覚すれば全身が言いようのないむず痒さに襲われ、歯を食いしばって耐えた。
 こんな所で物音を立てるわけにはいかない。全てはその一心である。
 夜空はまだ明ける気配すらない、残酷な暗闇だった。
 本来ならば眠りにつく静かな夜に、薬を盛られたおれの体と気力の限界は刻々と近付いている。
 この危機を脱するにはどうすべきか───
 考えろ、考えろと自分に命じているうち、そういえばまだ付き合う前のあかねの部屋で一晩明かした時は己の顔をバチバチ叩きながら耐え忍んだっけなんて間抜けなことを思い出してしまうのだから、危機感を保てる正気にはまだ程遠いのかもしれない。
 振り払おうとしても再び襲い来る睡魔。しかし、ここで頬を殴って音を出すわけにはいかなかった。
(…………そうだ!)
 おれはポケットにそっと手を突っ込み、鋭い塊を掴む。
 それはここに来る直前、河原で仕入れたナイフ代わりの黒曜石だった。
 柔らかな肉に食い込むのも構わず手の中でぎゅっと握る。細く針のように伝わる痛みが意識を呼び戻すようで、何度も何度も手に突き刺した。
 その刺激に慣れてくると、今度は肉と爪の間に鋭利な刃先を食い込ませる。最も敏感だと言われる末端の痛みは筆舌に尽くし難い。それでも生きるため、ひたすらに自分の体を痛めつけた。
 やがて爪の縁から赤黒い液体がぷくりと膨らみ、四角い爪の形に添って浮かんでくる。それをじゅっと唇で吸い上げ、また隣の指に刃を刺す。
 咥内に広がるのは鉄くさい血の味だった。それが皮肉にも渇いた己の喉をささやかに潤わせる。
 唾液という唾液が口の中で分泌され、それをもごもごと溜めて惜しむように飲んだ。
 星が動く────
 いや、星が動いたわけじゃない。おれの視界が突如遮られただけだった。
 朦朧とした意識で空を見上げたおれの目に、鬼の形相をした宥安の姿が映しだされる。
「我日你!」
「だから日本語で言えっつーんだよっ!」
 頭のすぐ上で何かが割れて飛び散った。それはどうやら木の棒らしい。積み重ねられたポリタンクが鈍い音を立てて崩れ、辺りに散乱する。中には溜めた水がぶちまけられているものもあったが、幸いにもそれを被ることはなかった。
「乱馬ぁ! 准备!」
「気安く人の名前を呼ぶんじゃねえっ!」
 先が木っ端みじんになった棒きれを振り回しながら、尚も飛びかかってくる。理性なんかない。おれを苦しませた眠気すら吹き飛ばし、我武者羅に武器を叩きつける宥安は常軌を逸していた。その動きはお世辞にもスマートとは言い難く、格闘ですらない。
 無駄に振り上げた脇の下を通り、奴の背後に回る。そのまま逃げることは叶わなかった。
 すぐさまこちらを向く奴の懐に飛び込み、渾身の拳を打ち込む。
「ぐあああああ…………っ!!!!」
「どうだっ!?」
 しかし、予想に反してダメージは少なかった。横っ腹を押さえたままよたよたと二、三歩後ずさり、それでも目の中の殺意は消えていない。
「おれの突きを受けて立ってられるなんざ、やるじゃねーか」
 へっと強がってみせる。が、決して楽観は出来なかった。
 まだだ。完全に力が戻るにはまだ程遠い。
 こんな時こそ己の飛竜昇天破を打ち込めれば一撃なのだが、あいにくパワーもなければ螺旋ステップを踏めるような余裕もない。せいぜいふらつく足元を誤魔化すのが関の山だ。
(さてどうする……!?)
 そうこうしているうち、腹の痛みをやり過ごした宥安が先程よりも更に憎悪を増して正面から突っ込んできた。
 暗闇からにゅっと突き出た腕がおれを捕える。
 再び壁際に押し付けられ、痺れた肩に電気が走った。
 おれの顔面めがけて腕ほどもある黒い塊が躊躇いなく振り下ろされる。
「く……っ!」
 寸でのところでそれをかわす。自分の耳のすぐ後ろでドゴッと鈍い音が響いた。おそらく脆い土壁に木の棒が突き立っているのだろう。だがそれを確かめる猶予などない。
 闇雲に殴りつける拳が雨あられのように降ってくる。それを両手両肘でガードしつつ足払い──が、的確にくるぶしの上を捕えたおれの体は逆にバランスを崩して背中から転げていた。
 みしりと、全身が家の壁に叩きつけられる。このまま家屋ごと倒壊してしまうのではないかというくらい、遠慮のない衝撃。顔のすぐ横にはついさっきの名残が突き刺さっており、直感的に身を翻したと同時にメキメキとそれを引き抜く音がした。
 ぶおんと風を切る音が聞こえる。
 紙一重で避ける。
 裂けた木片や土。乾いた破片が顔にぶつかり、口の中まで入ってきた。
 そこに間髪入れず剥き出しの憎悪が襲ってくる。
 なんせ後ろは壁で逃げ場がない。おまけにバランスを崩して片膝をついている状態では、まるで自ら的になることを申し出たような無様さだ。反撃しようにもその糸口すら掴めない。
 姿勢を起こそうとする。
 それを許さず飛んでくる次の一手。
 かわした瞬間横から野太い足で蹴り上げられ、ボールのように体が浮いた。
 その反動を利用し横に飛ぶ。が、一連の動作も苦し紛れに過ぎない。
 怒号。鈍い破壊音。
 鼓膜が痺れるような距離で容赦ない打撃から逃れるだけでも精いっぱいだ。
「遊びは終わりだ」
 それが日本語か何語かはわからない。それでもはっきりと意味はわかった。
 そうだ。こいつはおれが防御に徹するのを見ながら、楽しんでなぶりにきている。
 一撃で殺すには惜しい。
 そう言わんばかりに上乗せされた厭忌が全身を纏っていた。
 それももう終わりらしい。
 いよいよ逃げ場がなくなるまで奴の影がすっぽりおれの上に覆い被さり、ゆっくりと。
 ゆっくりと、最後の一打を味わうように腕を振り上げた。
(万事休すか…………っ)
 閉ざしそうになる瞳をグッと見開く。
 その瞼の裏で振り向くのは、短く揃った髪の毛で。
 あかね。
 あかね。
 ────こんなとこで、
「男になる前にくたばってたまるかよっ!!」
 東から白じむ薄陽の中、確かに宥安の顔を目で捉えた。その鼻目掛けておれは手に隠していた刃を突き立てる。咄嗟に目を狙えなかったのはおれの最後の躊躇いだった。
 肉を裂く感触。
 手首を回転し、柔らかな鼻腔を抉るように真っ直ぐ貫く。
 ぷしゅっと真っ赤な鮮血が噴射し、おれの顔に霧状となって降り注ぐのは宥安の鼻血──それが口に伝ったのだろう。ケハッと吐き出した赤い唾液は乾いた土にみるみる吸い込まれていった。
 手に持った武器を地面に落とし、つんざくような悲鳴が響く。
「うぉぉぉぉおおおおおおおお!!!!」
 まるで理性を失くした獣だ。怒り狂ったように悶え、叫び、上体を折ったり反らしたりしながら凄まじい喚き声を上げる。
 両手で鼻を押さえたその指の間からもボタボタと流れ落ちる血液。これは痛み以上に視覚的なダメージがデカいのかもしれない。
 そして何より────
「腹ががら空きだぜっ!!」
 無防備になった横っ腹目掛けて今度は連打を打ち込む。瞬間、赤い体液に混じって黄色い吐瀉物が宙に飛び散った。
 とどめに蹴りを一発くれてやる。
 これは危うくおれの唇を奪われそうになったお返しだ。
 刻印を押すように足をめり込ませ、これ以上ないという深いところまで蹴り上げる。
 柔らかなカンフーシューズの爪先がごりっと骨の間を抉った。脂肪の下に隠された臓器を揺らし、そこでようやく足を引く。
 それだってまだ体には痺れが残っていて、もしもおれが本気で仕掛ければ内臓破裂もやむなしだろう。
「かは……っ! がっ、うぁ……っ」
 ドロリと口から吐き出される体液。呻き声。言葉にならない罵倒。
 憎々し気におれに手を伸ばし、肩を掴んで…………そのまま地面に倒れ込む。
 青く新鮮な暁光に照らされたのは、白目を剥いて力なく転がる肉体で。それはどこをどう見ても女には見えない、宥安の姿だった。
 
 長い夜が明ける────
 徐々に明るさを増していく日の下で見る己の格好は酷い有様だ。
 どこで引っ掛けたのか、チャイナ服は上着もズボンもあちこちが破れている。おそらくこの下はもっと沢山の生傷が出来ているのだろう。おまけに両手の指先は血が滲み、ところどころ赤黒く変色している。
(これは痺れが切れた時が地獄だな……)
 腰紐を緩め、地べたに転がっている宥安を後ろ手に縛り上げて息を吐いた。
 目の下から頰にかけてぺりぺり張り付く乾きは、こいつの血液によるものだろう。
 今頃になり、湧き立つアドレナリンの余韻にしばし浸る。
 やっと。
 やっと。
 地獄のような数時間、待ち望んだ朝だった。
 
 それから汲んであったタンクの水で顔や手を洗い、家の中に足を踏み入れた。
 光の差し込まない部屋の奥では年老いた老婆が怯えた目でこちらに向け、ぶるぶると震えている。外で何があったか、おそらく全てを察しているのだろう。
 決して口を開こうとはしないその顔は、昨日より十歳も二十歳も老けて見えた。
 言葉が通じないと分かっていながら、おれは独り言のように尋ねる。
「こーして女に化けて油断させ……これがお前らの手口か」
「…………」
「そこに天涯孤独のおれが来て都合がいい。そう思ったんじゃねーの?」
「…………」
 老婆は何も話さない。しかし、重たいまでの沈黙はおれの読みが正しいと物語っていた。

 べらぼうに広いこの国では、近年結婚できない男が急増しているという。ましてや国からも置き去りにされているような限界集落では、その深刻さは都会の比ではなかった。
 かといってみながみな都会まで職と相手を探しに行けるかといったら、無論そうではない。
 年老いていく両親の介護を請け負いながら、田畑を耕す貴重な労力として二足の草鞋を履く。年寄りを大事にするこの国では親を見放すなど論外だ。
 やがて自らも歳をとり、過疎化の進む地で人知れず家系ごと絶えていく──以前ムースが溜息をつきながらこぼした話であり、だからこそ掟などという古いしきたりが今も根強く残っているのだという。
 出会いのない環境。
 限られた中で限られた牌を奪い合う。それにあぶれた者はただ血が途絶えるのを待つのみだ。
 女は嫁ぐために家を出るが、一人で家系を担う男はそうもいかない。貴重な稼ぎ頭でもある(こども)を差し出す家など、農村部では考えられないことだった。
 これがこの国の──いや、この地域の抱える暗い闇なのだろう。
 独立した男女の意思を尊重する基盤がまだ行き届かない中で、家庭を持たない男は生きながらにして死を意味する。
 それは血を継ぐ意味でも、社会的地位の意味でも、だ。
 子を成す相手がいなければどうするか。
 どんな手段を使ってでも手に入れるまで。そこにモラルという綺麗事は存在しない。
 相手の素性など贅沢も言っていられない切羽詰まった状況に突如現れた若い娘。その上 見てくれも同じアジア人のおれは、宥安達にとってまさに理想的な存在だったろう。それだけに裏切られた反動もさぞ大きかったに違いない。

 噂に聞いていた女だけの集落──その正体は至極単純で。
 女しかいない村ではなく、女がいない村だったのだ。

 何も言おうとしない婆さんを横目に、おれは部屋の隅に置きっ放しになっていた自分の荷物を肩に担ぐ。ずしりと肉に食い込む重量。幸い、中身まではいじられていないようだった。
 怯えた表情を顔面に張り付かせ、おれが一刻も早くこの場を出ていくことを願っているだけの老婆。それが一瞬だけ崩れたのは、おれが自前の水筒に手を掛けた時だったろうか。
 露骨に顔をこわばらせ、なにやらブツブツと呟いている。
「……もしかして、おめーも男なのか?」
「…………」
 それに対する答えはなかった。
 だけどいい。ここに滞在する理由なんて一ミリも残っていない。
「世話んなったな」
 踵を返し、白い光が眩しい外へ出ていこうと背を向ける。
「せ、がれ、を、うらむな……!」
 細切れになったたどたどしい日本語でぶつけられた言葉。
 それがこの村で聞いた、最後の台詞だった。
 
 *
 
 しん……と静まり返るホテルの一室。
 あんなに朝が来るのが待ち遠しかったのに、今夜はずっとこのまま暗闇が続けばいいと願っちまう。
 心なしか、おれの心臓の鼓動が速くなっているような気がした──が、もしかしたらそれはあかねのものだったかもしれない。
 それまでじっとおれの話を聞いていたあかねが胸の隙間から顔を上げ、別段深刻ぶることなく口を開いた。
「あのね、乱馬」
「あん?」
「あたし、そろそろお化粧落としたい」
「あ、そっか。とうとう、そのよそ行き用の面を」
「もうっ! あんたって本当に失礼ねっ」
 あーあ。こんな話の後なのに、ちっとも手加減を知らねえやつめ。
 ぼかりとおれの胸を叩き、脱ぎ捨てられたおれのシャツを素肌に羽織る。するりと袖を通す衣擦れの音。オレンジ色の光を受け、布越しに透けて見える腰のラインが何とも言えず艶めかしい。
 こっからしばしのおあずけタイムか。
 ごろりと仰向けに転がり、軽く痺れた腕をほぐしている時だった。
「ねえ、乱馬」
「んー?」
「一緒にお風呂入る?」
「え……っ!?」
「入ろ?」
「え、あ、おれはいーけど。えと、なんで?」
「だって今日はずっと一緒にいたいんだもん。ダメ?」
 ダメじゃない。ダメなんかじゃない。
 普段は頑として一緒に入浴するのを拒むあかね。そのあかねの気が変わらないうちに肩から担いでバスルームへ直行すれば、荷物じゃないんだからと足をバタバタさせる仕草も相変わらずだ。
「言っとくけど、変なことはしないでよね」
「変なことってなんだよ。おれはただ、離れてたぶんの親睦を深めようと──」
「バカっ!」
 湯船の中でもたれてじゃれて時々後ろを振り返ってキスをして。
 脱衣所から入り込む明かりを頼りに、ちゃぷりと音を立てる楕円のジャグジー。
 その水面に浮いた白い柔肌を愛でながら、今宵の物語はまだまだ終わりそうもなかった。
 
 
 
 
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comment (12) @ 中国修行編 Survivor

   
秘密(Twitter・SS創作)  | Survivor 05.女だけの集落 

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2018/06/17 Sun 13:32:31
・・・・・やべぇ・・・・! : 憂すけ @-
分かるよね?
分かっちゃっているよね?
あたしが今何を言いたいのか・・・「すっげ―好き!!」ですだー!!
はぅぅ~~~・・・た、堪らねぇ・・・っ!!( *´艸`)

は!(←我にやっと返った)
はい皆さんご一緒に!「成程ねぇぇ!」<(_ _)>

そう来ましたか・・・!!分かった、言わないよ。これ以上は言わないけど。まさかねぇぇぇ!!あの村のあれがこうしてあぁなってたとはねっ・・ムガモガ・・っ!!苦しい・・・kohさんに・・や、やられる・・・っ!!(パタリ)

黒曜石もさー・・・ってはいはい。分かりました。言っちゃいかんのでしょう?・・・・ちぇ!(←とことん懲りない)

あ~~~~でも色々と興奮したぁぁぁ!!!メッチャ堪能!!!有り難うございます!
御免ね、変な所にもツボがあるド変態で♡

でもね、最後の方であかねちんと乱馬が一緒に居る描写があったでしょう?
あそこに物凄く愛おしさを感じたの。
無事で、「今」一緒に居られるからできる話なんだろうなって思います。
続き、寝ないで待ってます。かッと目を見開いて。<(_ _)>
2018/06/18 Mon 15:17:00 URL
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2018/06/19 Tue 12:11:04
Re: ありがとうございました!! : koh @-
m~コメント主様

そうなんです。やはり“らんま1/2”の世界で切り離せないのが変身体質で。
呪泉郷からほど近い集落に住む民族なら、その泉の効能を悪巧みに利用することも十分考えられるんじゃないかなぁと思ってのお話でした。
そして拍手解説にもある通り、この問題部分に関しては昔読んだドキュメンタリーが衝撃過ぎてどうしても触れておきたく……。
多分こんなにも説明くさく堅苦しいお話はもう出てこないような気もするのですが、異国に修行にいく=自国では考えもしなかった問題を沢山目にして乱馬が精神的にも大人に、たくましくなってくれたらと願っています。
強くなりたい。じゃあそれは何の為で誰の為?
そんな風に乱馬と一緒に自問自答しながら、手探りで進めているシリーズ。内容が内容だけに、時に心配になってしまいますが、単純に楽しんでいると言ってただけてとっても嬉しかったです♡
ありがとうございました!
2018/06/20 Wed 10:09:06 URL
Re: ・・・・・やべぇ・・・・! : koh @-
憂すけさん

らんま1/2といったらなにはなくとも変身体質。
そしてもう一つ、格闘ですよね。
仲良し乱あのお話は大好きだし、甘々だっておピンクだって書きたくなります。
でもやっぱり、闘うシーンも書きたくて……。
ひとつ「これを書きたい」と思い浮かべたことに肉付けしていく作業は己の力量不足をまざまざと突きつけられる思いですが、それでも今書かないと後悔すると思って「好き」な気持ちに振り切ります^^。
憂すけさんの仰る通り、最後にあかねちゃんと肌を重ねながら語るシーン。
それまで単純に強くなりたいと願っていた乱馬が、誰のために強くありたいか。
それを意識した時、一段高みに上れるんじゃないかという思いを込めてでした^^。
あー、難しいけれど書いていて楽しい!それがこのシリーズです。
2018/06/20 Wed 10:14:21 URL
Re: No title : koh @-
k~コメント主様

わーい、一気にお付き合いいただきありがとうございます^^。
このシリーズは自分の中で小さく何章かに分かれているのですが、そのブロックごとは出来るだけスピーディーに読んでいただけたらと思っていたので嬉しいです。
私は巻き爪で“ひょう疸(そ)”になりやすく学生の頃はしばしば爪を剥がしに整形外科に通ったのですが(怖くて初めての時は診察台の下に潜ったやつ…笑)、爪はいかん。爪は……。
でも命がかかっていたのでそうも言ってられないかな、と。
とにかく自分の好き放題しているこちらのシリーズですが、だからこそ時折出てくるあかねちゃんの存在に自分自身も癒されている状態です。ここまで書けばあかねちゃんに会える!みたいな^^。
そして「なんでこんな血なまぐさく萌えもないお話なの?」と思われるようなシリーズも、最後まで通した時に「これが乱馬を形成し、確固たるあかねへの想いに繋がっているんだ」と思っていただけたら嬉しいな、なんて図々しく思っています。
とはいえ、甘々エロエロも書きたい!笑。
相変わらず頭の中は暴走中の私です…(^^;。
2018/06/20 Wed 10:22:51 URL
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2018/06/25 Mon 09:51:35
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2018/06/26 Tue 11:21:20
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2018/06/26 Tue 11:33:53
Re: No title : koh @-
め~コメント主様

コメントありがとうございます。
からくり、わからなかったですか?よかった……(ほっ)。
自分だと結末まで知ってしまっているため、「ありきたりかな、ネタバレ半端ないかな」とドキドキしてしまって(^^;。
そして格闘シーンが大大大の苦手なのですが(っていうか格闘シーンを書ける人ってすごい…)、このシリーズではそこも挑戦したくて泥臭く書いていきたいと思います^^。
あーもうダメ~と思った時はあかねちゃんに助けてもらおう……。←
数ある私のシリーズの中でも群を抜いて趣味に走った代物ですが、読んでいただいてありがとうございました♡
2018/06/27 Wed 00:52:32 URL
Re: 大介もっと出てきて : koh @-
青~コメント主様

ふふふ……このシリーズを思いついた時からこうして彼らの旧友にも登場して欲しいと思っていまして^^。
基本的に年齢操作しているパラレルに関しては極力オリキャラを出さずちまっとした世界を書きたいんです。
オリキャラを書けないだけ?そうそう、よくわかって……ってそれは内緒のショナイですがな。
自分だけかもしれませんが、楽し過ぎる時間があるとその後が少し寂しいんですよね。
とりたてて大きな不満はないはずなのに、それでもどこか物足りないように褪せて見えるというか……。
そこに煌めきを取り戻してくれるのもまた友情だったりするのかなって思います。
そしてるーみっくキャラは喫煙率高そうだなぁって私も思いました!
時代が時代ですし、大人になってからまさかの高校屋上で一服っていうのもまた楽しいかなぁと。
なびきはお酒の場でもらい煙草ならスマートにお付き合いもしそうですよね。
あかねちゃんが吸うとしたらひょんなことから言い合い→吸ってやるわよ!→一口吸ったところで乱馬が指でもみ消して「ばか野郎!」ってイメージです。後にも先にもこの1回、みたいな。
ああ~。大人妄想も楽しいなあ。←結局何妄想しても楽しい人
PS. BGRさんの作品、素敵ですよね♡「そうそう、そこだよ!」という萌えポイントがぎゅぎゅっと詰まっていて毎回ハートを鷲掴みにされています^^。
2018/06/27 Wed 01:15:23 URL
Re: 先が気になります。 : koh @-
青~コメント主様

わー、私の趣味嗜好丸出しのシリーズにあたたかいお言葉……ありがとうございます。
普段はのほほん甘々話ばかり書いている私ですが、実際読んでいる本ってまったくの系統違いで……。
そんな密かにずっと温めていたお話をとうとう書き始めてしまったという感じでしょうか。(多分、今までも未練がましくあちこちの後書き等で「萌えはないけれど中国修行編を書きたい」と吐露していたはず)
そして高校生編などコメディタッチなお話だったら妖怪のせいにでも出来たと思うんですけど、やはりこれはシビアな修行編。幽霊よりお化けより、この世で一番恐ろしいのは人間なんだよっていう部分を浮き彫りにしたくて敢えて現実的に捉えています。だからこそ、意図せぬ中傷と取られないよう、緊張するのですが……。
登場シーンは極限られていますが、強くなりたい根底にあるのはあかねの存在があると思うので、「すごいラブラブ」と言っていただけてホッとしました。
あいにく教えていただいた他作者様を存知ないのですが(すみません、今の支部以外殆ど知らなくて…💦)、こういうちょっと色の強いお話を書くのはとてもエネルギーを要するので本当に好きじゃないと書けないなぁと思います^^。
進行はゆっくりですが、この先も是非お付き合いください。
2018/06/27 Wed 01:25:28 URL

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