気まぐれ、ルビー 

2018/06/27
ルビーは勝利を呼ぶ石。他にも情熱、純愛の意味。
青いサファイアは誠実、慈愛、貞操。一途な思いを貫き、見透かすという意味を持つ。
二つは同じ鉱物であり、コランダムという無色の鉱物の割合によって色が変わる仕組みです。

一見対照的で、だけど似ている存在。
そんな関係を書きたくなった、付き合う前の二人です。
拍手話には乱馬視点の【強がり、サファイア】が置いてあります
※ 携帯電話のない原作の時代設定です ※

 

気まぐれ、ルビー




「と、とにかく明日の夕方、そっちに帰るから!」
 ブーッとけたたましい音を立て、「あっ」とか「えっと」なんて言っている間に呆気なく途切れた公衆電話。ツー、ツー、と無機質に響く音は「残念でした、タイムオーバー」と無情な現実を突きつける。
 だから言わんこっちゃない。
 やれ一匹の魚を巡っておじ様と喧嘩しただの、それを機に途中から別行動になっただの、どうでもいい……と言ったら失礼だけどどうでもいい話ばかりするものだから、肝心のことを聞きそびれた。
(こんなことなら先に電車の名前と時刻を聞いておくんだったわ)
 チン……と静かにベルを鳴らし、黒い受話器を置く。
 何十キロも離れている二人を繋ぎ、時間がくればまた容赦なく引き離す情の無い器械。
 それでも修行先からこうして乱馬が電話を掛けてきたのは、あたしが知る限り初めてのことだった。
 
 自分の部屋に戻り、窓を開ける。
 夕方まで降り続いていた雨はようやく上がったものの、空気はまだ存分に湿って重たい。
 もうすぐ七月だというのに、今年の梅雨はやけに長く感じるのは気のせいだろうか。
 さらに例年ならば「これ、本当に梅雨入りしているの?」と問いたくなるような快晴続きもあったりするものだが、今年に関してはそれもない。
 ひたすら雨、雨、雨。
 その雨から逃れるように修行に向かった乱馬だったが、おそらく出先でも雨に見舞われたことは間違いないだろう。
 卓上に置かれたカレンダーに手を伸ばす。
 乱馬がいなくなってから既に九日。これはあたしにとってとてつもなく長い九日間だった。
 もちろん、今までだって乱馬がこうして修行で家を空けることは珍しくなかったし、その期間は最長で二カ月に及ぶこともあった。それだけに修行そのものは大した問題ではなく、乱馬自身も何も感じていないだろう。
 だけど────
 あれは忘れもしない、乱馬が出発する前夜のことだった。

 
 替えのタオルを取りにやってきた乱馬に、歯磨きを終えたあたし。
 狭い洗面所である。鏡越しに目が合い、先に口を開いたのはあたしのほうだった。
「明日から静かになるわね」
「おう、さみしーだろ」
「全然。誰かさんのせいで三人娘の揉め事に巻き込まれないで済むと思うとせいせいするわ」
「なんでい、ヤキモチか?」
「あのね。どこをどう聞けば今のがヤキモチに聞こえるのよ」

 ダンと床を踏みしめれば「こえー」と大袈裟に身をすくめる。
 バカっ、本当は気を付けてねって言いたかったのに。自然に、いつも通りに。そう意識するほど、かわいくない台詞ばかりが口を突いて出てくる。
 それを助長するように「ずん胴」だの「凶暴」だの、扉の前を陣取って軽口を繰り返すのは言わずと知れた許婚で。その隣をすり抜けるべく右に避けると乱馬も右に、左に避けると乱馬も左に、要は通せんぼというやつをされて通るに通れない。まったく、こういうところがつくづく子どもっぽいのだ。
 憎たらしい顔して「どんくせえ」と茶化してくるが、あたしが鈍くさいならあんたはお子ちゃまじゃないの。
 結局こう。二人でいたって、色っぽい空気が訪れることなど永久に無いんだわ。
 それは居心地の良さを通り越し、あまりにもときめきに欠ける気がした。

「ちょっと。そこどいてよっ」
「勝手に通りゃいーじゃねえか。あ、それともずん胴がつかえて通れねえのか?」
「あんたねえ」
 ばかばかしい。ううん、既に馬鹿にされてる。
(明日からしばらく会えないのに……乱馬のバカっ。もう勝手にしたらいいんだわ!)
 今度こそ強引に横をすり抜ける──刹那、横から腰を引き寄せられたのは一瞬のことだった。

 一秒にも満たないような、僅かな時間。
 服の上からぎゅっと指が食い込んだと思ったら、何事もなかったようにパッと手を離される。

「な、なに……っ?」
 情けないことに、あたしの声は上擦っていた。
 もしかしたら少しだけ震えていたかもしれない。が、そんなことお構いなしに、乱馬はいつもの調子で頭の後ろに腕を組む。
「──別に。ただあかねのずん胴を確かめただけ」
「ちょっと!」
「あーおっかねえ。夢の中までうなされそうだ」

 なによ。
 なによ、なによ。そんな他人事みたいな態度で踵を返しちゃってなんなのよ。
 あんたっていつもそう。
 ほんの気まぐれでかわいいよとか言っちゃって、時にあっさり人の唇を奪っておきながら、その後は決まって知らんぷり。
 バカバカ。あんたみたいなナルシスト、もう知らない。
 一度も振り返ることなく自室に戻っていく後ろ姿に、溜め込んだ不満はただ口をパクパク上下するだけで言葉にはならなかった。
 せめてどんな顔してあたしを抱き寄せたのか教えなさいよ、バカ!

 ……………………ううん。やっぱりダメ。
 あたしが見せられるような顔、していない。

 ドキドキと、高鳴る鼓動の音がはっきり自分で聞き取れる。まるで「心臓がここにある」と全身に知らしめているようだ。
 今までみたいに、訳あって咄嗟に抱えられるのとは事情が違う。
 頬が火照り、胸の奥がちりりと痛い。
 その晩は知恵熱のような興奮に包まれ、ベッドに入ってもなかなか寝付けなかったのは言うまでもない。
 

 あれからちょうど十日だ。
 胸の中にある期待と切なさを入れ替えるよう、鼻から大きく息を吸い込む。
 ぐんと膨らんだ胸の下。どことなく青臭い、濡れた空気が肺の中を一杯に満たした。
 星ひとつ見えない夜空には、厚い濃灰の雲がかかっている。
 
 ──さみしーだろ
 
 洗面所で何気なく乱馬が放った一言を、最初は認める気にはなれなかった。
 けれど。
 …………うん。やっぱりあたし、さみしかったみたい。
 朝の身支度はいつもよりずっと余裕があって、普段より何倍も穏やかな学校生活に、道場を貸し切りにしての稽古。おかずを巡って醜い小競り合いもなければチャンネル争いもない、どこまでも平穏な日々だった。それでもなぜか、物足りないの。
 
 今年の梅雨は長い。
 長くて、寒い。
 
 頬を撫でる風はどこか冷たく、あたしは上着を羽織るでもなく素直に窓を閉じた。
 

 *
 
 翌日は抜けるような青空だった。
 まさに梅雨の晴れ間とでもいうのか、日曜だというのにかすみお姉ちゃんは朝から大量の洗濯物を回すのに余念がない。
 雨ならば行かないつもりだった。
 だけどこんなにも良いお天気だから、外に出なくちゃ勿体ない。
 こじつけの理由で自分を納得させ、家を出たのは昼食を終えてすぐのことだった。
 どこに行くって?
 そんなの決まっている。乱馬が帰ってくる駅までお迎えというわけだ。
 といっても、何も大袈裟な話じゃない。
 ただ暇だったから。
 たまたまお休みの日だったから。
 こんな天気なんだもの。家でじっとしているのは勿体ないし、お気に入りのスカートをおろしたのだって雨に打たれる心配がないからに他ならない。
 
 それにしても、どこまで行こう。
 家を出るまで散々迷った問いも、駅に向かっている間にあっさり解決した。
 まず、自宅から最寄りの駅はやめておこう。いつ誰に見つかるとも限らないし、なんならこの町にはシャンプーだって右京だっている。そこに小太刀まできたら、目を当てられない騒ぎになるのは間違いないだろう。
 ただでさえ、うちには油断ならない野次馬が耳を澄ませているのだ。ならば地元から離れること。これはごく自然な判断だった。
 次に、電車に揺られながらどこで待つかを考える。
 乗り換えのあるI駅にしようか? しかし、幾つもの路線が交わる巨大な構内はさながら迷路のようで、そこでピンポイントに乱馬と遭遇することは、町内のくじ引きに当たるよりも確率が低いように思える。
 それに…………。
 腕時計の針に視線を落とす。時刻はまだ十四時にもなっていない。
 どうせ暇なのだ。
 再度自分に言い聞かすと、あたしはそのまま新幹線の改札がある東京駅まで足を延ばした。

 
 数段の階段を設けて舞台のようになっている、ちょっとした特別感漂う新幹線の乗り場が昔から好きだった。
 出張帰りなのか、大きな荷物にくたびれたスーツ姿で疲労の色を浮かべるサラリーマンの姿もなくはない。が、その一方で期待に胸膨らませ、高揚した表情で改札口から出てきて感動の再会を果たす者、逆にスーツケースに入りきらない大量の手土産をぶら下げ別れの挨拶を交わす者……ここでは百人いたら百通りのドラマがあると言わんばかりに雑多な空気が溢れている。
 自分以外、誰のことも気にしていない。
 どんなに混み合っていても互いのパーソナルスペースを乱さないような、無関心なざわめきが妙に心地よかった。
 
 あたしは改札口が一望できる柱の横に立ち、軽く背中をもたせかける。
 他にも乗り換え口はあるものの、修学旅行で初めて新幹線を利用した時の乱馬の様子からここしか考えられないと踏んだのだ。
 すぐ隣にはアクリルのパネルに入った大型のポスターがあり、そこに映る自分の髪形をこっそり手で直す。
 服装は……うん、特におかしなところはないみたい。
 もう一度上から靴のつま先まで視線を走らせ、よしっと心の中で呟く。
 
 それにしても、夕方帰るとは言っていたものの何時になるかはさっぱりだ。
 昨日は電車の時刻を聞いておけば良かったと後悔したが、どのみちそれは無駄だったろうと首を振る。なんせ乱馬のことだ。自分の起きた時間が一日の始まりであり、行き当たりばったりに電車を乗り継いで帰ってくるに違いない。それでも出発前の荷物の中に見えたミント色の乗車券。
 確か妖怪退治を務めるついでの修行と言っていたから、おそらく旅費は依頼主持ちなのだろう。
 こんな風に一つ一つを謎解くようにしながら待つ間の気持ちは、蝋燭の炎のようにちらちら揺れる。
 それは期待だったり喜びだったり、はたまたポッと体温の上がりそうな興奮だったり。
 その中に、僅かに顔を覗かせるのは痛みにも似た緊張で。

 もしもこの駅じゃなかったらどうしよう。
 もしも乱馬の存在を見落としてはぐれてしまったらどうしよう。

 そんな思いはやがて、坂道を転がるように不安へと変わっていく。

 なんでこんな所にいるんだよ。
 おれ、べつに頼んでねーけど。
 っつーか、そんなおれに会いたかったわけ?

 冷たい、それでいて憎らしいくらいに乱馬そのものの口調で再生されるそれは、グサグサと容赦なくあたしの胸を突き刺す。
 

 確かに昨日の電話でも、迎えに来てなんて一言も言われていない。それどころか、寂しいとも会いたいとも言われていないわけで。
 乱馬にしてみたら、ほんの気まぐれで掛けた一本の電話だったのかもしれない。
 それだってあたしは跳び上がるほど嬉しくて、乱馬が留守にしている間じゅう、実に家にいる時のコールの殆どはあたしが出ていたなんて知れたらきっと散々馬鹿にされるだろう。
 こんな時、乱馬の態度はひどく残酷に思える。
 結局、いつもあたし任せなのだ。
 勝手に人の気持ちをかき乱して、気付けば胸のワンルームに居座って。
 いくら居候だからって、なにもあたしの中にどっかり腰を下ろすことないでしょう?
 なのにどうしても追い出すことが叶わない、ずるくてお調子者の許婚。
 ねえ乱馬。なんであの時、抱きしめたりなんかしたのよ。
 気のせいだなんて言わせない。
 あれから何度も自分で自分の腰を抱いてみた。それでも、指が食い込むあの感覚には程遠くて。

 ずるいよ。
 乱馬はずるい。
 とどのつまり、恋したほうが徹底的に負けなのだ。
 

 改札口から大勢の人が一斉に吐き出される度、あたしは前のめりになって目を皿のようにする。
 見逃さないように。
 入れ違いにならないように。
 そうして徐々に人が少なくなり、最後にゆっくりと子連れの若いお母さんやおじいちゃんおばあちゃん達の姿を見送ると、いかにも自分には関係ないようなふりをしてまた澄ました顔に戻るのだ。
 かれこれ一体何本の電車を見送っただろう。
 足が痛い。まるで役立たずの棒になってしまったみたいで、自由に歩き回るのとただ一箇所に留まるのとではこんなにも疲れ方が違うのかと思い知らされる。
 少しだけ踵が高くなっている分、親指の付け根の下──皮が一番厚くなっている部分がジンと痺れる。
(こんなことならもっと楽な運動靴でも履いてくればよかったわ)
つま先を交差しながら、つい三時間前の自分の決断を激しく後悔する。そしてその後すぐに、これが新しいスカートにぴったりで一番足を綺麗に見せてくれるからと鈍い痛みをやり過ごして。
 きっと三時間前に戻れたとしても、あたしがこの靴を選ぶのは変わらないだろう。悔しいけれど否定できない想像に、自虐めいた笑いが浮かんだ。

 それにしても疲れた。
 こうして一人で待っていると、自分のほうが何倍も乱馬のことを好きなんじゃないかと余計ことばかり考えてしまう。
 ううん。もしかしたら乱馬はあたしのことを異性として好きなわけではないのかもしれない。
 ただ一緒に暮らしていて、たまたま同じ年齢で。
 この前のことだってそう。ほんのちょっとからかってやろうとしただけ。
 そんな悪戯を真に受け、ひとり駅で試されているあたし。
 そう思ったら居ても立ってもいられないくらいの虚しさと恥ずかしさが全身を襲う。
 まるで頭から冷や水をかけられたように「こんな所で何やってるんだろう」と冷静な思考が顔を覗かせ、乱馬に見つかる前にさっさと帰ったほうがいいと囁くのだ。
 だけど体が動かない。
 両足が断固拒否するように、その場を動こうとしてくれない。
 そしてまた「あと一本」「もう一本だけ」。もはやカウントするのも放棄して次の電車を待ち続ける首は命令されたように無理な角度を繰り返し、その都度期待外れにがくりと肩を落とした。
 
 夕方の定義とはなんだろう。
 ふとそんなくだらないことを考えてしまったのは、短い針がもうすぐ七の数字を指そうとしているからかもしれない。
 既に足の感覚はなかった。
 髪の毛は乱れていないだろうか。もう一度お手洗いに行って鏡の前でチェックしたほうがいいんじゃないか。
 ああ、だけどあと二分で次の電車がきてしまうから、今からではそんな余裕もない。
(これでいなかったら本当にもう帰ろう)
 何度目になるかわからない誓いを胸で唱える。それに揺さぶりをかけるのは、あまりにもリアリティに長けた想像で。
 もしかしたらもうとっくに乱馬は家に着いていて、かすみお姉ちゃんの作った夕飯をつまみ食いしながら寛いでいるのかもしれない。
 あたしがいないことなんて大して気にせず、好きなチャンネルを選び、テレビの前を占領して。興味の対象といったら、今日のおかずの争奪戦だけなのだ。

 微笑ましい光景がパッと頭に浮かび、不意に目の奥が熱くなる。
 目だけじゃない。
 鼻も、胸も、体のあちこちが痛い。
 馬鹿みたい。
 家に帰れば嫌でも会えるというのに、一駅分でも早く会いたくて。

 ──そう、ただ会いたくて。

 天気なんてどうでもいい。
 もしも今日が雨でもきっと、一本の傘を持ってあたしはこの場に立っていただろう。それこそ雨を口実に。
 家族に邪魔をされないうちに。
 他の誰にも邪魔をされないうちに一目会いたくて、それでわざわざここまで来たの。
 あたしの休日、殆どを消費して。

 ぺちゃんこに押し潰されそうな胸の中の空気をゆっくり吐き出し、またゆっくりと吸い込む。
 ぽろりと涙が零れてしまわないよう、ゆっくり。ゆっくりと。
 きっと今のあたしはどこからどう見ても“恋する乙女”で、それを言い逃れる術などなかった。


 頭上から聞こえてくるベルの音に耳を澄ます。
 ホームに吐き出される人の足音。
 どっと疲労の声まで聞こえそうなざわめきに、健気にもあたしの心臓がまた早鐘を打ち始める。
 乱馬。
 乱馬。
 会いたい。
 顔を見れば憎らしいことばっかり言うくせに、今はその軽口が恋しくて堪らない。

 ざわざわと、騒音が集団となってエスカレーターを降りてくる。
 そこに乱馬の姿は…………見当たらない。
 なんでよ。
 どこ行っちゃったのよ。
 いつも余計な茶々を入れてくるくせに、肝心な時にどうして出てこないのよ。
 これで会えなかったらもう知らないんだからね。
 一週間口を利かないし宿題も見せてあげない。
 ううん。それどころかあたしの部屋にだって入れてあげないんだから。
 こんなの、まるで勝手な八つ当たりだ。
 でもこうでもしないと立っていられない。
 誰かのせいにしていないと、とても耐えきれそうにはなくて。
 いよいよ零れ落ちそうな涙をぐっとこらえ、最後の一人まで目を凝らす──その時だった。

 両手で肩からのベルトに手を掛け、ゆっくりと改札を潜ってくる一人の青年。
 リュックの一番上にはくるくると丸められたテントが括り付けられており、パサパサになった頭を優に超える高さの荷物を担いでいる。
 にこりともしない無表情な頬は、心なしか幾分締まって見えた。
 頬だけじゃない。
 服だってあちこち煤け、よく見たら靴だってズボンの裾だって乾いた泥跳ねが黒を粘土色に染めていて。

「乱馬……!」

 あたしの声が聞こえていたとは思えない。
 それでも一瞬目を丸くし、卑怯なほどに嬉しそうな笑みを浮かべるから。

「よお、あかね。今帰った……ぐえっ!」

 いつか聞いたような台詞だ。
 ああ、そうだ。ハーブとの決着がつくのを待ち続けたあの時もこうして待ち続けて、その時よりずっと短い時間なのに今はそれすらも苦しくて堪らない。
 バカ。あの日、あたしを抱き寄せたりなんかするから。
 バカバカ。安易に期待させたりなんかするから。

 再会の言葉を言い終わらないうちに駆け寄り、真っ直ぐ腕を伸ばしていた。
 ドンっと胸に額がぶつかり、そのまま勢い任せにしがみつく。
 背中には大きなバックパックがあるから、その手前の脇を掴むように、しっかりと。

 どっどっどっどっどっ……。

 太鼓のように耳に聞こえてくるのは乱馬の心臓の音だろうか。それとも、あたしのもの?
 あの日と同じ、左右に力なくだらりと垂れ下がっている乱馬の腕。その太い腕がやんわりとあたしの腰に回され、二人の隙間をゼロにする。

「あの……どーしたの? なんかあった?」

 なにかあったですって? それはこっちの台詞よ。
 あたしの心に特大の置き土産をしていったのはあんたのほうじゃない。
 なのに今さらそんなオロオロした口調で問うなんて、つくづくずるいったらありゃしない。

「あかね?」

 だけど無理。この声で呼ぶあたしの名前を聞いてしまったら、まるで紅茶に溶ける角砂糖のようにあたしの心は絆されてしまうから。

「……おかえりなさい」
「え?」
「おかえりって一番最初に言いたかったの。悪い?」

 ありったけの強がりを集めた表情で頭を上げる。
 視界いっぱいに広がる真っ赤なチャイナ服はどこか生乾きの匂いがして、一人で過ごした修行の日々を物語っていた。
 その上に続くのは、チャイナ服に負けず劣らず真っ赤に染まった乱馬の顔で。

 他人のことなんて興味の無い都会の人波。そこであの日と同様、太い指があたしの背中にしっかりと食い込むのを感じる。それはとても甘い、痛みにも似た圧迫感。

 深く吸う、チャイナ服越しの空気は湿った土の匂いを帯びていた。
 降り続けた雨が止み、濡れた心に日が差し込む。
 明るくて、あったかくて、直視するのを躊躇ってしまうくらいの太陽はここにあったのだ。

 そっと瞼を開ける。
 震える睫毛の先を感じるほどに。


「ただいま」

 そう言って、待ち焦がれた相手はルビーのように笑った。
 夏は、もう近い。
 
 

 < END >
 
 

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comment (20) @ 高校生編 短編(日常)

   
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2018/06/27 Wed 00:48:48
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2018/06/27 Wed 01:54:27
有り難う : 憂すけ @-
有り難う。
有り難う。
kohさんが誰の為に書いたんじゃないこのお話しに、心からのお礼を言わせて下さい。
だって・・・だって、色々な物をあたしは貰えたから。 
シナシナに乾いたあたしのスポンジみたいに干からびた心が潤っていくよ。

有難う。
乱あが大好きだ。有難う。<(_ _)>
2018/06/27 Wed 09:13:51 URL
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2018/06/27 Wed 11:38:51
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2018/06/27 Wed 14:00:04
Re: タイトルなし : koh @-
ひ~コメント主様

もー、コメント主様!私が今年一番これだっと思っている作品ばかりピンポイントに感想をくださる…涙。
恥ずかしながら、このお話は自分でもすごく気に入っているんです。
それこそ、仕事に追われて心がカスカスになっている隙間時間に何度も読み返し、ほんの一文字足す、消す、気持ちを書き足す、蛇足を削る……そんな風に丁寧に丁寧にあかねちゃんの心境を綴ったつもりのお話で。
登場人物は二人だけ。キスも何もない、付き合ってすらいない話ですが、でもこういう二人を書けるとホッとする自分がいます。毎日がドタバタな世界だからこそ、劇的なことはなくてもいいんだよって。
そして、乱馬は当たり前のように修行に出ますが、待っているほうってなかなかの忍耐ですよね。
なにもそれは放っておかれてるとかだけではなく、怪我していないかとか、風邪をひいていないかとか、心配は尽きなくて。
それも込みで受け止め普段通りに送り出す強さ。早く会いたくて待ち続ける可愛さ。そんな魅力をこのお話から感じていただけると嬉しいです^^♡
2018/06/27 Wed 21:16:15 URL
Re: 好きです!! : koh @-
k~コメント主様

わーい、好きってシンプルで嬉しいです^^。
そういう私もこのお話は満足度高いお話で。バカみたいなんですが、あかねちゃんになりきって書いているのでキーを打っている時は何度も涙がこみ上げてきちゃいました。
ただ待っているだけ。そんな大袈裟なことではないのに、あの雑多な空間にいると自分がたった一人のような感覚になるんですよね。ここでこんな風に待っている自分がひどく滑稽なんじゃないかって。
この当時って携帯電話がないからこそっていうのもポイント高いです。もしかしたら今の子って「すれ違う」っていう状況を知らないかもしれないですよね。以前何かの雑誌でそういったアンケートを見て驚いたことがあります。携帯だったら簡単に繋がれるけど、そうじゃないからこそ気持ちが表れるんじゃないかと。
そしていくら体力おばけの乱馬でも、やっぱり疲れってあると思うんです。
そこで予め気持ちをリセットして家に帰る真面目男子……じゃないと今頃事故の一つや二つは起きててもおかしくないですよ笑。
意外な乱馬の一面も知っていただき(笑)、よかったよかった。
その後のことも想像して胸があたたかくなる話を書きたい。そう思っていたので、楽しんでいただけて嬉しかったです^^。
2018/06/27 Wed 21:16:35 URL
Re: 有り難う : koh @-
憂すけさん

わー、なんか泣きそうです……。
あまりにも自己評価が甘くて怒られちゃいそうですが、私もこのお話が大好きなんです。
何もなくても特別な存在の二人を陰から見守っているような心境で、あかねちゃんの気持ちになると切なくて堪らないのですが、たまにこういうお話を書けるとホッとする自分がいるんですよね。
自分はただこの二人が好きなんだなぁって、大袈裟ですがそんな風に感じられるんです。
正直仕事に忙殺されて心がスカスカになっていた時も、自分のこのお話の下書きを何度も読み返したりしていました。おかしいな、疲れてたのかな笑。
だからこのお話で誰かの心に潤いを与えられたこと。それがとっても嬉しいです。
憂すけさん、ありがとうございました。
2018/06/27 Wed 21:16:56 URL
Re: ありがとうございました!! : koh @-
m~コメント主様

またまたここで自分の趣味が出てしまいました。なぜでしょう、昔から色とか石とかの意味を調べるのが好きなんですよねぇ。この辺りはロマンチストだった父の影響大に違いありません。
修行前、一瞬抱き寄せた後にお互いの顔を見せ合えればそれで済む話なのに……きっとそれをしてしまうと修行には行けなくなってしまうんでしょう。ちゃらんぽらんなようだけど肝心の部分は不器用なくらいに真面目なんじゃないかな。じゃないと好きな子と同居なんて出来ないよなぁ、という私の妄想です^^。
それにしても、携帯電話の無い時代ってこういう待ち合わせ?待ち伏せ?がめずらしくなかったですよね。
その度、そわそわして鏡を見る代わりにガラスに映る自分の姿を確認して……。
このお話を書いていると若かりし頃の記憶がぶわっとよみがえってきて、恋心って人をかわいくする最高の魔法だと痛感します。
「おかえりなさい」「ただいま」。
ただそれだけなのですが帰る場所も受け入れる場所もお互いだけであって欲しい。そんな願いを込めたお話でした。
2018/06/27 Wed 21:17:17 URL
Re: もう、夜の駅のキラッキラッが目に浮かびます : koh @-
青~コメント主様

新幹線と大体の場所のヒントはあっても、肝心の便がわからないと相当厳しいですよね。
試しに時刻表を見ても意外とひっきりなしに電車や人の往来があることを知って、これはずっと気を張って改札口を見つめていたあかねちゃんは相当大変だったのではないかと思います。
今だったら簡単に携帯で調べて時間潰しできちゃうような待ち時間も、当時はそういうわけにいかないですものね。だからこそ会えた瞬間がたまらなく嬉しいのですが、その反面待っている間はウキウキよりも不安のほうが顔を覗かせたんじゃないかなぁとか。(特に時間が経てば経つほどしんどいですよね……)
そこであっさり帰るのではなくしっかり待ち続けるのがあかねの性格のような気がします。
玄馬の「地獄のゆりかご」の時も、一人道場で正座し続けて見守ったのはあかねだけですものね。
そんな一途さがやっぱり大好きです。
あ、あと煙草の火の件ですが、意外と手の平で握って消せちゃうようです。
なぜなら大学時代タバコを吸おうと火をつけた先を「やめとけ」と消されてしまったことがありまして笑。
意地になって三回くらい繰り返しましたがその度ぎゅむっと掴んで潰されてしまったので「へえ~、煙草って簡単に消せるんだ」と思っていたら……な、なんと調べたら発火点は250~260℃とあるじゃないですかっ!
ひいい~、今更ですがごめんなさい!って感じです”(-“”-)”
2018/06/27 Wed 21:17:39 URL
これぞ。。 : 那由他 @-
これぞまさしく!な乱あちゃんをありがとうございました…!!
kohさんの綴るあかねちゃんが本当に愛おしくて。恋する女の子って、どんなに強く見せても気持ちは脆いんですよね。それをこんなに美しく繊細に表現されるkohさん、天才か…!と部屋で転げ回りました。そりゃもうゴロゴロと!笑
とてもお気に入りの作品になりました!今後も楽しみにしています〜!
2018/06/27 Wed 22:15:55 URL
No title : ねちゃこ @-
kohさん!!!読ませて頂きました(*⁰▿⁰*)あかねちゃん視点も乱馬視点もどちらも最高に素敵でした(≧∀≦)あの宝石のエピソードからここまでお話を膨らませちゃうなんて、やっぱりkohさんスゴイです!!
特にあかねちゃん視点は可愛いすぎて、興奮で酸欠になりそうでしたよ( ´ ▽ ` ;)昔、恋してた頃の甘酸っぱい記憶が蘇るような、会いたくて会いたくてたまらないけど、途中ちょっと弱気になっちゃうトコとか、懐かしくてキュンキュンしました(≧∀≦)あかねちゃん乱馬が帰って来るまでよく待ってたね〜って褒めてあげたい気分です( ´ ▽ ` )普段素直になれない分、素直になったあかねちゃんの破壊力ったらないでしょうね(≧∀≦)乱馬今夜は悶絶だろうな〜(笑)
二人が会えた瞬間は、本当に宝石のように輝いていたでしょうね!!素敵なお話ありがとうございました( ´ ▽ ` )
2018/06/27 Wed 22:44:47 URL
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2018/06/27 Wed 23:42:00
Re: これぞ。。 : koh @-
那由他さん

わわわっ////あ、ありがとうございます…っ!
Twitterでもちらっとお伝えしましたが、恋する女の子……とくにそわそわ待って不安な顔になったりパッと花が綻ぶような表情になったり。
書きながら那由他さんちのあかねちゃんが浮かんできました^^。
理屈じゃない恋心って愛おしいですよね。
冷静に考えたら圧倒的に「無駄」が占める中、それでも優先させたい想いがあって。
何度も足を変え、体重移動して痛みをやり過ごし、たった一人を待つ時間。その時間の分だけ会えた瞬間の喜びもたまらないと思います。
とてもお気に入り……そう言っていただき、光栄です。
あかねちゃん、かわいいんじゃ……////
2018/06/28 Thu 03:14:36 URL
Re: No title : koh @-
ねちゃこさん

わーっ!ね、ねちゃこさんまで……っ感激です///
しかも拍手までお付き合いいただき、嬉しい……涙。
このお話のあかねちゃんって、この時代で、この歳だからこそのなんじゃないかなって思うんです。
会いたいのに簡単には会えなくて、何度も何度もUP&DOWNする気持ちをなんとかこらえて。
もう帰ろう。そう思うのにあと一本、本当にあと一本だけ、そう思ってしまう乙女心も、恋をしたことある人なら必ず身に覚えがあるんじゃないかな、と。
そしてそれは拍手にある乱馬も同じだと思うんです。
余計なことはいくらでも言っちゃうくせに相手に影響を与えるような事は言えない臆病さがあって、結局どっちも同じだけ好きなんでしょって背中を押したくなりながら書いていました。
会えた瞬間、大袈裟に愛の言葉を囁くことはなくても、「おかえりなさい」「ただいま」だけで通じる二人の世界があるって羨ましいです。
やっぱり乱あってかわいいなぁって再認識しちゃいました。(今さら…)
2018/06/28 Thu 03:21:16 URL
Re: No title : koh @-
り~コメント主様

先週は大変でしたね。読者さんの方やTwitterのフォロワーさんからも現地の状況を聞き、かくいう我が家も大阪に住む一人暮らしの叔母となかなか連絡が取れなくてヤキモキしました。
地震だけは正確に余地なんて不可能だからずっとお子様の傍にいられないのも無理はないですよ。それでもダッシュでお母さんが飛んで来てくれてお嬢様は心強かったと思います。
東日本大震災の日、我が家はちょうど下校の時刻でまだ幼い娘を抱えたままどうしようと玄関まで出たところ、息子が帰宅。家に入るなりわあっと泣き出して、それから普段は車で20分の道のりを2時間以上もかけて甥っ子の小学校まで迎えに行ったことを思い出します。なにはともあれ、怪我がなくて本当に良かったです。
そしてバクバクと落ち着かない心境から少しだけ気持ちを切り替え、こうして息抜きに遊びに来ていただいてとても嬉しく思います。
リアルな生活に余裕がないとなかなか楽しむ気持ちって湧いてきませんよね。
まだまだ完全には気を抜けないと思いますが、また気が向いた時にぶらっと遊びに来ていただけるようお待ちしていますね♡
コメント主様も大変な中、ありがとうございました。
2018/06/28 Thu 03:31:37 URL
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2018/07/22 Sun 21:23:01
Re: あったかい : koh @-
お~コメント主様

わーい、ありがとうございます。
自分で書いた作品は(クオリティはともかく)どれも自分の分身として可愛いのですが、このお話は我ながら気に入っていて。
きっとこの日はこんな気分だったんです。
劇的なことが何もない、ただの日常の中で普通の女の子として過ごすあかねちゃんを書きたい。そんな気分。
それにしても恋をするってドキドキしてハラハラしてシクシク痛くって、幸せな時間より悩んでしまう時間のほうが長いのかもしれません。それでも嬉しさを共有した時、一瞬にして輝く笑顔って宝石みたいだなぁって。
コメント主様のおかげで私ももう一度読み返したくなってきました。
知らず知らずに疲れがたまってきた時ほど、二人にしかわからないくらいの光を感じるこんなお話が心地よく感じます……。
いただいたコメントが嬉しくて、またがんばれそうな気がします。ありがとうございました。
2018/07/22 Sun 22:56:31 URL
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2018/10/19 Fri 09:42:13
Re: こんにちは。 : koh @-
Y~コメント主様

わわわ…っ、前回図々しくもちっかり宣伝してしまったこちらのお話を読んでくださったのですね。
ありがとうございます////
自分で言うのもなんなのですが、自分の書いたお話の中でもこのお話は群を抜いて大好きなんです。
なんでしょう。もちろん、甘いお話も好きです。キスだってその先だって、がっつりRだって楽しんで書きます。でもそれすらない日常の二人を書けた時というのは、無言でぐっと親指を立てるような達成感と言いましょうか。おまけ要素なくても書けたという思いですごく満たされるんです^^。
あかねちゃんってあのなんでもありの世界で最も“普通”に近い女の子だと思うんですよね。だからこそ存在が際立って愛おしくて。
好きな人を待つ時間って無償じゃないですか。それでも会いたい。そこにあるのは純粋な想いだけで、今のように“すれ違い”という言葉が死語と化している社会で「携帯電話のない世界っていうのもいいものだな」と再認識させられました。
「ただいま」「おかえり」それを一番に言いたい相手がいる。パッと頭に浮かぶ相手がいるって幸せだと思います^^。
私?私は……なぜでしょう、真っ先に愛犬の顔が浮かびました笑。
好きな子と同居というのはなにかと危険なんですよ!そういう点、意外と乱馬って紳士で我慢強いなぁって思います。普通だったらうっかり間違えたふりしてお風呂の一つや二つくらい覗きそうですよね笑。
コメント主様とお話していたらまた“普通”を大事にした高校生編を書きたくなってきました。
ありがとうございました♡
2018/10/20 Sat 01:43:48 URL

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